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第110話 不満と疑惑
【シリル】
馬車が到着したのは、村から少し離れた屋敷だった。屋敷と言っても草は伸び放題で荒れ果て、修繕もできていない。人の気配もなく、寂しい廃屋のようだった。
「ここ、ですか?」
あまりの状態に思わず言ってしまったシリルは、無礼に気づいて口をつぐむ。だが、イネスは軽く笑ってフラフラしながら歩き出した。
「本当に、有り難うございました。何もありませんが、よろしければ今夜は泊まっていってください」
二人は顔を見合わせる。そして、少しでも状況が分かればとお言葉に甘える事にした。
扉を叩くと内側から音を立てて開いた。そうして現れた青年は、イネスとはあまり似ていなかった。
短めの黒髪に、黒い切れ長の瞳。細いがしなやかで、イネスよりも状態は良さそうだ。服は紺。おそらく、領地役人だ。
「誰だ」
鋭い眼光でシリルとレヴィンを見た青年にイネスが歩み寄り、事情を説明している。その間、レヴィンは青年から視線をそらさなかった。
程なくして青年が歩み寄ってくる。シリルは姿勢を正して、青年と向き直った。
「イネスが世話になった。俺は兄のヒューイだ。本当に何もないが、泊まっていくといい」
「助かるよ。このままだと本当に野宿だったからね」
調子よくレヴィンが旅人のふりをして話しかける。村を出れば馬車もあり、食べ物にも不自由はしないのにそんな事は全く臭わせない。そんな彼を見て、シリルは内心苦笑した。
「野宿は止めた方がいいな。村の状態を見ただろ? 馬だって無防備に繋げば数時間で骨も残らない。お前達も追い剥ぎに遭うぞ」
はっきり言って、笑えない話だった。
「外で話すのもなんだ、中に。イネス、お前は少し休め」
二人を案内しつつ、ヒューイは弟へ声を投げる。少し不満そうにしていたイネスだが、ヒューイに睨まれると渋々頭を下げて歩き出していった。
「弟は無理をしたがるから、いつか倒れるのではないかと思っていた。あそこで倒れていたら、それこそ身ぐるみ剥がされていた。食べず眠らず、それで体が持つはずがない」
「そんなにかい? まぁ、確かに不憫な感じはしたけれど」
イネスが居なくなった途端にこれだ。シリルは溜息をつく。
確かに可哀想だとは思った。寝ていないのも感じていた。けれどシリルはこの状況を現実のものと受け止めきれずにいた。あまりに酷くて。
「上は戦争ばかりで重税を強いるからな。所詮、国民など働き蟻程度にしか思っていないのだろう」
ダイニングの木製椅子に腰をどっかりと下ろしたヒューイは、重々しくそんな事を漏らす。それに、シリルは反発した。したかった。咄嗟に「兄はそんな人ではない」と言いたかった。
だが側に居たレヴィンがその口を無理矢理塞いだ。
「そうなのかい? 税金は取れ高の四割って他で聞いたけれど」
「四割? いや、八割だと言われて取られたが」
ヒューイが目を丸くして言う。たぶん、本当に知らないのだろう。それでも驚きは一瞬で、次には納得したような顔をする。暗く笑う姿は胸を締め付けた。
「通達は、いつも領主がしているのか?」
「あぁ。だが、どちらにしても上の役人は国民を見ていない」
「そんな事はないです!」
やっと解放されたシリルが必死に伝えようとする。兄はそんな人ではないと。
だが、向き合ったヒューイの目を見たら、言葉は声にならなかった。
「同じだ、どんな主も。どんな王が据えられても、民の生活が変わる事はない。犠牲になり、苦しんで死んでゆくのはいつも弱い奴らだ。隅々まで目が行かないのなら、どんな王でも暴君だ」
それは悲しく、重く、そして変えられない思いに聞こえた。
ユリエルはとても大変な思いをしながら国を動かそうとしている。でも所詮は人間だから、広い国の隅々まで、民に起こっている事の全てまでは見えない。神様ではないのだから。
隣のレヴィンが頭を撫でる。見上げると、真剣で悲しそうな目をしていた。
「こんなに村が貧困に苦しんでるのに、領主は何もしないのかい?」
レヴィンが静けさに石を投げる。それは見えない波紋のようにその場にいる人に広がっていく。ヒューイが顔を上げ、何かを言いたげにしながらも口をつぐんだ。
「実は明日、トインに行こうと思ってるんだ。とある人のお使いを頼まれててさ。そこの領主に書簡を届ける途中なんだよ」
「レヴィンさん!」
ヒューイが目を丸くして、胡散臭そうにレヴィンを見ている。示し合わせて使者という事を隠そうと話していたのに、あっさり言ってしまった。
驚いてオロオロしてしまう。何を考えているのか分からずに、シリルはただ見守るしかなかった。
「旅人にしては身なりがいいと思ったが、そういうことか…」
「あの村で一泊して行く予定だったんだけど、無理そうだったからね。一日泊めてくれると嬉しいんだけど」
「そのつもりだと言ったはずだ。二階の部屋は全て空いている。好きに使って構わない」
礼を言って、レヴィンはシリルを二階へと促す。退室する前、シリルは残されたヒューイを見た。腕を組んで考え込む姿は、先が見えずに苦しんでいるようだった。
二階の一室を借りたシリルは、同じように入ってきたレヴィンを睨み付けた。
「どうして正体を隠していたのに、ばらしてしまったのですか?」
理由があるはずだ。けれどそれが見えないから、不安になる。
レヴィンは誤魔化すようにそしらぬ顔をしている。その態度に、シリルは余計に瞳をつり上げた。
「レヴィンさん!」
「そう怒らないで。ほら、お兄さんに似てくるよ」
「兄弟ですから」
「うーん、可愛くない答えは好みじゃない」
レヴィンがわざとらしく怯えて見せるのもなんとなく嫌で、シリルは余計に怒った顔をする。けれど次にレヴィンは苦笑を浮かべて、椅子に座った。
「彼は領主に不信感を持っていると思う。だから協力できれば、領主の悪事を暴く助けになると思ったんだ。暴く事ができれば失脚できるし、危険も減らせるからね。税に関する罪は重罪、しかも統治すべき村でこれだけ餓死者が出ている。間違い無く死罪だよ。おそらく被害はこの村だけじゃなく、周囲も同じだからそっちも助けられる」
レヴィンの考えを聞いて、シリルも深く頷く。同時にイライラしてしまった事を後悔した。この人はちゃんと考えがあるんだって、知っているはずなのに。
確かに税に関する罪は重い。程度にもよるが、これは悪質だ。更に管理すべき領地でこれだけの餓死者を出したとなれば領主の能力まで問われる。証拠さえ揃えれば、法で裁く事は簡単だ。
「俺の案はこういうもの。ダメかな?」
「いえ、いいと思います。明日訪問する予定の領主は、兄が殺せと命じた人なのですか?」
「うわぁ、直球で聞くね。まぁ、否定もしないけれど。確かにターゲットの中に居たよ。でも、絶対じゃない。状況を見て酷いようなら対処して欲しいって感じ」
「それでも、知っていたのですね…」
知っていても、何もできなかったのか。シリルは考えてしまう。この横暴がまかり通る国になっていたなんて、城でぬくぬくと育っていた頃は知らなかった。世界はとても綺麗だって信じていた。今思えば、信じさせられていただけだったんだ。
「知ってても、手が出なかったんじゃないかな。ユリエル様への反発は大きいし、敵は巨大で腐った欲が長年根を張っている。あの人が今やろうとしていることは、この病巣を切除して治療する荒療治だ」
気遣わしい笑みが痛く映る。知らなかった世界はあまりに酷い事がまかり通っている。そんな世界で、ずっとユリエルは戦っていたんだ。
「不器用だからね、あの人も。もっと楽な道なんていくらでもあるよ。あの人との事だってそうだろ? こんな腐った国なんて捨てて、あの人の手を取って逃げたってよかったのにさ。頑張れば頑張るほど苦しむ事は目に見えているのに」
「…それをしないのが、兄なんだと思います」
辛くても踏ん張って、負けないように前を見て。痛々しい生き方だって、シリルも思う。もう少し幸せになってもらいたいって。
でもそれも、できないんだ。王であろうとする気持ちが、個人の幸せを優先させてくれないんだ。
「シリル、覚えておくといいよ。世界は常に関わり合いだから、決して自分一人の思いで動く事はない。それでも動かしたいなら、何かを犠牲にして痛みを負わなければいけない。その覚悟のある人だけが、世の中を動かす可能性を持っているんだよ」
寂しそうで、悲しそうで、痛そうな顔。今日はレヴィンのそんな顔を沢山見る。側に居ると胸が痛くて、締め付けられる。そしてこの表情は、兄のものにも似ていた。
この人に何かしてあげたい。でも何ができるのか分からない。精一杯に探して、シリルは柔らかく笑って頷いた。レヴィンの手を取って、静かに頷いた。
「僕の世界は小さいけれど、やっぱり簡単には回ってくれません。レヴィンさん、僕は犠牲を払う覚悟があります。僕に差し出せるものなら、見えるものも見えないものも。だから、僕の世界を守る手伝いをしてもらえますか?」
弱いなりに決意をしてきた。大事な世界は簡単に壊れるんだと、シリルは学んだ。誰かの犠牲の上に幸せが成り立っていたんだと知った。できる事はないかと模索して、そして僅かに掴んだところだ。それを失わない為なら、何だってできる気がした。
シリルの言葉を聞いて、レヴィンは苦笑しながら頷いてくれた。そして労るように、優しく頭を撫でてくれた。
「僕はこれから、ヒューイさんと話をしてきます。隠さないなら、こっそりお願いしようと思います。誠意を持って話せば、大丈夫だと思います」
「そうだね、いっておいで。その代わり、あまり詳しくは話さないようにね。あくまで表面上の事だけを言うんだよ。あまり詳しく知りすぎると、彼の為にもならないからね」
国をまたぐ陰謀だとか、家臣の黒い謀反なんて物騒な事はかくしておかないと。変に知られると秘密がバレてしまうかもしれない。シリルは頷いて部屋を出て行った。
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