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第144話 宿敵
【ユリエル】
キエフ港の沖合に、一艘の船が停泊している。その船に一日一回、食料と水を運び入れている船がいる。どうやら武装船らしく、船に食材はそう多く積んでいないという話を、先行して情報を集めていたフェリスが掴んできた。
ユリエルが取った作戦は、以前ルーカスをやり過ごしたのと同じものだった。船の乗組員と船を一日買い取り、その荷の中に潜伏するというものだ。船員の一部にバルカロールの中から特に白鯨戦に強い者を入れた。
荷の中にはユリエル、フィノーラ。そしてシャスタ族のアルクースとファルハードが入った。ツェザーリは自身の船を後から回し、捕らえた者を輸送すると共に残ったバルカロールの船員を乗せて来る事になった。
自身の入っている箱が持ち上がり、敵船へと運び込まれる。頭上には沢山のリンゴが入っていて、緊張する場面であるのに妙にリラックスもする。そんなおかしな状態だ。
「荷はこれで全部か」
厳しい様子の声が聞こえる。この声の張り方は軍人だろう。思うと同時に、ズキリと痛む。
ルルエの海軍だと考えれば、ルーカスが海戦へと場を移した事になる。攻める意志のないはずの彼が海軍を動かしたなら、そうせざるを得ない状況になってしまったのかもしれない。もう、一ヶ月以上会っていないのだから。
「おい、お前達は何をしている」
同じ男の声がして、船が揺れた。同時に、箱がひっくり返される。蓋が開き、リンゴが転がり落ちていく。これが合図だ。
船の甲板へと転がり出たユリエルは即座に立ち上がり、剣に手をかけた。
ファルハード、アルクース、フィノーラとバルカロールの船員だけが甲板に残り、荷を運び込んでいた船は既に橋を引き上げて僅かに間を取っている。
目の前にはルルエのマントを纏う者達が数十人、中型船の甲板を埋め尽くしている。
「まさか…乗り込んでくるとは…」
そう言いながらも前に出た男の声は、さっき箱の中で聞いていたものと同じだ。赤と白のルルエのマント。そこに描かれているのは二頭の獅子。手には剣と…十字架を持っている。
違う。これはルルエ海軍ではない。
ユリエルの憂いはなくなった。それと同時に、またとない獲物が掛かった事が分かった。口元に笑みが浮かぶ。
「タニス国王、ユリエル・ハーディングとお見受けする」
「そちらは、ルルエ聖教騎士団ですか?」
問えば男はニヤリと笑う。自信に満ち、自らが負ける事など微塵も考えていない男の姿に、ユリエルも鋭い笑みを浮かべた。
甲板は直ぐにも激しい戦いとなった。普通に考えれば数十いる敵の方が優位。だが、ユリエルはそれを覆す精鋭を選んできた。見る間に形勢を逆転したのは、ユリエル達だ。
「タニス国王は武に長けた者だと聞いたが、聞きしに勝る」
「貴方もなかなかですよ」
切り結びながら、互いに言葉を交わして鋭い笑みを浮かべる。おそらく全ての指揮を執っているだろう男は強く、揺れる足元などまったく意にも介さない。
だがそれはユリエルも同じだ。激しい剣の交わりにも、足元が危うくなる事はない。
何合そうして切り結んだか。男の剣がユリエルの懐深くを切り裂くように走った。だがユリエルはそれを無理に避けようとはしなかった。
脇を掠めた剣が衣服を裂いて赤い色が滲み出る。だが同時に、男の負けだ。ユリエルの手が男の顔を鷲づかみ後ろへと押し倒す。甲板に仰向けに倒れた男の首に、ユリエルの剣が当たった。
「王たる騎士が、なんと俗な!」
「生きるか死ぬかの戦場で、綺麗な戦い方などしていられませんよ」
ズキズキと切れた部分は痛みを発する。だがこの程度で死にはしない。傷は薄いと分かっていて、あえて受けたのだから。
船の上は、気づけば大分静かになった。耳だけで探れば、おそらくこちらが勝ったのだろう。アルクースやフィノーラの声がする。
「陛下!」
「遅い、ツェザーリ!」
暢気な声が響き、ユリエルは怒鳴るように言った。それに別の船を横づけたツェザーリがビクリと肩を震わせた。
「いやぁ、激しい戦いの最中にわいのようなド素人が入っていくのは厳しいもんで。って…怪我しとるやないけ」
「かすり傷です。それよりも、この男を縛って下さい」
近づいたツェザーリはテキパキと仕事をする。ユリエルに剣を向けられたまま縛り上げられた男は、悔しげにユリエルを見上げていた。
「生かすことを後悔するぞ」
「死にたいならそのうち死なせてあげますよ。その前に、聞きたいことが山ほどです」
縛り上げられたうえに木箱に詰められ、更には蓋を釘で打ち付けられて運び込まれた男が遠ざかって行く。それを見ていると、ツツッと傷のある脇を撫でる手に思わず呻いた。
「アルクース!」
「静かに。傷は浅いけれど流して消毒、薬塗って包帯ね。少しそこで待ってて」
「そんな悠長な!」
「大丈夫、フィノーラ姉さんが船倉に駆け込んで行きましたので」
座らせられ、直ぐに治療に必要な物を持ち出してくる。既に場はユリエル達が抑えていて、危険は去っていた。
純度の高い蒸留酒を染みこませた綿が傷を撫でると痛みに飛び上がりたくなる。それでも口をつぐみ飲み込んで、ユリエルはされるがままに治療を受ける。傷口に軟膏が塗られ、綺麗な包帯が巻かれていく。
「助かります」
「うん、任せてよ。最近ロアール医師からも応急処置の方法教わってるからね」
服に袖を通し、ユリエルは立ち上がる。そして、船倉へと続く階段を見た。
「行ってあげて。必要そうなものがあれば言って。ヴィト、助けてあげてね」
送り出され、ユリエルは頷く。そして深く息を吐いて、船倉へと潜り込んでいった。
薄暗い廊下の両脇に部屋がある。その中の一つが開け放たれていた。そしてそこから、なんとも情けない声が響いていた。
「ひぃぃぃぃ! 助け…助けてくれぇ!」
「まだ言うの! 貴様が…父や母のみならず弟までも!」
駆けるように部屋に向かったユリエルの目に、室内は鮮明に見渡せた。
汚れきった室内はむせるような男の臭いがしている。その中でヴィトは裸にされ、細い白魚のような肌を汚して横たわっている。
そして近くにはナイフ転がっているが、血はついていない。そして、随分と太った男が現在、ボロ雑巾のようにフィノーラの鞭に叩かれていた。
「フィノーラ!」
「陛下!」
フィノーラの手は止まらない。既に男の服はボロボロに裂け、ブヨブヨとした肌は腫れ上がって切れている。血を流し、痛みに蹲る男を睨み付けながら、フィノーラは涙を流した。
「ヴィトが…」
側に行って抱き上げたヴィトの体は、まだ温かく色がある。だがその瞳にかつての無邪気な光はない。心を壊してしまったように力もなく、泣いたのだろう跡だけが頬に張り付いている。
「ヴィト」
抱き上げて、裸の体を摩っている。懐から小瓶を取り出し、気付けの薬を嗅がせるも反応がない。手はだらりと下がっている。
不意に、コポッと咳き込むような気配があって、俯けて背を摩っていると口の端から白いものがポタポタと落ちていく。それが何であるかなど、問うまでもない。強く抱きしめて、もっと早くに助けられなかった事をひたすらに詫びた。
「ヴィト、頑張りましたね。もう大丈夫、全員無事ですよ。貴方の仲間は皆、無事です」
何をしてあげられるだろうか。纏っていたマントで体を包み込み、なおも冷たく冷えた体を撫でる。綺麗な髪は絡まってゴワゴワになり、酷い臭いがしている。
「陛下、そっちはどない…」
そう言って入ってきたツェザーリもまた、あまりの異臭に口元を覆う。だがこの男は偉い。それでも入ってきて、ユリエルが必死に抱きしめているヴィトを見て、眉根を寄せた。
「こら、酷い。直ぐにわいの船に」
「お願いします」
「姉さん、それ殴りすぎや。死んだら元も子もあらへん。そんな汚ったないの放っとけや。この部屋に閉じ込めて、はよ引き上げんと弟大変や」
「分かってます!」
言いながらも、フィノーラの怒りは未だにおさまっていない。目の前にいる男、大商人グリオンは既に白目をむいている。
「フィノーラ、この船を操船してキエフ港へと寄せられますか?」
「やります。陛下に、ヴィトを任せてもいいかしら」
「えぇ、大丈夫ですよ」
まだ、鼓動は確かに感じている。心が戻ってくるように、温かく抱きしめたユリエルはそのままツェザーリの船へと乗り込んだ。
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