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第143話 囚われのヴィト

【ヴィト】  船倉に声が響く。掠れ、既に吐息や息づかいに近いそれは苦痛の混じる喘ぎ声。これを自分が発しているのだと、ヴィトは朦朧と他人事のように感じている。 「ほら、たっぷり飲め!」 「うっ! んぅ!」  喉奥に流し込まれるドロリとした男の精を、体は拒絶して吐き気のままに出してしまう。胃がひっくり返るほどの拒絶を示しても、出てくるのは放たれた男の精とほんの少しの胃液のみだ。 「おら、せっかくメシ食わせてやったんだから吐くな!」 「うっ、ぇ…」  解放されて、床に転がった。汚れた床は異臭がする。そのほぼ全てが、男達が放った精であり、自らの精でもある。 「お前達」 「あぁ、将軍」  声が遠くでしている。それを、ぼんやりと聞いた。男はヴィトに一瞥すると、楽しんでいる部下を見た。 「壊してもいいが殺すなと言っているんだぞ。いい加減にしろ」 「具合がいいんですぜ、こいつ」  悪びれもせずに言った男は身支度を調える。だが、舐めるような視線は未だ裸に剥かれたヴィトへと注がれている。 「そいつはタニス王をおびき寄せる餌だ。せっかく生かして捕らえたんだぞ」 「分かってますって」 「まったく。出ろ」  男達が出ていく。その中で、ヴィトはほんの少し残る意識を繋いだ。 「へい……か…」  呟くような小さな声に、この船の責任者である男がふと足を止める。 「よくもまぁ、ここまでされてまだ理性があるものだ」  その言葉を残して、船倉は静かになる。真っ暗な中、汚い床に倒れ伏したままヴィトは身動きも取れずにいた。  いっそ、死にたいと何度か思った。男達に嬲られ、愛した船が沈んで、絶望しか残らなかった。何度も無理矢理に犯され、吐き出すものもなくなって、それでも壊れてしまえない事が苦しかった。苦しくて、いつしか何にも反応出来なくなった中で、拾った言葉が今と繋いでいる。 ――タニス王の餌。 「陛下…こないで……」  忘れた涙が頬を濡らす。壊れたように棒読みの声が、ただ一つの願いを口にしている。  囮にすると言う。助けに来た所を殺すのだと。ユリエルが死ねば、タニス攻略は簡単になる。  そんなの嫌だ。ヴィトはまた、死にたくなる。辛いからじゃない、ユリエルの邪魔になりたくないから。  だって、優しい人なんだ。ただの海賊でしかないヴィトが訪れると、いつも温かいお茶を用意して、お菓子を用意してくれる。ケーキやクッキーじゃない、焼きたての焼き菓子。ヴィトが一番好きなお菓子。  甘い物が好きなんて言った事ないのに知っていて、いつも用意してくれて、中庭に招いてくれて、話を聞く時間をくれる。楽しくて、嬉しい。仕事の邪魔じゃないかって、聞いた事がある。それにも「休憩が必要なんで、丁度いいんです」なんて言って、仲間の事とか海のことを楽しそうに聞いてくれる。そんな、優しい人なんだ。 「こないで…」  見捨ててくれていい。死んだ事にしてくれていい。だから、ここに来ないで…。  ヴィトの声は誰にも聞こえない。けれど、薄く頬を濡らした涙はいつまでもそこにあった。 ============================== 【ユリエル】  キエフ港に停泊しているツェザーリの船にいる。そこから見える海は静かだが、そのどこかにヴィトがいると考えると気持ちは穏やかではなかった。 「ほんま、信じられへん」  夜の船上に姿を現したツェザーリが、心底疲れた様子で近くに座る。だが決して、隣には並ばなかった。 「とりあえず、言われた通りの手配はしたで」 「足りましたか?」 「あれで足らへん言うたら、ドついとりますわ。何カラットあんねんって大きさのルビーとサファイアやで? わいが欲しい」  ブツブツと文句を言うツェザーリに笑い、ユリエルはまた視線を海の向こうへと向ける。月が綺麗だというのに、心は晴れないままだ。 「もう一度言うで。陛下、そのヴィトって人は生きてへん。死体すらあるかどうかわからへん」 「でしょうね」 「…分かってても、いくんや」 「えぇ」  分かっている、こいつの言う事は正しいだろう。  乱戦の中で生きている保証はない。囚われたのだとしても、時間が経ちすぎている。生きている可能性の方が少ないだろう。おそらく、ユリエルをここに誘き出したいと思っての事だ。 「賢いお人のはずなのに、分かってても来るなんてアホのする事やで」 「アホ、ですか」 「正直に言わせてもらえば、そうやね」  ツェザーリも段々隠さなくなってきた。それが少し、心地よくもあった。化けの皮が剥がれてからのほうが付き合いやすい。コイツは商人だが、それにしては少しお人好しだ。 「せやけど、嫌いやないで」 「え?」 「陛下の事、嫌いやない。商人として言わせてもらえば、ほんまにアホなお人や。利益度外視なんてありえへん。せやけど、人間としては温かい人や」  意外な言葉にユリエルは驚く。苦く笑ったツェザーリは、立ち上がって初めて隣に並んだ。 「ほら、この距離で怒らへん。普通王様と一般人がこの距離って、ありえへん」 「そうでしょうね」 「わいが悪い人間で、陛下のお命狙ってたらどないするん?」 「お前に斬られるようなら、私も天命尽きたのですよ。そんな王は早々に退場するのがいい。運命だと思い、受け入れるより他にありません」 「わぁお! 陛下って綺麗な顔して男前や」  驚いた顔をしながら、それでもツェザーリは笑う。程よい緊張感のあるこの男との時間は、案外悪くはなかった。 「それにしても、陛下の無謀を許す家臣もどないなもんやねん」 「無謀ですかね?」 「あんなぁ。言うなれば、兵隊ぎょうさん居るのに、たった一つのポーンを助ける為にキングが突撃するようなもんやで? 無謀や」 「確かに」  言って笑う。なるほど、それは確かに無謀でバカな事だ。  だが、テーブルゲームではない。その盤上にいるのは本当の人間で、取られてしまえば殺されてしまう。終わったからと手元に戻ってくる駒ではないのだ。 「せやけど、温かい血が通ってますわ」 「ん?」 「噂に聞いたタニス国王と違って、驚くばかりや。せやけど、好きやねん。わいらと同じ場所で、生きてるって分かる。同じ景色を見て、同じく悲しんでくれる人やって分かる。そういう人、わいは好きや」 「お前は商人にしては随分とお人好しですね。そんなんで、武器商が務まりますか?」  問えば、鋭い笑みが返ってくる。この顔を見るとやはり癖がある。おそらく優秀なのだろう。そんな奴が、旨味のないこの話にのっかって、こんな話をしている。不思議なものだ。 「わいはこれでも、優秀な武器商やね。死の商人? 上等や」 「そんな奴が、良くこんな話に乗りましたね。お人好しですよ」 「そうやねん。わいも驚きや。せやけど、なんか悪い感じもせぇへん。きっと、陛下のチャームにひっかかったんや」 「人を淫魔のように言うんじゃありません」 「美人で迫力あって危険でゾクゾクするで?」 「手を出してみますか?」 「まだ死にたない」  ブルッと体を震わせるツェザーリに笑い、ユリエルは月を見上げる。距離が離れてしまった分だけ寂しい気持ちを向けて。 「お前、何を望みますか?」 「ん?」 「報酬は欲しいでしょ?」  問えば、ツェザーリは少し考えている。それがまず面白い。これだけ無茶を言い、乗っかっておきながら報酬を考えない商人がいるだろうか。変に抜けている。 「武器の取引はしませんよ?」 「せやな……陛下との直接売買交渉権、とか」 「間に人を挟まずに、直接私に品物を売りつけようというのですか?」  それに、ツェザーリは深く頷いた。随分大きく出たものだ。なるほど、抜け目がないとユリエルは溜息をつく。 「強欲は身を滅ぼしますよ」 「別に、高額な商品売ろういうことやない。それに、無理に買って貰う必要もない。直接顔をつきあわせて、わいの選んだ自慢の品を見せて交渉したいんや。陛下には、その価値がある」 「ほぉ?」  ギラギラした、それは商人と言うには鋭さが多い。愛想笑いではないツェザーリの表情に、ユリエルは興味があった。 「陛下が欲しいものなら、なんだって運んできたる。物も人も情報も技術も。船に乗っかるもんなら、なんだって運んできたる。それをわいが、直接陛下に見せる。目の肥えたあんさんにだけ、わいは本気で品物を売りつける。気に入らんものは買わんでえぇ。あんさん相手だからこそ、わいも本気や」 「なるほど」  ユリエルは笑う。そして悪戯にツェザーリを見た。 「私が死んだら、終わってしまいますよ」 「まぁ、今回の事がそもそも棚ぼたや。武器商は何だかんだで稼ぎえぇねん。せやから、これは投資みたいなもんや。投資は失敗するの覚悟や」 「商人が投資なんて、貴方も十分に変わっていますよ」  言えばツェザーリは、何でもなく笑う。そして、側を離れて歩き出した。 「事前の打ち合わせ通りや。陛下も寝とかんと、明日動けへんで。大事な仲間、助けるんだろ?」 「そうですね」  言って、ユリエルもその場を離れる。明日にはヴィトを助けに行く。それを強く胸に抱いて、ユリエルの気持ちも引き締まっていった。

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