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第134話 天使の泣いた夜
【シリル】
随分とおかしな時間が過ぎた。
グランヴィルの手料理は子供に食べさせるもののように愛らしく、とても美味しかった。「子供の頃の憧れだ」と笑った人と一緒に食べた。
眠るときは側にいて、レヴィンの代わりのように周囲を気にしていた。寝ないのかと問えば「友の預かり物だし」と言っている。
傷の手当ては、淡々とされる。とても丁寧だけれど、できるだけ見ないように早く終わらせてしまう。そして小さく「悪い」と溢す。
グランヴィルの腕の血は、まだ完全には止まっていなかった。断られたが無視して、新しい包帯をシリルが巻いた。それを見て、とても嬉しそうに「有り難う」と言うのだ。
変な感じがした。こんなにも人間味のある人が、死にそうになっている。元気なのに、ダメなんだ。
未だに完全には止まっていない腕の傷は、本当に浅いものだった。
二日目の夜、食事を静かに終えた人が表を見た。そして小さく「来たか」と呟く。意味は分かっている。でも、その背を止めずにはいられなかった。
「待って下さい! お願い、こんな…」
「今が一番の復讐どころ。俺を拾って散々に使って捨てるロムレットのクソ野郎を殺すには、ここが一番なんだ」
グランヴィルは教えてくれた。天使の家を出た後、シリルの叔父であるロムレットに拾われた事。そこでもずっと、暗殺の仕事をさせられたこと。いつか解放する、そう言っていたこと。そして、そんな日は来ないと分かっていて、これまで請け負った暗殺の依頼書と証拠の品をこっそりとため込んでいた事。
これが、グランヴィルの復讐だった。
当然そこにはルーカスが送った親書もあり、親書を届けた使者の遺品もあり、命じたロムレットの署名もあるそうだ。ついでに、ロムレットの屋敷にもこっそりと使者の遺留物を隠したらしい。抜かりはないと言って笑った。
ポンポンと、優しく撫でられる。見下ろす鳶色の瞳が、やっぱり寂しそうだった。
「グラン」
はっきりとした声がグランヴィルを呼ぶ。帰りたいはずのその人の場所に、シリルはなかなか行くことができないでいる。
「シリルを返してもらう」
「力尽くで奪ったら?」
軽い笑みを浮かべたグランヴィルの直ぐ目の前に、レヴィンは現れた。その速さは人のそれとは到底思えない。殴り倒したその勢いで、グランヴィルは後方に吹っ飛んでいった。
「レヴィンさん!」
「シリルを傷つけたお前を、俺は許さない」
剣に手をかけるその腕を、シリルは必死に引いた。こんな事を許していいはずがなかった。同じ絶望を生き抜いた人を手にかけるなんて、こんなに悲しい事はない。
「レヴィンさん!」
「…殺して欲しいんだろ?」
静かな紫色の瞳が見下ろしている。そしてスッと、包帯を巻いた腕を指した。
「ダメなんだな」
「あぁ、その通りだよ。もう、一年こんなだ。こんな薄い傷一つ、塞がるのに二週間以上かかる。徐々に止まらなくなってる。苦しんで、のたうち回って死ぬのは嫌だ。ひと思いに頼む」
静かに瞳を閉じるグランヴィルとレヴィンの距離は、なかなか縮まらない。辛そうに眉が寄せられるのを、シリルは見ていた。
「助けられないんですか?」
「…助けようがない。傷つかないようにして進行を遅らせてやるしかない。でもそれは、まだまっとうであればの話だ。こいつはもう、遅い」
深く眉を下げた人が、紫の瞳をきつく瞑ってから一歩を踏む。それを、グランヴィルも待っている。シリルはそれを黙って見ている。でも、やっぱりこれは間違っている。
剣を握って、レヴィンを追い越してグランヴィルの体にしがみついた。驚いたグランヴィルの鳶色の瞳が、次には柔らかく微笑みかけてくる。
「知っただろ? もう、いいから…」
「貴方はとても優しい人です! ご飯、美味しかったし、話も…」
「あんた…」
動きを止めたレヴィンが、悔しげに俯く。温かなランプの明かりが、風に僅かに揺れている。
「貴方の残した事を、僕がちゃんとやります。貴方の復讐を、僕がちゃんと果たします。貴方を作った王族の僕を、許してなんてとても言えないけれど…でも僕にしか出来ない事があるから!」
さらりと手が髪に触れる。楽しげに、嬉しげに。鳶色の瞳が柔らかな光を浮かべている。
「恨んじゃいないよ。それはもう、諦めた。それに、多分救われた。あんたがバカみたいに優しいから、許せた。俺達を人から化け物にしたのも人間だけど、戻してくれたのも人間だ。全部を恨んで憎んでなんて、辛すぎるだろ?」
「戻してくれた人、いたんですね…」
「そいつと、フェリスと、ほんの少しの名も知らない人がね。小さな優しさをくれる人を、温かいと感じられた。心まで死んでなかったから、ここまで生きられたんだ」
柔らかく頬に触れた人は、不意に悪戯っぽい顔をして顔を傾けて、頬にキスをする。途端背後で殺気はしたけれど、動かないのも分かった。
「それにほら、まだ誰かを好きになれる」
「好きって…」
「レヴィンが惚れたの、分かるかな。あんたの優しさは、傷を癒やすようだよ」
静かに、柔らかく言った人が、クスクスと笑って瞳を閉じた。
「レヴィン、大事にしなよ殿下。これ以上傷つけちゃダメだ。頑張って、長生きさせろよ」
「…はい、グランさん…おやすみなさい」
「シリル!!」
できるだけ早く剣を抜いて、シリルはその胸に埋めた。吹き出した血は真っ赤に染めたけれど、涙は頬を流れ続けていたけれど、グランヴィルは動きもせずに全てを受け入れて笑っていた。
背後から腕が回されて、きつくきつく抱き寄せられる。苦しいくらいだった。
「どうして…」
「レヴィンさんに、友達を殺させる訳にはいきません」
「シリルがやることじゃないだろ!」
「…この人と過ごしたのは、二日です。それでも、僕はこの人に情があります。貴方を「友」と呼んで、少し恥ずかしそうに笑うんです。恨まれた方が楽だからって、言うんです」
この人も本当は、レヴィンにこんな事を頼みたくはなかったのだと思う。他に適当な相手をみつけられなかっただけ。後、自分の集めた証拠品を有効に使ってくれる人がいなかっただけ。全てを託せたのが、レヴィンだったんだと思う。
「刻んで行きます、この人の命を。生きた姿を、刻んで行きます。でも、背負はしません。この人のやり残した事を、やるんです。託された僕が、ちゃんと終わらせるんです。そうじゃないと、この人に怒られてしまいます」
溢れ出た血は、もう流れなかった。シリルは手で、汚れてしまった顔を拭う。綺麗にして、どこかにひっそりと埋めてあげたい。そう、願っていた。
「シリル…」
「度胸のある子じゃない」
「!」
突如後ろでした声に、レヴィンもシリルも驚いた。そこには人影が二つ立っている。一人は茶色い髪の綺麗な女性だ。
「フェリス」
「言ったでしょ、背負わせなさいって。あんた一人軽いじゃない、その子。ちゃんと、人の命の大切さを知って、生きる事の意味と死を受け入れられる子よ。どっかのヘタレよりよほど強いわね」
そう、楽しそうに笑った。
「兄上…」
「シリル」
柔らかく笑ったユリエルを見て、シリルの目には涙が浮かんだ。駆け出すようにその胸に飛び込んだ頭を、ユリエルは穏やかに撫でた。
「兄上…」
「よく、耐えましたね」
優しく穏やかな声に促されるように、シリルはユリエルの腕の中で声を上げて泣いていた。
「どうしてユリエル様までいるんだ?」
「私がこっちの異変をキャッチしたからよ。グランヴィル、どう考えてもダメそうだったしね。前線もまだ止まってるし、抜け出してもらったの」
「話を聞いて一直線にここまで来たのですよ」
「陛下のご決断の早さは流石ですわ。本当に惚れ惚れしますわね」
なんて、とても楽しげな女性が言う。おずおずと顔を上げると、目のやり場に困るような美女フェリスが穏やかに笑った。
「お初にお目にかかりますわ、シリル殿下。フェリスと申します。うちの友人の最後を引き取っていただき、有り難うございます」
「そんな、僕は…」
「こいつも、やっと旅立てましたわ。このまま生きていても、苦しみが長引くだけですもの。それでもしがみついているなら困りましたが、引き取って欲しいと本人も言うならこれでいいのです。最後に温情をかけていただけたのですから」
それで本当にいいのか。これが正しかったのか。改めて問われると言いようがない。でも少なくとも、レヴィンにはさせたくない。グランヴィルもそう思っていたはずだと、自分に言い聞かせた。
「さて、弔ってあげましょう」
「あの、兄上。この方から僕は大事な事を引き継ぎました。先にそちらをやりたいのですが…」
「分かりました。彼の弔いは明日の明け方にします。レヴィン、シリルの側についていなさい。それと、ファルハード達を使いなさい」
「分かりました」
色々と腑に落ちない顔をしながらも、レヴィンはシリルの横についてくれる。そして、乗ってきた馬の前に乗せると、そのまま全力で駆けてくれた。
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