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第159話 停戦(1)
【ルーカス】
静かになった教会の内部を、ルーカスは真っ直ぐにバートラムの所へと向かった。頑丈な鍵のついた部屋の中にいた奴は、随分と呆けた顔をしていた。
「久しぶりだ、バートラム」
「ルーカス陛下…」
相変わらず濃い男は、酷く憔悴した顔をしている。憔悴……と、とっていいのか少し疑問ではあるが、男は肩を落として項垂れていた。
「天使は去ったのだな」
「…は?」
「あのように美しい者を見たのは初めてで、何やら夢の中に放り込まれたような気がする。その天使が私を責め立てるのだ。なんという罪を私は犯したのだろうか」
これが誰を指しているのかは明白。ルーカスは違う意味でこいつに殺意が湧いた。
だが何故か、同時に哀れにも思えてくるから不思議だ。ユリエルの責めはそれほどに人の心を苛むのか。
「して、何故私のような者を貴殿が助ける」
「助けに来たのではない。お前の罪を問いにきた」
「…」
「地下を暴いた。アンブローズ殿も共にいた」
「!」
放心状態だった男の目に、はっきりとした恐れが走った。猛然と立ち上がりルーカスの腕を掴んだ男は、必死な顔をしていた。
「国王陛下、何卒慈悲を! 私は!」
「お前の罪を無かったことにはできない」
言えば、バートラムは途端に項垂れた。肩を落とした男の手は小刻みに震えている。あれほど恐ろしい事をした男とは、どうにも重ならない姿だった。
「だが、お前の妻と息子は助ける事ができる」
「!」
「バートラム、交渉だ。アンブローズの罪を暴く。お前の証言が必要だ。その見返りとして、俺はお前の妻と息子を助ける」
バートラムは酷く悩んでいる。震えながら、考えているのだろう。何が一番いいのか。
「今、妻達は…」
「既に部下を送って保護するように伝えた。上手くいっていれば、こちらに向かっている」
その言葉に、バートラムは安堵したようだった。
「一時間程度なら、話もできる」
「…この事を、息子は知る事になるのでしょうか」
「…この国には置かない。望むなら、知らないままでいられるだろう」
「この国には置かない?」
「アンブローズの手が絶対に届かない場所に送る。その先での生活も保障される。安心していい」
「…そうですか」
既に己の処遇については諦めたのだろう男が、それでも最後に穏やかに笑った。それを見れば、これも人の親であるのだと思えてはくる。
一度は沸点に達した怒りが、スッと下がっていく。
勿論こいつのした事を許す事はできない。何度も煮え湯を飲んだ。
それでもこの姿を、哀れだとは思うのだ。この男もまた、目に見えない禍々しいものに飲み込まれた一人なのだろう。
ルーカスはそのまま、ハウエルの部屋を訪れた。黙って待っていたハウエルはとても温かな、そして複雑な顔でルーカスを出迎える。その理由はありすぎて、もうなんだか分からないが。
「陛下、息災なご様子で安心いたしました」
「ハウエルも、息災か」
「はい」
昔から穏やかで厳しい祖父のようだった人は、近づいて苦笑する。
「運命のなんと残酷な事か、思い知りますな」
「素敵な我が伴侶は、貴殿の目にどのように映った?」
「慈悲深く、強くしなやかな方のようです。愛されるならば深い愛情を、憎まれるならば深い絶望を他者へと向けるのでしょう」
「実に正しい観察眼だな」
苦笑するハウエルに、ルーカスも同じように苦笑し、次には破顔した。
落ち着いて座り、しばし穏やかな沈黙のままお茶の時間を楽しんでいたルーカスは、その一杯を半分に減らしたくらいで話始めた。
「認めた通りだ。ハウエル、受けてくれるか」
「はい、お受けいたしましょう。ただし、思惑通りに行くかはわかりません。アンブローズ様は確かに、民の支持を得て教皇に立った方。その支持を挫く必要がありますぞ」
「あぁ、分かっている」
その為のバートラムだ。そして、証拠は彼の執事達が持っている。これが表に出ればアンブローズを教皇の座から引きずり下ろせる。
部下であるバートラムの監督不足だけでもいいのだが、その後の教皇選出を考えればもっと、あの男の非道を知らしめたい。ハウエルをなんとしても教皇にしなければ現状が変わらない。
「ハウエル、もう一つだけ頼まれてくれるか」
「なんでしょうか」
「タニスとの停戦協定を結ぶ。その橋渡しをしてくれるか」
「それは!」
ハウエルは驚いた顔をした。だが流石に齢を重ねただけはある。直ぐに冷静になり、頷いた。
「分かりました。して、何を手土産にいたしましょう」
「バートラムの妻子を捕虜として引き渡す」
「それは!」
「国内に置けばアンブローズの牙にかかる。奴は裏切り者に寛容じゃない。何より妻子を奴らに奪われれば、バートラムは話さない」
アンブローズという男はそういう奴だ。今頃バートラムが裏切らないか、内心穏やかではないだろう。そういう男が何を考えるか。だからこそルーカスはヨハンを向かわせた。
厳しい顔をするルーカスに、ハウエルは穏やかに笑った。
「お心はそればかりですかな?」
「ん?」
「国内の逆風に晒される妻子を、憐れんだのではありませんか?」
小さく笑うハウエルに、ルーカスは苦笑する。敵わない、そういう気持ちだ。
「ユリエルになら、二人を任せられる。彼は罪の無い、しかも弱者に乱暴な行いはしない。捕虜という範囲の中ではあるだろうが、穏やかに過ごせるだろう」
「左様ですな。確かにあの方の人柄ならば、安心もいたします」
「流石にこれだけでは申し訳ないから、先に捕虜とした兵の一部を解放する。これで、停戦の同意をもらえるか」
「尽力いたしましょう」
丁寧に頭を下げたハウエルに、ルーカスも力強く頷いた。
数日後、停戦のための材料が揃った。ヨハンは酷く疲れた顔をして二人の人物をルーカスに引き合わせた。まだ四つ程度の幼い少年と、その子を抱きしめるようにしている身なりのいい女性だった。
「だれ?」
幼子が母を見上げて問いかけるのに、女性は毅然として立ち、庇うように頭を撫でた。
「この国の王様よ」
「おうさま?」
幼子がルーカスを見つめる。穢れの無い純粋な瞳に見られ、ルーカスの方が苦笑してしまう。だが穏やかなものだった。
女性はゆっくりとルーカスへと近づいて、一つ頭を下げた。
「バートラムが妻、カタリーナと申します。こちらは息子のスヴェンです」
「バートラム卿が待っている。話をしてくるといい」
目配せをしたルーカスにヨハンは頷き、二人をバートラムの所に案内していく。見送り、多少心が沈むのはこれからの事を思うからだろう。
あの幼く純粋な瞳は、父を殺したのがルーカスだと知った時にどうなるのか。
「陛下、解放する捕虜の方も揃いましてございます」
「分かった。キアに手紙を持たせ、先方に伝えている。停戦協定にはお前とヨハンに行かせるつもりだ」
「キアは、同行させないのですか?」
ハウエルの言葉に、ルーカスはしばし考えて頷いた。
ほどなく、カタリーナだけがルーカスへと謁見を求めた。それに応じたルーカスの前に膝を折ったカタリーナに、ルーカスは穏やかに声をかけた。
「息子は、どうしている?」
「夫と遊んで、寝入ってしまいました」
「そうか…」
重い言葉が、互いに出ない。だがその場面でも、カタリーナは気丈に振る舞った。
「夫の罪は、道中に聞きました。私の知らぬ所で良からぬ事をしているのは、なんとなく察しておりました」
「離縁の申し立てをするか?」
問えば、カタリーナは少し驚いて、次には笑って首を横に振った。
「あんなのでも、愛した夫でありあの子の父です。私たちに見せた顔は、愛情深いものだったのです。それだけを大切に生きて行く事が、妻として、母としての責務と思います」
「強いな」
「強くなければ生きて行けません」
カタリーナのその心は、どこかユリエルにも見えるものだ。しなやかに強く、愛情深いものだった。
「今後、私と息子はどうなりますか?」
「この国においておけば、アンブローズの手にかかる可能性が高い。冷酷で癇癪持ちのあの男がお前達に寛容だとは思えない。すまないが、国外に出た方が安全だろう」
「そうですか…」
カタリーナは項垂れ、しばらく考える素振りをする。国外、というところを案じているように見えた。
「タニスへ、捕虜として渡ってもらいたい」
「それは!」
「一番安全で、生活も保障されるだろう。現タニス王は捕虜に対して横暴な真似はしないと聞く。捕虜となればタニス軍の監視がつき、同時に身の安全が確保される」
ルーカスの言葉に、カタリーナはしばし黙っていた。たっぷりと、数分の沈黙が続いただろう。だがその後は落ち着いた様子で頭を下げた。
「分かりました、お受けいたします」
ルーカスは静かに頷き、彼女の退席を許可した。これで、一通りの根回しは終わっただろう。
随分と長かったように思えたが、まだスタートに立っただけ。まずは戦いを止めなければならない。
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