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第128話 愛しい人(2)

「俺が子供の頃、国は荒れていて大変だった。ラインバールでの戦いに、不作が続いて食べる物がなくて、耐えかねた貧しい人が蜂起したんだ」  覚えていないくらい幼い記憶を語れるのは、これが転落の始まりだったから。調べて、飲み込んだ事だから。 「俺の両親はこの時に死んで、俺だけが残った。農民の拙い一揆は一ヶ月と続かなくて、残されたのは沢山の孤児だったんだ」  親の顔も覚えていない。そこが温かかったかも分からない。覚えているのはとてもお腹が空いていて、苦しくて死んでしまいそうだったこと。  でも、その後の地獄を知っていれば、この時死んだ方がよかった。 「国はこの時の孤児をとある孤児院で引き取った。沢山の孤児が集められて、みんな救われると思っていた。その孤児院の名前が『天使の家』だった」  子供を指して天使とつけ、最初の日は暖かな布団の中にくるまり、飢えを忘れた。同じように傷ついた仲間と熱を分け合うように眠ったのだ。 「けれど、違った。孤児院なんてのは名ばかりで、本当は暗殺者の養成と人体実験が目的の非合法な施設だった。身体検査をされた翌日、俺は地下にできた巨大な牢獄に入れられた」  冷たい石造りの壁に窓はない。格子のはまった個室には薄っぺらい布団だけ。遙か頭上にある明かり取りの窓にすら格子がはまり、雨の日には水が流れ落ちてきた。 「俺は五歳で、集められた奴らの中では年が上だった。それに、身体能力も高かったから暗殺者としての教育をされた。武器の使い方は勿論、毒や暗器の使い方、言語や文化の勉強、身のこなしや、人の誘い方、足音を消す方法、油断させる方法、声や姿を真似る技術。一年でこれについてこられなければ、ゴミ箱行きだった」  そうして消えた子供を何人も見た。使えないと判断されたら即刻、そいつは薬物実験のモルモットになる。そうなれば絶対に助からない。  だから必死でくらいついた。こんなに落とされても、生きる事を諦められなかったんだ。 「初めて人を殺したのは、六歳。人のいい資産家の老人で、泣いている俺を心配して連れて帰って、温かい飲み物を飲ませてくれた。怖いと言った俺を心配して側に来てくれたのに、俺はその人を殺した」  助けを求める事は考えていなかった。全てを話してどうにかなるなんて、思えなかった。逃げたら殺される。話しても殺される。逃げる道なんてないんだと、一年の拷問が縛り付けた。 「これを、見て欲しい」  服を脱ぎ、背を見せる。忌まわしい罪の証。育った暗殺者につけられる、これは奴らの言うところの『ご褒美』だ。そして、少しずつ施された薬物実験のモルモットの証でもあった。 「これが、天使だよ。優秀な奴につける証だそうだ。六枚、あるだろ? これが最上。俺は、覚えていないくらい殺してきた。感情を捨てて、ただそこにあった」  持つだけ無駄なものは最初の一年で捨てた。実験で死んだ子供を見ても、いつしか悲しいと思わなくなった。残ったのは恐怖。死にたくないという純粋で強い恐怖だけ。ただそれだけが縛り付けていた。 「いいなりになっていれば殺されない。失敗しなきゃ殺されない。毎日それだけを胸に生きてきた。その為にあらゆるものを身につけてきた。連れてこられた奴の死を見るたびに、同じように転がる自分を想像して吐いてた」  その頃にはもう、恐怖以外は分からなくなっていた。幸せも、愛情も、許しも、罪悪感もなくなっていた。そう、育ってしまっていた。 「天使の家が火災で焼失したのは、十歳の時。火をつけたのは、俺達だ。俺と、一緒の部屋で寝ていた六枚の羽を持つ仲間二人と一緒に、逃げる為に」  きっかけはフェリスの言葉。「ここから出よう」という言葉。俺はそこに光を見た。だから、やった。  仕事に出る為に外に出された時、俺は受け取った武器で側にいた大人を殺した。そいつが持っていた鍵で俺の部屋の扉を開けて二人を解放し、地下にいた大人を殺し尽くした。  思えば簡単だったんだ。誰もここまで育った暗殺者を三人も相手にできなかった。教えていた奴すら、瞬殺できた。 「生き残ってる子供を出して、俺達は表の孤児院に火をつけた。こいつらがやってきた非道の数々を暴露する証拠を手にして、逃げたんだ」  これでもう、自由なはずだった。もう誰も殺さなくていい。もう、感情を捨てる必要はない。自由になったはずだった。でも、自由という残酷さに打ちのめされた。 「生き方がね、分からなかったんだ。人を殺す事しか知らなかったから、どうやって生きていけばいいか分からなかったんだ」  武器を持ったまま薄汚れて立っている子供なんて不自然だ。身を隠して、飢えて仕方がなかった。  でももう、誰かを殺して生きるのは嫌だった。ここで誰かを襲って何かを奪ったら、もう人に戻れない。誰かの命令ではなく自分の意志でそれをしてしまったら、全部が自分の意志だったように思えてしまう。 「隠れていた荒ら屋で死にかけていた俺を見つけてくれたのが、ダレンのじっちゃんだった」  警戒して、フラフラしながらも威嚇した。そんなレヴィンに、ダレンはほっとした笑みを浮かべてたった一言「よかった」と言ってくれたのだ。 「じっちゃんは俺が何であるか分かってた。それでも、俺の事を受け入れて、養子にしてくれた。子供がないからって、奥さんと二人で喜んでくれた。俺は、ずっと泣いてたっけ」  温かいものに触れるのが怖かった。でも、温かさのほうから触れてくれた。  くれる心が嬉しくて、動かなくなっていた気持ちがゆっくりと戻った。苦しいとか、悲しいとか、怖いとか、言えるようになったのは半年後。嬉しいとか、楽しいという気持ちを言えるようになったのは、更に半年後だった。 「人として、じっちゃん達が俺を生き返らせてくれた。七年くらいかかってようやく、俺は人としてまっとうな生き方を考えられるようになった」  随分かかったと思う。ふとした瞬間に浮かぶ恐怖に叫んだり、罪悪感からくる自傷行為から抜け出せたのは十八歳くらい。惜しみない愛情を注いでくれた初めての家族がいなかったら、今もずっとダメだった。 「それでも仕事にはつけなくて、そんな自分をずっとダメだと思っていた時にじっちゃんが軍の仕事を俺にもってきた。あまり気は進まなかったけれど、じっちゃんを安心させられるならって受けた。それが、二十五歳くらい。その一年後に、シリルに出会った」  隣のシリルに微笑みかける。ずっと泣いてくれる優しい子に手を触れる。  初めて出来た大切なもの。傷つけたくない、守りたいもの。この子を通して過去の自分を許した。今この子を守る力になるなら、忌まわしい暗殺の能力も構わないと思えた。 「シリルに会って、知っていって、俺は初めて誰かを好きになった。体が熱くなるような、そんな感情を知った。大切な人を得られたんだ」 「レヴィンさん…」 「だからこそ、触れるのが怖かった。自分の罪を知っているから、この手が汚れている事を知っているから、触れるのが怖かった。拒絶が怖かったんだ。俺の事を知ったら、なんて言うだろう。大抵は怖がるだろうし、汚らわしいだろうし。俺ですらそう思うんだから、きっと嫌われるだろうって」  今までも罪の重さは分かっていた。この手で殺した人は悪人じゃなかった。大抵が優しそうな人だった。心配してくれた。それを利用して近づいた穢れは拭えない。  でもシリルを得て、逃げられない事を知った。怖くなったのだ、拒絶が。誰に知られてもシリルにだけは知られたくなかった。離れて欲しくなくて、近づかないようにした。触れたいけれど触れられない。汚したくないから、距離を保とうとした。 「ごめんね、こんなんで。せっかく好きになってくれたのに、相手がこんな殺人鬼で、ごめんね」  ごめんね、綺麗な奴じゃなくて。ごめんね、問題ばかりで。ごめんね、嘘つきで。ごめんね、全てを言えなくて。  謝る言葉が沢山で頭が痛い。どうしようもない人間で、もう自分でも訳が分からない。ただ今は、殺されるかもしれないと怯えていた五歳の時よりずっと、「来ないで」という拒絶のほうが怖いんだ。 「レヴィンさんが謝る事は何もないです」  そっと頬に触れた手が、いつの間にか流れていた涙を拭った。そして、とても優しく唇が重なった。 「僕こそ、ごめんなさい。何も知らないままで。レヴィンさんこそ、僕のこと許せなかったんじゃないですか? 貴方をこんなに傷つけ、苦しめたのは王族なのでしょ?」 「違うよ。国王は直接この件に関して知らなかった。当時の宰相が行っていた事だったんだ」 「それでも、家臣の勝手を許した罪はあります」  言い切ったシリルが肌に触れた。様子をみながらそろりと、気遣うように。 「レヴィンさんはいつも、自分が悪いって言います。でも、違います。レヴィンさんが悪いんじゃない。もっと、他人を責めていいんです。僕の事も、責めていいんです。許さないって怒っていいんです。貴方に責任なんてありません」  涙に濡れた瞳が近づいてくる。呆然とそれを見て、触れる唇を受け入れる。温かくて、優しくて、甘い時間。いつもここで時間が止まればいいと思ってしまう。この気持ちだけをずっと手放さずにいられればと願う。 「僕は、レヴィンさんが好きです。汚いなんて思わないし、怖いなんて思わない。愛しています、心から」  偽りのない瞳が見据える。引き込まれるような新緑。愛らしいばかりだった少年は羽化するように強く美しくなった。そしてきっとこれからも、美しくなるのだろう。  レヴィンはやっと、その背を抱いた。強く離さないように抱き寄せて、深く口づけた。貪るように繋げた体は全てを受け入れてくれる。背を撫で、衣服の間から手を滑り込ませて素肌に触れた。ほんの僅か跳ねた体は、本当にまだ細い。そして、何も知らない。 「愛している、シリル。俺の全部をあげるから、シリルの時間を俺に分けて」 「分けるなんて、そんな。レヴィンさんがくれるなら、僕も全部あげます。だから、側にいてください」  刺激に潤んだ瞳に熱を蓄えながら、シリルはあどけなさも見える笑みを浮かべた。

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