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満員電車の悪夢⑨
私は驚いて動きを止めた。
「私を、覚えているのかい…?」
空は、怯えながらも小さく頷いた。
まさか自分の事を覚えているなんて思っていなかった。
1年も前の事だし、ほとんど会話もしていないのに。
「いい人だと思ったのに…っ」
驚いて固まっている私に、空は小さく言った。
「…あの日、っ、生きる希望とか、そういうのなくなってて…っ、ぅっ、でもっ、見ず知らずのあなたが傘をくれて、嬉しかった。ひっく、なのに、こんなっ、こんな事する人だなんてっ、思わなかった…ッ!」
空は強い口調で言い放ち、侮蔑するような眼差しで私を見た。
両腕で身体を隠し、目に涙をためて、まっすぐに私を見た。
その冷たい視線が私を苛んでいく。
空は続けて言った。
「あなたも、あいつと同じだ、ひっ、く、最低だッ!」
彼の「最低だ」という言葉が私の胸を突き刺した。
彼の言う「あいつ」というのが誰かはわからない。
ただ、私は彼に軽蔑されたのだ。
覚悟はしていた。
こんな犯罪をしているのだから軽蔑されるのは当然だ。
なのに、何故こんなに心が痛むのか。
簡単なことだ。
彼が私を覚えていてくれたから。
一度しか会ったことのない私をいい人だと思っていてくれたから。
そんな彼の純粋な気持ちを裏切ってしまったから。
後悔の念が波のように押し寄せた。
私は、理性を失って一体何をしているのだろう。
何てことをしてしまったのだろう。
「…車のナンバー、覚えたから、さっき」
何も言えずに呆然とする私に彼は言った。
「これで終わりにするなら何もしない。でも、これ以上、何かしたり、さっきの録音したやつばら撒いたりするなら、警察に言うから…ッ」
彼はそう言い放った。
そして、覚えた車のナンバーを言った。
あんな一瞬でナンバーを覚えたというのか。
盲点だった。
まさか、あの状態でそんな機転が働くとは。
空は、車の内側の鍵を開けて、外に出ようとした。
「まッ、待ってくれ!」
もう会えなくなるのは嫌だ。
叫ぶ私に彼は言った。
「2度と僕の前に現れないで」
俗物を見るような冷めきった目だった。
そして彼はドアを開けて、行ってしまった。
追いかけられなかった。
追いかけて良いはずがない。
理性を取り戻しかけた私は、自分のしてしまった事の重大さに今更気付いた。
もっと普通に接すれば良かったのだ。
それなのに、私は、欲望のままに彼を組み敷き、最低な事をしてしまった。
「あ、うああぁぁぁぁぁ」
私は、大声で泣いた。
誰もいない車内に、自分の醜い泣き声だけがこだましていた。
END
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※「あいつ」については、連載中の空の過去話「永遠の夏」の方をご参照くださいね!
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