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第56話 王都包囲網(開戦)
【ユリエル】
朝靄が、深く濃く垂れこめる。一メートル先が見えないほどだ。
ユリエルはその先へと厳しい視線を向ける。風のない、静寂の朝だった。
「動きますかね?」
「動きますよ」
背後に立ったグリフィスが問いかける。それに、ユリエルは厳しい眼差しのまま答えた。
「手筈通りに行きます。グリフィス、気を抜くな」
「畏まりました」
律儀な足音が遠ざかる。既に兵はいつでも動けるようになっている。後はただ、ファンファーレが鳴るだけだ。
朝靄を散らすように、僅かに風が吹く。その瞬間、大きな太鼓の音がした。
「敵襲! 背後に迫られています!」
にわかに場が緊張する。ともすれば騒々しくなりそうな兵達の前に立ったのは、グリフィスだった。
「狼狽えるな!」
その一喝で、全ての兵が冷静さを取り戻しただろう。本当に頼もしいばかりのグリフィスの姿に、ユリエルも安堵した。
「手筈通りに動きなさい。一千は私に続き正面を、二千はグリフィスに続き後方を守りなさい。残り一千は本陣を守れ!」
この言葉に、兵は士気を取り戻した。
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【グリフィス】
グリフィスは本陣を背に前を睨む。
意外と敵は多い。何より、霧に紛れて進軍してきたルルエ軍は意外と近くまできていた。ここでグリフィスが落ちれば挟撃される。ユリエルが危ない。
「気を引き締めよ! ここは死地ではないぞ! 生きて国を我らが手に取り戻すのだ!」
「「おぉぉぉぉ!」」
地が揺れんばかりの声に、グリフィスの方が勇気づけられる気分だった。そして、前を睨み剣を高々と天へ突き上げた。
「進軍!」
雪崩を打つような声と土煙の先頭に立ち、グリフィスは馬を駆って敵軍へと切り込んだ。
槍を手に、馬上の敵を薙ぎ払う。落馬した敵兵には構うことなく、敵陣を切り裂くように進む黒馬と黒騎士を、ルルエ軍は止められない。グリフィスは向かう敵の全てを倒していった。
倍はいただろう敵がみるみる減っていく。だが、振り向いた戦場には敵ばかりが転がるわけではない。それを見ると、勝たねばと思う。グリフィスは槍を握り、尚も戦場を疾走した。
「タニス軍のグリフィス殿とお見受けする!」
剣の交わる鋭い音に混じり、馬蹄の音が近づいてグリフィスに迫る。それを正面にとらえたグリフィスは、直後に強い斬撃を受けた。受け止めた槍が僅かにしなるほどだ。
見れば三十代半ばほどの騎士が一人、グリフィスを見据えている。身なりもよく、隊を預かる者のようだった。
「戦場の死神と呼ばれる貴殿と、こうして剣を交える機会があろうとは。是非とも一戦、願いたい」
馬が離れ、改めて双方が睨みあう。グリフィスの馬ローランは苛立ったように前足をかく。その首を撫でて宥めてやりながら、グリフィスは思案した。
そこそこ腕のいい騎士だ。乱戦状態の今、キエフ攻略は時間が命。何よりこの将兵を討ち取れば、この部隊は瓦解し撤退を始めるかもしれない。それこそが、グリフィス達の狙いだ。
殺気を込めたグリフィスの槍が、相手を狙う。それに合わせて敵将もまた、槍を構えて突進した。互いの槍が迫る。敵将の切っ先は真っ直ぐにグリフィスの胸を狙っている。
分かったうえで、グリフィスはその槍先を当てて軌道をずらした。そしてすれ違いざま、相手の馬の腹を思いきり蹴りつけた。
驚いたように高く嘶き、馬は前足を持ち上げて立ち上がり、背に乗せた主を振り落としてしまう。地面に転がった敵将の首を、グリフィスは正確に突き通した。
舞い上がった血柱は戦場においても派手な演出だった。手を止めた敵兵の顔に、明らかな恐怖が浮かぶ。黒衣を赤く染めたグリフィスが、辺りを睨み付けるのにもう、耐えられる者はいなかった。
「撤収だ…」
どこからか起こった声が拡大し、拡散していく。蜘蛛の子を散らすように敵兵は引き上げていく。
タニス軍はそれを追い込むように包囲しつつ、だが一定の距離は保った。途中でよろけたり、蹲る者には見向きもせず、ひたすら逃げる兵を囲い込んでキエフへと向かっていく。網で魚を追い込むがごとくだ。
「砦へ連絡しろ。生きてる者は運び込んで手当てしろ。無事な者はとりあえず牢へ運び込む」
「は!」
グリフィスの指示に従い、兵の一人が馬首を巡らせ一番近い砦へと向かっていく。それを見届けてから、グリフィスは緩やかにローランの腹を蹴った。
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