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第156話 罠

【バートラム】  聖オーキン教会からの使者が窮状を知らせる手紙を持ってきたのは、アルクース保護の知らせから数日後の事だった。  バートラムはアルクースが保護された時の状況を聞いていても立ってもいられなかった。  折れてしまいそうな細い体で、意地らしく振る舞う儚げな様子。腕の中で震えながら、それでも必死に浮かべる微笑み。  あのような美しい者を見たのは初めてだ。教会にも美しい者はいるが、野心が見える。しな垂れてくるその先に見返りが見えすぎているのだ。  それでも好みは合っているし、ギブアンドテイクと思ってきた。だがアルクースは違う。そのような浅ましい欲望は見えず、どこまでも慎ましく貞淑だった。  直ぐにでも迎えに行きたい。背を切られ、血を流し倒れたという彼の傷を優しく労り、温かく迎えてこの腕に抱いて眠るのは心地よいだろう。  そう思っていた矢先に、教会を預かるリチャードからタニス軍に囲まれ身動きが取れないとの連絡を貰ったのだ。 「我が同胞を助け出すために、どうにかしなければならない」  威厳ある声で言うも、近隣砦の者は難色を示す。みな、タニス軍の布陣を聞いてビビっている。  砦を囲む兵は僅かに七百程度。だがそれを率いるのはタニス王自らだ。彼の王の武勇はこの国にも轟いている。戦で目立つ白を纏い、それを赤に染め上げる様はまるで悪魔のようである。 「タニス側の要求は、逃げ込んだアルクースという青年の身柄を引き渡す事です。助けを求めて縋ったとは言え、所詮は他国の者。引き渡しに応じれば軍を引くと言っているのです。そのようにしてはいかがか」 「ならん!」  弱気な一人がそのように提案したが、バートラムはそれだけは出来ない。いや、したくはなかった。  既にアルクースをこの腕に抱き、傷心の彼を慰め愛おしむ夢を何度となく抱くのだ。諦める訳にはいかない。  だが、兵力を集めるあてがない。こんな時に限って駄馬が出払っている。  それというのも、クララス隊がその兵力千を引き連れて海上に出ている。タニスが再び攻め込み、タニス王が国に不在となる機会を狙って港を奪取することを望んだのだ。  元々奴の隊はハウエルに近い者であり、言うとおりにならない邪魔な者だ。その為今までも過酷な場所に送り込んできた。海を渡った異国の地や、当然タニスへも。成果を上げれば上々、全てバートラムのものとし、死んでも困りはしない。そういう扱いだ。  だが今だけは憎らしく思う。どうせ上手く行かないだろうが、万が一にも港を奪えればそこからタニス内部を攻略できる。砦や、有力貴族の屋敷一つでも襲えば金が手に入るだろう。そういう欲目が勝って、出してしまった。 「砦にも守備の兵を置かねばなりませんし、私らも砦を出る事はできませんぞ」 「隊を指揮する実力のある者は少ないのです。バートラム様、ここはあちらの要求を呑む方が無難というものです」  部下の言葉も確かに一理ある。だが、アルクースは戻れば殺されてしまうだろう。あのように色香のある哀れな青年が易々と殺されてしまうのは実に惜しい。  思い悩むバートラムの元へ、一人の兵士が手紙を持ってやってきた。それを受け取り中を確かめ、バートラムは猛然と立ち上がった。 「隊は私が仕切る! 兵は少数ずつでも出せ。明日、聖オーキン教会へと我が同胞を助けに行くぞ!」 「バートラム様!」  驚きと共に非難の色もある声だったが、元々がバートラムの独裁状態にある聖教騎士団だ。こうなればもう従うより他にない。  手紙には、こうあった。 『バートラム様  直ぐにこの地は死地となりましょう。ユリエルは戦に強い人、ここも攻略されてしまう。そんな事になれば、ここにいる多くの心優しい方達が犠牲となってしまう。  俺は、リチャード様にもハウエル様にも良くしていただきました。その方達が無残に倒れる姿など、見たくはないのです。  どうか、リチャード様に命じて俺を教会から出すようにお願いをしてください。俺がどれほど願っても、貴方の命だからと応じてはくれないのです。  俺一人で多くの人の命が救えるのなら、どれほど惨い死でも意味があります。既に覚悟はできています。どうか、お願いいたします。 アルクース』  翌朝、バートラムは自身の屋敷からも兵を半分連れ出した。それというのもどうしても、最低限の人数しか集まらなかったからだ。  砦の防衛に兵力を残さなければならないのは分かっている。それでもかき集めてたかだか千とは嘆かわしい。  昔はもっと簡単に兵を集められたと聞いている。他国へと攻め入り、タニスと戦い、生きて捕らえた者を奴隷として捨て駒にしてきた。  戦わねば死ぬ、戦っても死ぬ。そういう絶望にの中にある者達を見るのはなんとも愉快だったと、アンブローズは言っていた。  あのどうにもならない老人が平穏で平凡な者達にとって毒でしかないのは理解している。だが従っていれば蜜もこぼす。おかげで随分、いい思いをしている。  とは言え、最近は入団希望も減った。新王に立ったルーカスが戦をしない方針だからだ。しかもタニスとの戦いで得た兵を奴隷とせずに捕虜として自軍の管理下に置いてしまった。せっついたが、いずれ交渉に役立つ者を渡す気は無いと言われた。忌々しい生意気な小僧だ。  だが、それもいつまでも続きはしない。アンブローズは支配権を渡さないルーカスを忌々しく思っている。いずれタニスとの戦いで疲弊していくだろうとほくそ笑むクソ爺を見て、ヒヤリとしたものだ。  神をも恐れぬ……いや、自らを神と宣う頭のおかしな男だ。  だからこそ、自分の身は自分でまもらなければならない。いざとなれば裏切るつもりだ。その為には手土産は多い方がいい。だからこそ、バートラムは密かに汚れ仕事もしてきたのである。その証拠を、こっそりとため込む為に。  土埃を上げて馬を走らせるバートラム隊が遠ざかって行く。バートラムは気づくべきだった。この時この行軍を見つめる瞳に。  聖オーキン教会へと辿り着いたのはその日の深夜近くなってからだった。背後を取る形で布陣する事が出来た。なかなかに上々だ。相手はまだ油断をしている。篝火を焚くその背後で全てを整えた後、バートラムは手を上げて一斉攻撃を命じた。  静寂の夜は一気に騒々しいものとなった。逃げ惑うタニス軍を蹴散らし、篝火が倒れる。阿鼻叫喚の世界で、バートラムはユリエルを探した。美しいと噂のタニス王を一目見てみたいと思ったのだ。  だが残念な事にこの場に白衣を見る事ができない。突然の襲撃に恐れたのか、タニス軍は抵抗も出来ずに蜘蛛の子を散らすように逃げていく。まったく、手応えも無い。このような者を相手に苦戦するルーカスは無能だ。  実に気持ちよく、バートラムは教会の前に立った。簡単に開いた門をくぐれば、聖教騎士団の衣服を纏う者達が歓声を上げて迎え出てくれる。よほど怖い思いをしたのだろう。  千の兵が全て教会の敷地前庭に入った所で、門が閉じた。だがその異変は、その直後だった。  教会の高い外壁の上に立つ兵が一斉に、中へ向けて弓を構えたのだ。そして、周囲の聖教会の同胞までもが剣と槍を構えてくる。状況が飲み込めないまま、困惑した仲間が次々と捕縛される。虚を突かれた我々は、気づけば皆が捕らえられていた。 「どういうことだこれは! 私を聖教騎士団長バートラムと知っての事か!」 「勿論、知っておりますよ」  夜の騒々しさも、この涼やかな声を遮る事ができない。  カツンカツンという軍靴の音と共に奥から近づいてきた人物を見て、バートラムは縛り上げられ地面に転がされたままで硬直した。  これは神の至宝か、悪魔の罠か。これほどに美しい、これほどに神々しい者をバートラムは知らなかった。神はいったいこの者を作るのにどれほどの心をかけ、どれほどの執心を見せたのだ。  凛と美しいジェードの深み。形の良い唇が残酷に笑みを浮かべる。顔かたちの、完璧なバランス。縁取る髪は銀の光を集めたようだ。  見惚れたまま、息をするのも忘れてしまう。見つめていると思わず傅きたくなる。平伏して、己の罪の全てを告げて、許しを請うてその靴に口づけたい。そのように思わせるほど、タニス国王ユリエル・ハーディングは神々しく美しいのだ。 「聖教騎士団長、バートラム。私は貴方に会いたかった。よくも、私の心を踏みにじった。お前がしたことを、私は個人的には何よりも許せない」  断罪するようなその声に、バートラムは何を言っているのか直ぐには分からなかった。だが、徐々に思い出す。それ以外に、バートラムはユリエルとの接点を持たないはずだ。 「気づいたようですね」 「あれは!」 「今は語る必要などありません。私はお前と話すつもりはありません」  踵を返すその背を、バートラムは見つめる。白いマントが翻る後ろ姿が徐々に遠ざかり、やがて消えてしまうまで。

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