4 / 178
第4話 無名の碑(1)
城の中庭に静かに眠る母は、名を刻む事さえも許されなかった。だがユリエルは遠征から帰ると必ずここにきて報告をしている。
ただ、次はいつになるのか。それを考えていた。
「兄上、やはりここにいらしたのですね」
不意に柔らかな声が廊下からした。そちらに目をやると、まるで陽だまりのような温かい笑みを浮かべた少年が立っている。
柔らかな栗毛に、大きなクルミ型の瞳は新緑を思わせる。純粋な心をそのまま形にしたような、優しい面立ちの少年だ。
「シリル」
「僕もそちらに行ってもいいですか?」
ユリエルの許可を得て、シリルは近づいてくる。そして同じように瞳を閉じ、手を合わせた。
この弟はとても優しい。いや、母子というべきか。
シリルの母はユリエルの母と親友だった。とても優しい人だった。その為ユリエルが疎まれる事を悲しみ、母亡き後は本当の息子と同じように慈しんでくれた。
ユリエルが王太子になれたのも、シリルの母の助力があったからだ。「長子のユリエルが王太子となるのが世の習わしだ」と、王に強く訴えて譲らなかった。その結果、ユリエルは無事に王太子の座に着いたのだ。
シリルの母も今は亡い。そしてシリル自身が十五歳となり、成人の儀を済ませた。ユリエルの立場は、揺らぎ始めている。
「兄上、しばらくは王都にいるのですよね?」
閉じていた新緑の瞳が開き、あどけない笑みを浮かべてシリルはユリエルを見る。
だがユリエルは苦笑するしかない。謀略にこの子は深く巻き込まれている。今はまだそんな事を明かして、この笑みを曇らせたくはない。
だがシリルは他人の心を読み解くことに長けている。曇ったユリエルの表情を見て何かしら察した様に表情を曇らせた。
「また、どこかへ行ってしまうのですか?」
「すみません、シリル。まだ少し離れる事になりそうです」
「僕が我が儘を言うべきではないと、分かっています。ですが兄上は少し忙しすぎます。せっかく戻って来ても、長くここには居てくださらない。体は大丈夫なのですか? 怪我などはしていませんか?」
優しく気遣うように、萎れた声が問う。その優しさはささくれ立つ気持ちを温かく包むようだった。
その時、また違う足音が廊下に響いた。体重のある者の、妙に堅苦しく規則的な足音。多少急いているのか、近づいて来るのが速い。
この足音の主をユリエルは知っている。そして、彼がここにくることは予測の範疇だ。
「殿下!」
「グリフィス」
廊下からユリエルを見つけて声をかけた男は、とても険しい顔をしている。
「殿下、話しを……」
「グリフィス、後にしてくれますか?」
「悠長な!」
「グリフィス」
声を荒げるわけではない。だがピシャリと言い放つ声には鋭い命令の色がある。それを感じ取ったからこそ、大柄な青年はこれ以上なにも言えずに困った顔で立ち尽くしてしまった。
「兄上、僕の事はお気になさらずに……」
「シリル、私に何か用事があったのではありませんか?」
さきほど大柄な青年に向けたのとは違う、柔らかく温かな声にシリルはおずおずと頷く。
「あの、お帰りになったと聞いて嬉しくて。お茶をご一緒にできないかと」
「いいですね。では、庭でしましょうか。今は薔薇が見頃でしょう」
穏やかに言って、ユリエルはシリルの背に手を回して促す。それにシリルは戸惑いながらも従った。
残された青年は物言いたげだったが、脇を通り過ぎていく彼を引き止める事はできず、困った顔で小さく一礼するのみであった。
ともだちにシェアしよう!