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第71話 悲愴(2)
エトワールが連れてきたのは、しっかりとした宿屋の一室だった。室内は清潔で明るく、ベッドには柔らかな布団がある。ユリエルは心配で、エトワールを見た。
「こんな立派な宿…」
「最後の思い出だから、構わない」
力なく笑い、エトワールはテーブルセットに腰を落ち着ける。ユリエルは備え付けの茶器を使って茶を淹れ、それをエトワールの前に置いた。
「手馴れているな」
「昔はそれなりの生活をしていたのですよ。嫌になって、今はこうですが」
苦笑して座ると、エトワールは穏やかに「そうか」と言って茶を口に運ぶ。そしてホッとした顔で「美味しい」と返してくれた。
「一体何があったのですか?」
様子の違いを見ると、よほどの事が彼の身に起こったのが分かる。旅人を止めてまでやらなければならない事とは何なのか。ユリエルの胸を不安が占めていく。
エトワールはたっぷりと考えてから、静かに瞳を一度閉じ、口を開いた。
「俺はそれなりの家の出だが、今まで自由にしてきた。三つ上の従兄弟がいて、そいつに任せてきた。あまり、家の仕事が好きではなくてな。甘えていたんだ」
弱った表情で苦笑するエトワールは、それでも穏やかだ。
彼の家がどんなだったのか、聞いてみたい気もした。だが、それは止めた。あまり深く踏み込めば、ユリエルも話さなければならなくなりそうだった。
「その従兄弟が、一月ほど前に死んだんだ」
「!」
苦しそうな声は、ユリエルに衝撃を与えた。胸の奥がズキズキと痛む。目を見開いたまま見つめたエトワールの表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。
「どう、して?」
「…タニス王都で、戦って果てた。あいつは、騎士だから」
「!」
息ができないくらい苦しくて、胸が痛んでたまらない。罪悪感に押し潰されるなんて、初めてだ。こんなに痛むのは、初めてだ。
殺した者の誰が、彼の大切な人だったのだろう。その者を、殺したのは自分ではないのだろうか?
「リューヌ?」
驚いたようなエトワールが傍に来て、強く抱きしめてくれる。胸に顔を埋めて、ユリエルはただ涙を止められなかった。
「どうして君が泣くんだい?」
「…大切な人を失う苦しみを、思い出したのです」
本当は違う。本当は、土下座して謝りたい気持ちでいっぱいだ。だがそれはできない。第一、なんて言えばいいんだ? 自分がタニス王であると告げるのか?
「悲しい思いをさせてすまない。だが…いいんだ。俺も落ち着いた。聞いた時は憎しみもあったが、騎士は戦うのが使命だから。運命が巡ったのだと、受け止める事はできた」
「エトワール…」
「ただ、これで逃げる事が出来なくなってしまった。俺の使命を、果たさなければならないんだ」
「騎士に、なるのですか?」
違う不安が押し寄せる。彼が騎士になったら、もしかしたら戦場で合いまみえる事があるかもしれない。そうなればユリエルは、戦えるのか? 心を殺す事ができるのか?
だがエトワールは静かに笑い、緩く首を横に振る。
「どうだろう。ただ、従兄弟は両国が平和であれるようにと願っていた。俺も、その為に力を尽くそうと思う」
「貴方らしいですね」
ユリエルはにっこりと笑った。そして改めて誓う。これ以上、二つの国の間で戦など起こってはならないと。
ふわりと大きな手が頬を包み、柔らかな金の瞳が覗き込む。そして、どちらともなく唇を寄せた。
ゾクリとするような一瞬の快楽の後に、優しい気持ちが溢れる。辛いも苦しいも、流されてゆく。
「リューヌ」
「はい」
「…俺と一緒に、来ないか?」
真剣な眼差しが見つめる。真っ直ぐな声が告げる。その言葉が、どんなに嬉しいか知れない。苦しい今、そこから逃げて彼について行くのはとても誘惑的だ。
第一、誰がユリエルの王位を受け入れてくれている。毎日、否定しか耳にしていない。
だが、それはやはりできない。
ここから逃げたら、この国はどうなる? 今のままで行けば、いずれ貧しい者が溢れだす。富める者は横暴となり、弱い者は踏みつけられる。戦争になったら、どうなってしまうんだ。
拳を握る。ユリエルはどこまでもユリエルであって、リューヌにはなれなかった。
「すみません…」
「リューヌ…」
願いと現状が合致しない苦しさに胸を握り、ユリエルは言う。また、涙が伝った。
「すみません、一緒には行けません…」
震える体を抱きしめる腕の中で、ユリエルは何度も願いを切った。それでもまだ、気持ちは訴えた。彼の傍にいることが、本当の願いなのだと。
「すまない、苦しませてしまった。君を苦しめるつもりは、なかったんだ。君の気持ちや事情を無視した俺が悪い。だからもう、泣くな」
「…離れたくは、ないのです。でも私は…一緒には行けないのです」
辛い心を押し殺して、それだけを繰り返す。そんなユリエルを、エトワールは頷いて、優しくあやすように背中を撫でてくれた。
「今日は、一緒にいよう。リューヌ、離れてしまっても心まで離れてしまわないように」
その言葉に、気持ちに、ユリエルは頷いた。そして、誓いあうようなキスをした。
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