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第5話 無名の碑(2)

 のんびりとした午後のお茶を楽しみ、ユリエルは自室へと戻ってきた。  優しい弟との時間は冷たくなった心を解し、温めてくれるようだ。  だが、自室の前で待つ人物を見ると自分が何者かを思い出してしまう。予測はできていたのだが。 「お前も律儀ですね、グリフィス」 「殿下、そのように悠長にして」  青年の声は困ったような溜息混じりのものだった。そしてその表情はとても厳しい。  この青年の名はグリフィス・ヒューイット。タニス国一番隊を任される年若い将であり、この国一番の騎士だ。  短い黒髪に切れ長の黒い瞳をした精悍な顔立ちの青年で、なかなかの美丈夫だ。体つきは逞しく、衣服を脱いでも鎧を纏うかのように美しい体をしている。  ユリエルとそう年も違わず、同じ軍籍に身を置いていることもあって親交の深い人物でもある。 「とりあえず、中に入りなさい」  グリフィスを中に入れ、ユリエルは椅子に腰を下ろす。それに倣ってグリフィスも空いている椅子に腰を下ろした。  そして次には前置きなど綺麗さっぱり飛ばして、ユリエルに詰め寄るように話し出した。 「殿下、聖ローレンス砦へ赴任すると聞きました。事実ですか?」 「耳が早いですね。その通りです」 「何故殿下がそのような不遇を受けねばならないのです! 此度の戦も貴方の力なくして戦況を覆す事はできなかった。国を守った者を左遷するなど……。厚遇をもって迎えられて当然だというのに!」  グリフィスは怒りがおさまらない様子で声を荒げる。普通の者ならその怒気に当てられて萎縮するだろう。だがユリエルは苦笑する。こうもはっきりと一国の王に対して不満を言う者もそうはいないからだ。  シリルといい、グリフィスといい。ユリエルの側には自然と気持ちのいい者が多く集まっている。 「落ち着きなさい、グリフィス。聞かれていたらお前も不興を買いますよ」 「貴方が落ち着きすぎているのです、殿下。こんな事がまかり通れば兵も士気を下げます。こんなことが、許されるはずがありません」 「私の事は今に始まったことではありませんから。それに、今お前が王の機嫌を損ねては困るのです。お前には、シリルを守ってもらわなければ」 「守る、ですか?」  ユリエルの言葉に、グリフィスは一度怒りを収めて問い返す。ユリエルはゆっくりと頷き、険しい顔をした。 「今回の戦い、私は腑に落ちないものを感じています。ルルエ軍の引き際があまりに良すぎる。まるで示し合わせたかのようです。何か裏があるように思えてなりません」 「ですが、ルルエに何が出来るというのです? ラインバール平原を平定しないかぎり、この国に侵入することは出来ないはずです。外の道は行軍には適さない。例え侵入出来たとしても、少数でこの国を落とす事は不可能です」 「そうなのですがね……」  グリフィスの言い分が正しいのは分かっている。両国を隔てる平原にはそれぞれの国が砦を構えている。この道以外、行軍に適してはいない。山道もあるが道のりは険しく、兵糧を運ぶには不向きだ。  加えて山を越えて町に入ろうにも、関所がある。不審な者があれば気付くだろう。  それでも何か嫌な予感がする。それが何かと問われれば答えようがないが。そして、こうした予感は大抵が当たるものだ。 「何にしても、あの子は自衛ができません。私の目が届かなくなれば、誰があの子に近づくかわかりません。容易に傀儡となるような子ではありませんが、気持ちのいいことではありませんからね。お前があの子の側にいて、有事の際には守ってください」 「それは勿論、そのつもりでいます。ご安心ください、命に替えてもお守りいたします」 「お前の命を容易く取れる者はそうはいませんね。信じています、グリフィス。その言葉、必ず守ってください」  最後は苦笑して、ユリエルは頷いたのだった。

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