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第111話 もう一人の天使
【レヴィン】
静かになった室内から、レヴィンは外を見ていた。そこに、違う誰かの気配を感じたからだ。だが敵ではない。こっそりとコンタクトを取っていた人物のものだ。
「そこにいるだろ、フェリス。ここに来たって事は、俺に協力する気があるってことか?」
姿の見えない相手に声をかけると、どこからか小さな女性の笑い声が聞こえてくる。それはとても愉快そうな笑い声だった。
「あんたも変わったわね、レヴィン。すっかりあの小さな王子様にメロメロじゃない」
「いいだろ? あげないからな」
「いらないわよ、さすがに。犯罪の域じゃない、あれ。それに、私はロマンスグレーが好きなのよ」
なんて、昔馴染みと冗談のような雰囲気で話をする。だが不意に、その雰囲気が緊迫したものになった。張り詰めた糸のような緊張感。レヴィンは静かに息を吸った。
「フェリス、仕事しない?」
「裏方の密偵と、ちょっとした細工だけならね。昔みたいな事はしないわよ」
「構わない。そっちは俺の役目だから」
たったこれだけで話が終わる。これで、契約成立だ。
「それにしても、そんなにあの子が大事? どんなに大事にしても、住む世界が違うわよ」
「分かってるよ。そんな大それた事を考えているわけじゃない」
「本当に? 今のあんたを見てると、なんか宝石箱にでも入れたい感じじゃない。でもダメよ、私たちの穢れはどうしたって消えないんだから」
ズバリと厳しい現実を突きつけられて、レヴィンはしばらく黙り込む。そして、深く息を吸い込んだ。
「どうせ、そう長くはないよ」
「……そうかもね」
互いに言葉が重かった。けれど、直視しないわけにもいかない。そんな雰囲気だった。
「残酷だよね。俺たち、何もしてないのに貧乏くじで」
「何もしてないは、ないんじゃない?」
「ははっ。まぁ、そういうことでお願い。先にこっそり領主館に侵入しといて。欲しい情報は、こっそり言うからさ。それと、シリルに気取られないようにね。あの子、意外と鋭いから」
「血は争えないってことね。了解、やっておくわ」
それっきり、声は聞こえなくなった。残されたのはレヴィンだけ。
一人になると考える事が多くなって、正直気持ちが重たい。けれど、必要な事だ。自分を見つめ直す行為で、これから逃げると後で後悔すると思うから。
「あ、そうだ」
「おわぁ! もう、戻ってくるならそれなりに合図欲しいな」
すっかり自分の世界に入り込もうとしていたレヴィンは、突然した声に驚いて声を上げる。すると声だけの彼女は笑い、まるでついでのように情報を投げていった。
「どうやら、この騒動には昔馴染みが絡んでいそうよ。多分、グランヴィルね」
それだけを残し、彼女は今度こそいなくなった。だが、レヴィンの心はますます凍り付いた。意識しないと、手の震えが止まらない程度には動揺している。瞳を強くつむり、飲み込もうと努力する。そして、痛々しい苦笑を浮かべた。
「大丈夫、守れるさ」
それは、言い聞かせるような一言だった。
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【シリル】
その頃シリルは、一階の台所にいた。お水をもらいに瓶を開ける。とっ、その背後に人の気配を感じて振り返った。そこには、ヒューイの姿があった。
「少し、話がしたいのだが」
「はい、僕もそう思っていました」
シリルは柔らかく笑い、水の入った茶碗と一緒に席に着く。そして、目の前のヒューイをしっかりと見た。
「お話はなんですか?」
「あぁ。名を、聞いていなかったと思って」
そういえばそうだ。失礼とは思いつつも、あえて名乗らなかった。その時点では正体を明かすつもりがなかったから。
でも今は名乗っても問題ない。むしろ名乗れば話がスムーズに進むかもしれない。
「失礼しました。シリルと申します」
「シリル?」
ヒューイは首を傾げて考えている。何か、引っかかっているかのようだ。多分この人も役人だから、聞いたことくらいはあるんだろう。そう感じて、シリルはしっかりと名乗った。
「シリル・ハーディングと申します」
「シリル…ハーディング!」
途端、ヒューイは椅子を降りて足元に膝をついて土下座しようとする。シリルは慌てて椅子から降りて膝をついて、彼の体を受け止めた。
震えながら、今にも床に頭を擦り寄せそうな彼を見るのがこんなにも痛いなんて、想像していなかった。
「王弟殿下とは知らず、数々のご無礼をお許し…」
「やめてください! こんな子供に、土下座なんてしないでください。僕はまだ子供です。本当に、今はただの平民と同じくしているのです。改まって、そのようにしないでください」
名が人を平伏させる。それはシリルにとって重荷でしかない。身分を考えるとそうなるのだろうけれど、せっかく知り合った人にそんな事をされると、途端に壁ができてしまうようで抵抗がある。
「とりあえず、座ってください。それと、今まで通りでお願いします」
シリルの取りなしで、ヒューイはとりあえず座ってくれた。けれど今まで以上の警戒心と恐れを感じる。
シリルは穏やかに笑いかけ、自分の為に汲んだ水を彼に差し出した。そして、あどけない少年のままで見つめた。
「先ほどはなんと…」
「だから、敬語はやめてください。公の場ではないのですし、僕もこの身なりです」
「…では、失礼して。先ほどはすまなかった。貴方の前で陛下を貶めるような事を」
「いえ。この現状の中で生活していれば、当然の感情だと思います」
酷い現状であることは間違いがない。何も知らずにこの世界にいれば、上への不満が募って当たり前だ。ユリエルもこの事態を危惧したのだろう。
でも、知ってもらいたかった。兄はそんな人ではないと。本当はとても、民の事を考えているのだと。そのために戦っているのだと。
「あの、これだけは分かってください。兄は考えていないわけではないのです。ただ、今は前線から抜けられない。それに、兄の心を正しく行ってくれる人も少ないのです。僕が各地を回る理由は、この現状を打破する事にあるのです」
「…話は聞いている。それに、こんな事は今の陛下に限ったことじゃない。ずっと、こんなものだ。分かってはいる。だが……苦しい現状が続いている。訴える場所もなく、先が見えないんだ」
ヒューイが苦しく項垂れる。彼を見て、膝をついて謝りたいのは自分の方だとシリルは感じる。冷たく悲しくなってくる。
兄はこんな気持ちを、いつも感じていたのだろうか。叶えたい事があるのに進まなくて、それどころか酷くなって、どうしたら良くなるのか分からずに苦しくなる。こんな苦しさとずっと戦っていたのか。
でも、そんな事を言っていられない。今この人達を助けられる可能性を持っているのは、シリルだけなのだから。
「ヒューイさん、お願いがあります。僕に…兄に力を貸してください」
戸惑った顔がシリルを見る。困惑が見える瞳が、だがやがて意思を持って強くなる。覚悟をした表情が、怖いくらいしっかりとシリルを見た。
「俺に、何ができる?」
「この村の帳簿を見せてください。取れ高と、収めた量を書き写させてください。後、気になる話を聞いてはいませんか?」
「そんなものを写して、何をするつもりだ?」
「領主が所有している帳簿と照らし合わせます。おそらく、合致しません。疑惑が生まれれば調べる理由ができます。そして、調べた結果をつまびらかにします」
シリルはやるつもりだ。これだけはしなければならないと、この村に来て思っていた。
疑惑を解き明かし、全てを公開する。それによって国民の関心を内政へと向ければ、戦争への気持ちがそれるかもしれない。そうなれば、ユリエルが打てる手が増えるのではないか。
そう考えていた。
「兄は……陛下は民を思っていないわけではないのです。一人で無理をする人だから、とても大変で苦しんでいるけれど、でもできる限りのことをしたいと思っているのです。だから僕に内政を教え、疑惑の追及を行うように送り出したのです。現状を見て全てを信じてくれとは言えません。けれど、見ていてください。必ず変えてみせます。今すぐは無理でも、時間をかけて」
探るようなヒューイの瞳を、シリルは真っ直ぐに見る。逃げる事も、伏せることもしない。彼の瞳には責めの色も多少はあるが、そこからも目をそらさない。そらしてはいけないんだ。シリルが逃げたら、誰がこの村を救えるのか。
「分かった、及ぶ限りの力を貸そう。だが、領主の下で俺が持てる力などないに等しい。どこまでできるか分からないが、それでもいいか?」
「はい、心強いです」
柔らかくシリルは笑う。その姿は天使のように優しく穏やかで、見る者を安堵させる。ヒューイも初めて穏やかな笑みを見せてくれた。そして改めて二人は握手を交わした。
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