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第45話 海の覇者(4)
「負け、ですわね」
フィノーラの静かな声に、ヴィトは悔しそうな顔をする。目には薄らと涙を浮かべ、負けを認められないような顔で睨み付けてくる。
だが、フィノーラはとてもスッキリとした顔で、ユリエルへと頭を下げた。
「どのようにでもなさいませ。私兵でも、奴隷でも」
「姉上、大丈夫だよ! まだ負けたりなんて…」
「いけないわ、ヴィト。お前は武器を失った。それに、これ以上抵抗すれば状況は悪化するばかり。温情をかけてもらえそうなうちに、降伏するのが賢い方法ですのよ」
そう言って跪こうとするフィノーラの手を、ユリエルは傷ついていない方の手で捕まえ、立たせた。その表情には、もうあの不気味な冷たさは残っておらず、天使が如くと言われた穏やかな笑みが戻っていた。
「私は奴隷など求めていません。ただ、協力者が欲しいだけです。そのように膝を折る必要はありません」
この言葉に驚いたのは、むしろフィノーラの方だった。負ければ捕虜となる事を覚悟していたのだろう。
「本当に、対等に取引をなさるおつもり? 一国の王太子たる御身が、ただの海賊を相手に」
「こちらは困って、協力を求めるのです。服従させるつもりなどありません。それに、そのようなマイナスの関係はいつか破綻を呼ぶ。内側から腐り落ちるなど、私は御免です」
さっぱりとした顔で言うと、ユリエルは手にしていたチャクラムをヴィトへと返してしまう。これにはヴィトも驚き、どうしていいか分からずにフィノーラを見るばかりだった。
「貴方ほどのチャクラムの使い手には、会った事がありません。楽しい試合でしたよ」
言葉通り楽しげな笑みを浮かべたユリエルを見て、周囲の者も呆気に取られたようだった。その中で、フィノーラは堪らない様子で声を大きく笑いだした。
「変わった方。でも、そうね…嫌いではないわ」
そう言うと、フィノーラはユリエルに背を向ける。そして、自身の船へ向かって声を張り上げた。
「勝負は決した! 我ら『バルカロール』は、これよりユリエル殿下個人へ忠誠を誓う! 我らが恨み成就するその時まで、我らは殿下のお味方となるぞ!」
これまでの彼女からは想像もつかない大きくドスの利いた声に、ユリエルも他の面々も驚く。だが、振り向いた彼女はとても優雅に一礼し、艶やかな笑みを浮かべた。
「これでも海賊の頭目。部下を従える声は持っていますのよ」
「勇ましい姿ですね」
「嬉しいような、そうではないような複雑な心境ですわね。ですが…今は褒め言葉と受け取りましょう」
ヴィトも立ち上がり、葛藤しながらも頭をちょこんと下げる。そして、ユリエルを見た。
「姉上に、酷い事しない?」
「そんな気はまったくありませんよ」
「…それなら、いい。僕は姉上に従う。今から、味方になる」
どこか頼りなく、拙さの戻ってきたヴィトに驚きながらも、ユリエルは穏やかに笑い、手を差し伸べる。互いに握手して、それで全ては丸く収まる…はずはない。
「話が纏まったなら、さっさと治療するなりなんなりしなよ、殿下。いい加減、貧血起こしそうだよ。こっちは船酔いでしんどいんだから、早く血止めてね」
ぐったりした様子のレヴィンが言って、傷ついた手を引っ張り上げる。その意外な強さと、怒ったような冷たい瞳を見て、ユリエルは苦笑した。
「青い顔して、よく言いますね」
「俺はいいんだよ? 帰ってグリフィス将軍にこってりと怒られてもさ」
容易に想像のつく光景に、ユリエルも困った顔をする。そして、フィノーラ達へと振り向いた。
「貴方達の船は三隻あると聞いていますが、今は二隻ですね。一つはアジトですか?」
「えぇ、そうですわ」
「では、本船だけ私を乗せてマリアンヌ港へと来てください。一隻はアジトに戻り、この事を伝えてください。正式な話と、今後の事についてはマリアンヌ港にある私の邸宅で」
「私たちの船に乗り込むおつもりなの?」
目を丸くして問うフィノーラに、ユリエルは平然と頷く。溜息をつくのは背後のレヴィン。そして苦笑するのは、近づいてきたアルクースだった。
「変わったお人だけれど、悪い人ではないんだ。少なくとも、俺達にとってはね。悪いけれど、この船がルルエの密偵なんかに見とがめられていると良くないから、君達の船に乗りたいんだよ」
「そういうこと。いいわ、乗ってちょうだい」
接舷した船へと先に渡るフィノーラの後に続き、ユリエル、レヴィン、アルクースが乗り込む。最後にヴィトが乗り込むと、鎖が外され船は別れた。
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