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第155話 真実と誠意
【ユリエル】
ユリエルが教会へと踏み入ると、場は実に静かだった。
フェリスとアルクースの二人が眠っている兵士を全員縛り上げ、地に転がしている。その誰もがまだ眠っていた。
「無事に制圧いたしましたわ、陛下」
「ゆっくりだったね、陛下」
「フェリス、アルクース、お疲れ様です」
大きな仕事をしてくれた二人に労いの言葉をかけたユリエルの足は、そのままアルクースへと向かった。
「傷は平気ですか? これからこちらで仕切りますから、休んでいてください」
「心配しすぎだよ、陛下。痛くない…とは言わないけれどさ。でも、ちゃんと動ける。跡も残らないから平気だよ」
そうは言っても、心配はした。思いのほか出血が多く、ここまで辿り着く前に気を失ってしまうのではと不安でならなかった。
そんなユリエルの様子を正しく察したのだろうアルクースは苦笑して、奥へと案内していった。
「眠り薬は各部屋の蝋燭に仕込んでたから、司教以外のシスターや神官はまだ眠ってる」
状況を説明しながら、アルクースは奥へとユリエルを案内していく。そうして辿り着いたのは、礼拝堂の前だった。
扉を開け、前へ進み出る。その先には黒い神父服を着た人物が立っていた。
「ハウエル司教、お初にお目にかかります。タニス国王、ユリエル・ハーディングと申します。お会い出来てよかった」
穏やかに声をかけ、静かに会釈をすれば彼は驚いたように近づいてきて、肩に触れて顔を上げさせた。
「人の上に立つ者が、易々と頭など下げるものではない」
「私の部下が、お世話になりました。その感謝と、騒がせてしまった事への謝罪です」
ユリエルが顔を上げると、ハウエルは少しばかり驚いて、次には穏やかに笑った。
「アルクースさんが言った事は、本当でしたな。部下は大切にしなければなりませんよ、ユリエルさん」
温かな視線と笑みにユリエルは驚き、そして微笑んで頷いた。
アルクースに休むように伝え、出ていくのを確認してから、ユリエルはハウエルを懺悔室へと誘った。秘密の話をするのには最適だろう。勿論、ここに王の言葉を盗み聞くような無作法者はいないとは思うのだが。
少し狭い密室の中で、ユリエルはハウエルを見る。年齢五十代半ば、穏やかだが毅然とした瞳の頑固さと、気骨のある様子が全体からも感じられる。その精神は誠実だ。
「まずは改めまして、アルクースがお世話になりました。心をかけて頂いた様子、感謝いたします」
「最初、彼の言葉を事実とは受け取れぬほどに深い傷でしたぞ。自身と彼に必要な事だったとは言え、これが原因で彼を失えば苦しまれるのは貴方だったはず。あまり、無茶な事などさせてはなりません」
やんわりと叱られる。これにユリエルは少し驚き、そして笑った。ルーカスから聞いた人柄そのままだ。まるで、祖父のような人なのだと。
楽しそうに笑ったユリエルを、ハウエルは不思議そうに見ている。笑みのまま、ユリエルは「申し訳ありません」と断りを入れた。
「いえ、お人柄を伺っていましたが、本当にその通りだと思い。失礼をいたしました」
「私の人柄を、どなたからか伺ったのですかな?」
「それを含めて、お話と協力をお願いしに参りました。ハウエル司教、私はこのルルエという国と平和的な未来を築いていきたい。その為には、この国の中で消えてしまった私からの親書が誰の手によって奪われたのか、その裏に誰がいるのかを明確にしなければなりません」
「なぜ、そこまでなさるのか分かりません。和平の親書を送り直す事ではいけないのですか?」
「それでは、争いの火種を完全に消すことは出来ません。現教皇アンブローズの勢力を根こそぎ絶つには、彼らの思想を広く国民に知らしめ支持を挫き、人々の心に平和な未来を願う気持ちを持って貰わなければなりません」
ユリエルの言葉を、ハウエルは一つずつ確かめるように聞いている。どんな立場の人間でも、その者が誠意を持って接するのならば話を聞く。ルーカスの言った通りの人物だ。
「残念な事に、現教皇アンブローズの心には我がタニスを奪い取り、歪んだ征服欲によって蹂躙する事ばかりがある様子。そうで無ければ、王の親書をかすめ取るなんて明らかな国家謀反を恐れなく行えるとは思えません。そのような相手が王と同列に並んでは、こちらも安心して和平を結ぶ事はできません」
「アンブローズ殿が貴方の親書を掠めた。それは誠なのですか?」
「追跡調査を行い、ほぼ間違いない所まで追いました。私の送った使者は確かに、バートラムの屋敷で姿を消しています」
伝えれば、ハウエルは酷く落胆した表情で肩を落とし、項垂れる。誠実な人物であれば、身内のこうした醜態を嘆くだろう。その気持ちはユリエルも分からないではない。
「私も、ルルエ王からの親書を見つけたのは最近の事。若輩の王を侮り、我が物顔で国を蹂躙する者はどこにでもいます。私もそのような者にまんまと転がされて、開戦に踏み切ってしまったのです」
「ユリエルさん」
「だからこそ、可能な内に終わらせたい。ルルエ王は誠実であり、真に国と民の安らかな未来を願っています。それは私も同じ事。今、やらなければいけないのです」
ルーカスとの未来を得るために、国の未来から戦というものを消す為に、やれる全てをしなければいけない。その為に、この人物の協力は欠かせない。
ハウエルは考えていたが、やがて一つ頷いた。
「このような老いぼれにも、出来る事があるのですね」
「貴方にしか出来ない事です」
「それは、なんでしょうか?」
「現教皇アンブローズ失脚後、貴方が教皇として立つ事です」
これには、ハウエルは目を丸くして立ち上がり、ユリエルから距離を取った。恐れを持つ瞳で逃れた人を、ユリエルは追いはしなかった。
「他国の、しかも神の領域に踏み込もうと言うのですか」
「ここが解決しなければ、ルルエ王は手足を縛られたまま動けない。戦を煽る彼の人物を失脚させなければ、民は王の人質です」
「だからと言って、貴方がそのような事をすれば民の反発は当然ありますぞ。万が一にもアンブローズ様を害する様な事になれば、民の怒りは貴方へ向く。それは貴方も望まないはず」
「アンブローズを失脚させるのは私ではありません。この国の民であり、ルーカスです」
ハウエルの目が、見る間に丸く大きくなる。その体は目視出来るくらいには震えている。怒りなのか、恐れなのか…あるいは両方があるだろう。
「これを、預かってきました。貴方ならば、この手紙の真偽が分かるでしょう」
ユリエルは言って、一通の手紙をハウエルの側に置いて下がった。ハウエルは戸惑いながらも手紙を手にし、中を開けてその文字に凝視している。恐る恐る上がった顔には、困惑が滲み出ている。
「なぜ貴方が、我らが王の手紙を持っているのです」
「その手紙に、全てが書いてあるはずです。彼は、そう言っていましたから」
この手紙に何が書かれているのかは分からない。封蝋もない手紙を読むことは可能だが、そんな事はしていないし、する気もない。ユリエルはルーカスを信じている。彼が「事実を話し協力を願う」というならば、そのような手紙となっているはずだ。
ハウエルは腰を下ろして手紙を食い入るように読む。便箋数枚からなるそれを、ハウエルは一字一句逃さぬように受け止めている。
長い、沈黙に思えた。ユリエルは黙って、読み終わるのを待っている。やがて、最後の一枚を読み終えたハウエルがぽたりと膝に手を落とし、項垂れた。
「なんと、悲劇的な事でしょう。なんと、強いお心か」
「裏切りとは、言わないのですね」
「ルーカス様の苦悩を知っております。彼の王は王子であった時から私を慕ってくれておりました。その気性も心根も知っております」
ユリエルへと向き直ったハウエルは、いたく感慨深げな様子で頷く。そしてそっと、ユリエルの手を握った。
「苦しく痛い茨の道を、それと知って共に歩んで頂く覚悟が、おありなのですね?」
「私は痛みとは思っていませんよ。共にあれるなら、こんなにも幸せな事はありません」
「その為に、多くの苦労と痛みがあるのではありませんか? これまでも、これからも」
「これまでの事は、既に忘れました。痛みよりも受ける気持ちの方が勝っています。これからの苦難もまた、同じ事。一時の痛みなど直ぐに忘れてしまえるほどに、私は彼からの深い愛を貰っています」
言えばハウエルは深く数度頷く。その手は微かに震えていた。そして、瞳からは温かな涙が伝った。
「ジョシュ様を失ってから、あの方は一人となってしまったのだと案じておりました。強いその心に、しなやかさがなくなっていくのを苦しく思っておりました。誰でもいい、我らが王をお慰めし、温かな心を分けてもらえればと、神に祈っておりました」
「ハウエル司教…」
「神に、貴方に感謝を。あの方は、幸せなのですね」
『温かくも厳しい我が祖父のような人だ』と言ったルーカスのそれは、この人も同じだったのだろう。この人もまた、幼き頃より教えを説いた王子を案じ、人としての幸せを願い続けてくれたのだろう。
濡れた頬を上げたハウエルは、次には神妙な顔で膝を折る。そして、確かな声で答えた。
「我らが王の心と命を受けましょう。この老骨に出来る最後の勤めと思い、この国と貴国へ平和な未来を」
「有り難うございます、ハウエル司教」
ユリエルは両手でハウエルの手を握り、その手に額を乗せる。
ユリエルもまた、安心したのだ。全てを語り、心を晒し、そのうえでこちらの手を明かす。そう言ったルーカスを信じてはいても、事が上手く転がるとは限らない。認められなかったら、断られたら、それを思うと押し殺す不安があったのだ。
ハウエルの手が、背中を柔らかく叩き撫でる。温かなその抱擁に、ユリエルもやっと眠れる気がした。
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