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第126話 狂気

【アデル】  シリル殿下は他に甘い。父の言葉を借りるなら、そう言うだろう。  だがアデルはそうは思っていない。純粋で、優しいのだろうと思う。他者への優しさを忘れたような父とはまったく違う。  だからこそ、父の行いが正しいとは思えなかった。レヴィンの事だ。  二人の関係がどうなのかは分からない。だが、少なくとも主と従者という関係ではないだろう。シリルはレヴィンを大切にしていたし、レヴィンはシリルを労っていた。少し甘く、悩ましそうに。  父はこの関係を危険視している。シリルが一線を越える事を懸念している。ついでに言うと、上下の関係が曖昧になる事を嫌っている。自分はまるで王の様に振る舞うのに。  湯も借りて、少し落ち着いた。正直に言えば居心地が悪い。優しい少年に嘘をつき、大切な者を引き離したのだから当然だ。  だが、それを言っても変わらないだろう。父はあいつを返すつもりはない。間違いが起こってはならないと言って。  秘密の部屋に捕らえたまま、死ぬまでそこだ。窓もない地下の部屋は陰鬱で、アデルには恐怖でしかない。子供の頃、分からない事を言うとあそこに閉じ込められて一夜を過ごした。泣き叫んでも声は届かない、そんな場所だ。精神的に滅入るだろう。  アデルに自由はない。ずっと、見えない枷に魂を縛られている。逆らう事など虚しく、自由などない。職業も、おそらく妻もいいなりになるだろう。これは予想ではなく、近い未来だ。 「止めるか…」  考えれば沈む。今はつかの間の自由だ。初めてだ、自分の意志で決断したのは。本当は直ぐに次の目的地に向かうはずだった。  だが、心を砕いた相手に直接祝賀を贈りたいというシリルの心に、アデルは動かされた。とても良い主だ。とても、優しい人だ。  コンコン  ドアを叩く音に、アデルは視線を向けて扉を開けた。そして、そこに立っていた人物に首を傾げた。 「ヒューイ殿?」 「すまない、こんな時間に。もう、休まれるか?」  アデルは素直に首を横に振った。  トイン領の新しい領主は年も同じくらいで親しみやすい。以前は知らないが、今は自信を得て真っ直ぐに立ち、瞳に確かな未来を映しているようだ。初めて会ったが、好印象を受けた。 「実は、貴殿の話を少し伺いたくて」 「俺の?」 「あぁ。俺はこの領を任されてあまりに日が浅い。だがゆくゆくはジュゼット領のように人々が安心して、笑顔で暮らせる場所にしたいと思っている。そこで、貴殿の話に学ぶものがあるのではと思ったのだが」  穏やかに言われたが、アデルはそれに暗い顔をした。  確かに領地の仕事はしている。だが、教えられるものなどあるのだろうか。確かにジュゼット領は表面的には穏やかで笑顔溢れる場所だ。住んでいる民は受ける恩恵と就労の喜びに疑いを持っていない。  だが、この青年が父のような人間になってしまうのだけは避けたい。あのように、人の心を利用して他者を傀儡にするような人物には、なってもらいたくないのだ。 「俺に語れる事など…」 「アデル殿、それほど気負うことなどない。ほんの少し、雑談で構わない。なにせ分からない事や悩ましい事が多いのだ」  熱心に言われると断りずらい。真面目に考えている人への不親切はアデルも好まない。悩んだ後に頷いた。 「それでは、談話室に行こう。温かな茶を用意している」 「すみません」  そう言って招かれるまま、アデルは談話室へと場所を移した。  談話室に一歩踏み出す。その瞬間に、アデルは腕を取られて強引に引き倒された。驚いて見上げると体格のいい男が腕を捻り上げて背に乗っている。とても簡単に動けるものではない。  その後ろでヒューイが扉を閉め、鍵をかけた。 「これはどういうことだ!」 「僕がお呼びしました」  冷たく冷えるような抑揚のない声がする。アデルは月光を背にした少年を見上げた。  彼と居た時には輝くような新緑の瞳が、今は濁り曇り輝きを失っている。それでも見下ろす口元は笑っていた。 「アデルさん、お聞きします。レヴィンさんはどこですか?」 「!」  ゾクリと冷たいものが背を伝う。シリルはゆっくりと近づいてくる。その表情に感情が見えないから、怖かった。 「俺は何も…」 「…そうですか」  言うと、シリルは剣を抜いて目の前に突き立てる。月光が銀の刃を残酷に煌めかせた。 「脅しだと思いますか?」  思わない。いや、思えない。鮮やかな笑みに濁る瞳が嘘を言っていない。狂っている、そうは思う。だが、狂わせたのは自分であり父だ。 「殿下、あんまりおっかない事しないでよ。レヴィン泣くよ?」  横合いからまた違う男が出てきた。黒髪の目鼻立ちの整った男は、少し気の毒そうにアデルを見ている。 「僕は、レヴィンさんを取り戻します。その為ならどんな手だって使ってみせる。騙すことも、壊す事もいとわない。あの人が、僕の大切な人なんです」 「それは分かっているが…」  ヒューイが現れて、アデルを気の毒に見ている。だが、奥には自らが招いた事だという様子も窺えた。 「なぜ…」 「協力するのか? 当たり前だろ、二人は恩人だ。大体、玄関開けた時からおかしいのは分かってたんだ。あの男が例え主の命令だからって、シリル殿下の側を離れるものか。なんだかんだ理由をつけて絶対に拒むんだよ。二人を知っていれば、そんなの当たり前なんだ」  さも当然という様子で言ってのけたヒューイに、背に乗っている男も頷いた。 「さて、知っている事を教えてください。言わないなら、このままジュゼット領へと貴方を引きずって行きます」 「…俺を人質にしても無駄だ。父はそんなものに応じる事は…」 「国軍に囲まれ、目の前で一人息子が徐々に体を小さくしていっても、そう言いますかね?」 「え?」  信じられないものを見る目で、アデルはシリルを見た。まったく笑っていない目が見下ろしている。ゾクリと背に震えが走った。 「耳を、指を腕を。徐々に削がれていく様を見ても、国を正し、王を諫めるなんて言える者がいますかね?」 「冗談を…」 「冗談? 僕は冗談なんて言わない。本気です。あの男が五体満足にレヴィンさんを返さない時には、覚悟してください。失ったものを戻す事はできないので、僕は怒って貴方とあの男に八つ当たりをするかもしれません」 「そんな事! 王族たる身がそんな残酷な事をすれば民が!」 「民も王も関係ない! 加虐だと責めるなら責められたっていい。残酷だと陰口を叩くなら勝手にしていい。殺せと叫ぶなら、僕の胸に剣でも何でも突き立てればいい。失う怖さを前に、これ以上の痛みなんてない!」  叫ぶような言葉は痛みが強く苦しみが押し寄せてくる。シリルは泣いていた。泣いている事にすら気づかないほどに苦しみながら、曇った瞳を向けていた。 「レヴィンさんが消えて、苦しみに耐えられるとも思っていません。他にもいい人はいるなんて、想いを知らない者の言葉です。あの人がいるだけで、僕はどんなに辛くても戦える。痛くても耐えていける。けれど、あの人がいなくなったら世界は壊れてしまう。僕はその中で生きる事はしない」  静かに口にしたシリルが、剣を引いた。心の中を吐き出して、少し落ち着いたのかもしれない。  その時、ノックの音がしてもう一人男が入ってきた。優男のような男が身に纏っているのは国軍の制服。その男はアデルを気の毒そうに一瞥しただけで、直ぐにシリルの側へと来た。 「第三師団五百騎、いつでも動かせます。後、ユリエル陛下からの急使についても裏が取れています。ご本人には確認していませんが、昨夜レヴィン将軍らしき人物が砦を通過した記録はありませんし、急使を通した記録もありません」 「ご苦労でした、アビー将軍」  急速に進む事態にアデルは焦った。本当に国軍が五百もジュゼット領を囲えば、民はどうなる。シリルのこの様子では、簡単には終わらない。民が傷つく可能性すらもあるじゃないか。  しかもユリエル陛下を騙った事を本人が知ったら、どうなる。情に厚い方だと聞いている。前線が止まっている今、動こうと思えば動けるだろう。国の使者を監禁なんて、知れたらこちらが謀反人だ。  いくらオールドブラッドが横の繋がりを持っているとは言っても、このような事情なら見放されるだろう。「王を傀儡にしようとした」と言われ、捨てられる。この辺はとても冷淡な者達だ。 「まったく、面倒な事をしたものだね。ブラム殿も老いて気が急いたかな」  アビーは気の毒そうにアデルを見下ろし、乱暴に前髪を掴み上げる。言っている事と視線と行動が一致していない。これも狂気だ。 「シリル殿下の狂愛に気づけないようじゃ、いらない目だね」  こいつもよほど狂気だ。アデルは身に感じる恐怖に目を見開いた。 「シリル殿下、俺から一つお願いがある」  ヒューイが手を上げ、僅かにシリルが表情を崩す。それに安堵してか、ヒューイはとても良心的な提案をした。 「ブラム殿をここに呼んではどうだ」 「なぜ?」 「流石に責のない領民に必要以上の恐怖を与えるのは、領主という立場から賛成しかねる。罪があるとすればこの親子だ」 「連帯責任ではありませんか?」 「共謀も出来ない民を相手に無茶を言うのは止めてください。それでは貴方はブノワの圧政を正せなかったとして、トイン領に住まう民にまでその責を負わせるのですか?」  これには流石にシリルも考えた。考えたうえで、穏やかに笑った。 「分かりました、聞き入れます。手紙を送りましょう。明日の、日の落ちる前までに来なければ乗り込みます」 「直ぐにその旨を認めて急使を送ります」 「それ、僕が持って行くよ。僕たちは早いし、腕も立つしね」 「僕も同行しよう。アルクース殿だけでは守りに不安が残る。国軍を相手に手を出すほど、あの御仁も耄碌(もうろく)してはいないだろう」  シリルは丁寧に手紙を書く。それをアデルは絶望の眼差しで見た。こんなものに父が乗ってくるはずがない。子を見捨てる事など容易な人だ。  自分は殺される。それを無言のままに受け入れ、覚悟していると、不意にその目の前に何かが落ちた。続けざまに指先に触れた痛みに、小さく呻いてしまう。 「おい、殿下! こいつも手紙に添えてやんな!」  腕を押さえ背に乗っている男が落としたのは、誰かの耳だった。その切り口に僅かに切ったアデルの指の血を塗りたくっている。冷たい他人の肉にゾワゾワと背が寒くなり、恐怖と嫌悪で叫びたくなる。 「脅しに手紙だけじゃ弱い。こっちは本気だってのを知らせてやれ」 「分かりました」 「うわぁ、血染めの耳入りラブレター。正直怖すぎてトラウマになりそう」 「優しいシリル殿下にここまでさせるなんて、ブラム殿はバカな事をしたものだ」  血濡れた耳を布で包み、それまで本当に封筒に入れて封蝋をしてしまった。異物が入っている分、封筒は歪な形をしている。それを受け取って、アルクースとアビーは出ていった。 「さてと、こいつは地下牢にとりあえずかな」 「お願いします」  シリルは言って出て行ってしまう。なぜだかこの瞬間が、一番安心出来た。

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