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第109話 餓死の村

【シリル】  翌日、少ないお供でシリル達はドラール村を目指した。アビーから報告のあった村だ。  話し合った結果、村にはシリルとレヴィンだけが入る事になった。大人数で行って警戒されたくなかったのだ。  質素な旅人の格好をして徒歩で入った二人は、予想以上の惨状に言葉をなくした。 「本当に、こんな…」  とても静かで、人の気配がしない。けれど視線は感じている。あばら屋のような家。田畑は立派なのに、他はとても貧しくボロボロだ。それに、妙な臭いがする。 「腐臭だな。餓死者の死体を放置しているんだ」 「そんな…」  不意に思い出した記憶に、シリルは眉根を寄せた。それはロアールが始めにシリルに教えた時の事だった。  剣を握る事を決意したシリルを連れて、ロアールは砦の地下へと向かった。暗くて寒いそこには、厚い鉄の扉がある。その扉を開けると、目を覆いたくなるような光景が広がっていた。  けれどそれは、決して逃げてはいけない光景でもあった。 「これは…」  戦死した兵士の死体安置所。腕がない、足がない、首が取れかかっている。そんな遺体も少なくはない。そして酷い臭いだった。 「これが、お前が踏み込もうとしている世界だ」  それを告げられると、震えが足元から上がってくる。既に命のない人の亡骸。戦場で剣を握ることはこういう事だと、言葉よりもきついものでロアールは示した。 「剣を握らない相手に、戦士は寛容だ。特にお前は特別だからな。だが、剣を持つ人間には容赦しない。お前も、剣を持つ人間に寛容になるな。殺しにくる相手に優しさなんて持てば、ここに転がるのはお前だ」  ここに横たわる自分の姿を想像する。怖くて叫びたくなるし、逃げ出したくもなる。でも、違う事も考えた。ここに転がるユリエルの姿。ここに転がる、レヴィンの姿…。  踏みとどまった。そして、唇を噛んだ。足の震えは止められないが、逃げなかった。そして瞳を閉じて頭を下げ、ここに眠る人々の冥福だけを切に願った。 「…まぁ、合格だな。お前の兄さんよりも人間だ」 「兄上?」 「お前の兄さんにも同じ事をした。あいつは平然としていたよ。それどころか、直ぐに剣を教えろと言ったもんだ」  それだけ、強くならなければいけなかったんだ。そんなに、追い詰められていたんだ。自分の甘えを許されないくらいに。  シリルは手を握る。そして改めて前を見た。いつかここに転がる自分を想像しながら。でもきっと、後悔はしない。やらない後悔に比べれば、やって後悔した方がいい。 「剣を、教えてください。僕を、強くしてください」 「あぁ」  ロアールはそう、約束してくれた。  道を進むと店が見えてくる。少ない食材を高値で売っているが、こんなの買えないだろう。店先に並ぶリンゴを、子供が虚ろな目で見ていた。 「レヴィンさん、こんなのない…」 「こんなのは、どこにでもある光景さ。お前が生まれる前にも、大乱があって酷い状況になったことがある。その時も、こうした光景は日常どこにでもあった」  隣のレヴィンはとても真っ直ぐな、怖い目をしていた。隣にいるのに、遠くにいるような目。寂しいんじゃなくて、怖くなって袖を引いた。  紫の瞳がシリルを見る。途端に泣きそうな顔をされて、距離が近くなった。レヴィンはそのままシリルの手を握って大通りを外れていく。裏手には広場があって、そこにはあの地下室と同じ光景が広がっていた。  折り重なった人の山。酷い臭いがして、みんな虚ろに世界を映している。思わず目を背けたシリルの頭を撫でて、レヴィンは厳しい目を向けていた。 「行こうか」 「はい」  流石にここには居られない。村へ戻ると水場があったけれど、気分的にそれを飲む気にはなれなかった。側に腰を下ろして、レヴィンはそのまま項垂れてしまった。 「大丈夫ですか?」  様子の違うレヴィンが心配になる。シリルは髪に触れ、そっと覗き込んだ。疲れたような瞳が見つめて、弱く笑みを浮かべていた。 「早く死体を片付けないと、疫病が出る。体力が弱ってれば、余計に広がる。早々になんとかしよう」  痛そうな笑みを浮かべて立ち上がったレヴィンの服を引っ張って、シリルはもう一度座らせた。驚いたような紫の瞳を見つめ、そっと赤い髪を撫でる。戸惑ったようなレヴィンが、首を傾げた。 「どうしたの?」 「痛そうな顔をしていたので」 「どこも怪我してないよ?」 「…心が」  真っ直ぐに見て言うと、レヴィンは苦笑した。言っていいか迷ったけれど、この人に嘘や偽りはないようにしたい。思った事を伝えたいから、伝えてみた。  どっしりと腰を落ち着けたレヴィンが、苦しそうに笑う。無理に笑っているんだと分かる表情は見ていてとても痛い。けれど、シリルもそこから逃げはしなかった。 「レヴィンさん」 「なに?」 「一人で、抱えないでくださいね」  言えない事も沢山あるんだと分かっている。言いたくない事も多いんだって分かっている。けれど許されるなら少しだけ、一緒に背負いたい。一緒に悩みたい。それは、贅沢な事なんだろうか。 「ごめんね、心配かけて。でも、こればっかりは誰にも言わないんだ」 「レヴィンさん」 「そんなに責めないでよ。人にはね、言えない事がいくつかある。俺は、ちょっと人より多いんだ。ごめんね」  苦しそうなのに、無理に笑ってみせるから余計に痛々しい。シリルは瞳を伏せ、彼の手を握る。これが、今のシリルにできる精一杯の事だった。  しばらくして、二人は立ち上がった。そして再び大きな道に戻ってくると、先ほどとは様子が違っていた。村の人々が群がっている。 「なんでしょう?」 「行ってみようか」  手をつないでその群れに向かう。するとそこでは一台の大きな馬車が止まっていて、まだ若い青年が村の人々に温かいスープを振る舞っていた。野菜と、少しの肉が入ったスープを器に入れて手渡している。 「炊き出しか?」  近づいたレヴィンとシリルにも、青年は視線を向けた。だが、大きな鍋は既に空になっていて、青年は申し訳なさそうに頭を下げた。 「すみません、もう…」 「あぁ、いえ! 実は僕たち、旅の途中なのです。貴方は、この辺の人ですか?」 「はい。この村の管理役人をしております、イネスと申します。あの、申し上げにくいのですが、この近くで野宿は避けた方が」  まだ若い青年はとても言いづらそうにしている。地方役人を示す白い服は薄汚れて、若く黒い髪には栄養が行き届いていないのかパサパサしている。肌の色も悪く頬もこけて、見ていて可哀想になるくらいだ。だがその瞳には、まだ諦めていない光がある。 「酷い有様で、皆が飢えております。ここで野宿などすればどうなるか、想像は容易いかと。兄と二人で頑張ってはいるのですが、なかなか…」 「お兄さんも?」  イネスは頷き。馬車に乗ろうとするが足元はふらついて今にも倒れてしまいそうな状態だ。  見かねたレヴィンが担ぎ上げて馬車の荷台に乗せる。そして自分は御者として馬の手綱を握り、シリルにも乗るように促した。 「大丈夫ですか?」  イネスの側に寄り添ったシリルが声をかけると、とても弱々しく「すみません」と返ってくる。触れた体はとても痩せていた。 「家まで送ります。家はどこですか?」 「ここから西に五百メートルほど行った所にある屋敷です」  シリルはレヴィンにそれを伝え、ほどなく馬車はゆっくりと走り出した。  馬車に揺られながら、イネスはよろよろと起き上がる。具合の悪そうな顔で、それでも頑張って平静を保とうとする姿が痛々しくて、シリルは拒む彼を寝かしつけた。 「無理しないでください。ボロボロです」 「ですが、こんなところで倒れている場合ではないのです。大丈夫ですから」 「ダメです! 貴方が体を壊しては、何も成し遂げられません」  少し厳しい言い方だったかもしれない。イネスはすっかりしょげかえって肩を落としてしまう。その後はもう何も言わずに横になったまま、馬車が止まるまで一言も口を開かなかった。

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