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第67話 初恋(2)

【レヴィン】  シリルとは距離を置く。そう決めたはずなのに、胸の内はすっきりとしない。  気持ちを変えようと町に出てみたが、あまり効果はなかった。上辺だけの関係が、とても虚しく思えて興が乗らないのだ。 「らしくない…」  与えられた部屋に戻って酒を煽るが、これも美味しくは感じない。胸のどこかに穴が開いたような虚しさがある。この不可思議な感覚に苛々してしまう。  そもそも、シリルとはそういう関係ではない。子犬のように慕われて、それが少し嬉しかったりしただけだ。とても素直に接してくれるから、どこか癒されただけなのだ。  それだけのはずだ…。  トントン。と、不意に扉がノックされる。気怠くて、レヴィンは動く気になれずベッドに横になる。けれど次にかけられた声に、体は正直に反応した。 「起きていますか?」 「!」  思わず上半身を上げて扉を凝視した。その声を間違うわけがない。手が、ほんの僅か伸びて落ちた。  開けるわけにはいかない。距離を置くのが互いの為だと思ったはずだ。 「僕と話しをしてください。お願いします」 「…」  息を潜めているのに、その声はここにレヴィンがいると確信しているようだった。  長い沈黙が支配する。扉の前の気配は消えない。開けるべきか、声をかけるべきか、それとも沈黙を守るか。レヴィンは迷っていた。 「…明日の夜、噴水の傍で待っています」  それだけを残し、気配が遠ざかっていく。そうして完全に消えてしまってから、ようやくレヴィンは息をついた。  また胸に、例の痛みが走る。純粋な子に穢れた自分が近づいた報いなのだろうか。そんな事を思うようになっていた。 「ふぅ…」  レヴィンの部屋から見下ろすそこに、噴水のある庭がある。この城で噴水のある場所はここだけ。間違えようもない。  行くわけがない。行って、なんて言えばいい? 言い訳をするか? それとも剣を差しだして、罪の清算を彼に任せるか? それもできないだろう。そんな事、あの子にさせられない。  レヴィンの心は定まらないまま、夜は静かに更けていった。  翌日の夜、レヴィンは部屋から外を眺めていた。  噴水の周囲を囲うように、綺麗にかられた生け垣がある。そこには噴水を眺めるようにベンチも置いてある。シリルはその一つに腰を下ろして、レヴィンがくるのをかれこれ二時間は待っている。  いい加減、諦めるだろう。窓から眺めていたレヴィンも、さすがに無視するのが辛くなってきた。  今は気候がいいとは言え、夜は冷える。特に水の傍は冷え込みが酷い。薄着では風邪を引いてしまう。  二時間を過ぎて、三時間近くなってきた。細い体は震えているように見えて、レヴィンはたまらず傍の外套を掴んで駆けだしていた。  生垣を挟んで、レヴィンは一度立ち止まった。どんな顔をしていいか分からない。でも、諦めてもらうのがいい。  いっそ全てを打ち明けて嫌われてしまうのがいいかもしれない。ユリエルが関わった事はどうにか伏せて。  心が決まった。レヴィンは歩み寄って、生垣を挟んだままシリルの頭に外套を投げ込み、見えないように草陰に身を潜めた。 「いつまで待ってるつもりだい? いい加減諦めてくれるとよかったのに」  恨み言のように言った。だがそれに返ってきたのは、とても嬉しそうで柔らかな声だった。 「待っています。貴方は来てくれると、信じていたから」  揺らぎないその言葉に、揺れるレヴィンの心は余計に不安定に軋む。 「俺は君に合わせる顔がないんだよ」 「貴方が兄に命じられてしたことは、知っています」  その言葉に、レヴィンは思わず振り向いた。あるのは生垣の緑だけなのに。情けなく、驚いた顔をしていただろう。見られなくてよかった。 「…軽蔑するかい? 殺したいなら、構わないよ。それだけの事をした自覚はあるから」  考えていた事は、こんな事ばかりだ。自分がこんなに根暗だなんて、レヴィンは知らなかった。浮上させることにも失敗し、こんなにも落ち込んでいる。 「軽蔑なんてしていません。貴方は悪くない」 「十分悪いさ。これが知られたらどうなると思う? ユリエル様はきっと処刑されるし、俺も死刑確実だよ」 「誰にも知られたりはしません。誰も、兄を裏切らないから」  揺らぎない言葉は、羨ましくも思う。シリルは信じているのだろう。人は善であると。でもレヴィンからすれば、人の根本は悪に思えた。 「…信じる者は裏切られるよ」 「そうだとしても、誰も信じないよりは信じていたい。僕は、貴方を信じています」  「信じている」その言葉は簡単で重たい。レヴィンはその言葉を信じないようにしてきた。信じれば裏切られるのだから。  でも、この真っ直ぐな少年の心は信じられるように感じる。もう一度、希望を見ようとしている。それを感じさせるから、困る。 「レヴィンさん、傍に行ってもいいですか?」  切ない声に問われる。レヴィンは溜息をついて立ち上がり、シリルの隣に腰を下ろした。途端、新緑の瞳が嬉しそうに笑いかけてくる。この笑みがどれだけ綺麗で、苦しく感じるか。 「レヴィンさん、僕では貴方を守るなんて、傲慢な事は言えないけれど、傍にいるくらいはしたいです。役に立てるように頑張ります。傍に、いさせてくれませんか?」  切ない声が、願いが迫る。これに背を向ける事を、理性が訴えてくる。けれど感情は、逆の事を言い続ける。レヴィンは困ったように笑うばかりだった。 「俺はシリルを泣かせるばかりだと思うけれど?」 「強くなります」 「俺の為にそこまでするメリットは?」 「僕の気持ちが穏やかで、温かいからです」  強い瞳が見上げる。こんな所ばかり、兄弟で似るものだ。まるでユリエルを思わせる強い瞳に、レヴィンは困り果てた。  いや、こうなれば結果は見える。多分、どれだけ言い訳をしても、理屈をこねても、レヴィンは負けるんだ。 「僕は、レヴィンさんの事が好きです。傍にいたいと思います。受け入れてほしいなんて、言いません。でも…お願いです。傍にいる事まで、嫌だなんて言わないでください」  シリルの言葉は吹き込むように心に入ってくる。幼い子の精一杯の体当たりと、切ないくらいの勇気。  そっと、冷たくなった肩に手を回して、引き寄せてみる。素直に腕の中に納まったシリルを抱きしめて、心は不思議と凪いだ。後には温かなものが残っている。  何かが腑に落ちた。恋情というほどの激しさはないが、この幼い子はいつの間にか失い難い存在になったのだろう。もう逆賊扱いされても、人殺しと言われても、何も傷つきはしない。苦しかったのは、この子を泣かせてしまったから。泣き顔が胸に刺さって、痛かったから。 「悪い男に捕まったね」 「いいえ。とても素敵な人を捕まえたのです」  何も疑う事もなく、嬉しそうな笑みを浮かべられると罪悪感がある。思うのは、この子の為に胸を張れるようになろうという気持ちだった。 「傍にいるだけなら、いいよ。でも、泣かれるのは困る。それではダメ?」  悪戯ないつもの笑みを作って、レヴィンは問いかけた。それに、シリルは嬉しそうに笑い、頷いた。 「では、今日はもうお休み。夜更かしして、君の怖いお兄さんに怒られるのは嫌だからね」 「兄上はそんな事しませんよ。それに、そうなったら僕が守ります」 「うーん、意外と強いな。でも、今日は俺も疲れたから。やっと少し長いお休みが貰えるんだから、ゆっくりでいいよ」  そう言って立ち上がったレヴィンにつれられるように、シリルも立ち上がる。そして二人連れだって、城の中へと戻っていった。

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