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第162話 美しき詩人の調
【ユリエル】
ルルエの教皇選出の国民選挙が行われる事になって直ぐに、ルーカスは予定通りハウエルを立てた。
元々人気のあるハウエルがあっさりと国民の支持を得るかと思えば、そうではなかった。
ハウエルとルーカスは共に、タニスとの和平を宣言した。これにより古い貴族家や宗教関係者の中でも強硬派と言われる者が反発し、アンブローズへの支持を表明したのだ。
更にアンブローズは豪商などに支持を訴えかけている。おそらく裏で見返りを渡しているだろう。商人は人にもよるが、アンブローズ支持へと傾いている。
戦局は五分。いや、むしろハウエルがやや劣勢に見られた。
ルルエの田舎町を、一人の詩人が訪れた。外套を纏い、首に翡翠のお守りを付けた銀髪の詩人は、町の広場に腰を下ろした。
『どうか神よ、私の声を聞き届けよ
この地に雨を降らせて下さい
見よ、このひび割れた地を
貴方の民が苦しみ咽ぶ地獄の様を』
透明感のある美しい声が、僅かに寒い外気を揺らす。その声に周囲の者は呼び寄せられ、それを見た者もまた引き寄せられる。いつしか町の大半の者が集まる中で、詩人は静かに竪琴をつま弾いた。
『この地はいつから渇いたのか
貴方はこの地を見限ったのか
ならばいっそ業火に焼いていただきたい
飢えて死にゆく苦しみよりは、よほど慈悲深いのです』
『お前の声を聞きつけた
この地が渇くは人の罪故
戦にふけり染みこむ憎しみが地を枯らす
お前達の注ぐ血こそが、この苦しみなのだ』
『あぁ、そのような無慈悲な事を
では一体、どのようにせよと仰せだ
ただの人でしかない我が身には余る事
私の声は王に届かない』
『ならば私が授けよう
お前のその身に奇跡を与えよう
人を救い、民に語り、この地の恨みを浄化せよ
さすればこの地は再び緑に変わろう』
詩人が語るこの歌は、ルルエという国に初めて現れた奇跡の人。最初の教皇の出現と、その最後を語ったものだった。
民に語りかけ、戦を止めるようにと神の声を届けた男は、苦しむ人に寄り添い、水を沸き上がらせ、逃げ惑う人々を導いた。やがて奇跡の人となったその者を、王は快く思わず捕らえてしまう。
この男こそが悪魔であると言った王は、枯れた川の畔で男の処刑を行おうとしたのだ。
『あぁ神よ、貴方は私を見放した
貴方の心を私は説いた
それでもこうして命散るのか
ならば誰が、貴方の憂いを晴らすというのか』
『私の心を届ける者よ
お前の心は私に届いた
今この時、お前の願いを叶えよう
受け取るがよい、この地を潤す大河を!』
神の声は威厳をもって抑揚なく。男の声は惑うように苦悩を示し。王の声は傲慢に強く。民の声は縋るように。詩人の声は演じる人によって声色も張りも違う。
大河の本流を示すように強く竪琴が鳴り、聞く人々が固唾を呑む。
『この水はなんだという!
神よ、なぜこの地の覇者を拒む!
国を富ませる我の心に何の不満があるという!
我を殺せばこの国も死ぬのだぞ!』
『傲った者よ足元を見よ
この地は枯れてゆくばかり
お前の国は貧しくなった
私の国はお前が殺すのだ』
『見よ、我らが王が飲まれてゆく
正しき者は加護の元だ
貴方様こそ神の声を伝える方
我らが新たな王となる方』
『いやいや、それはなりません
私は神の声を聞いても国は導けない
不相応な力はこの身に過ぎる
善き人こそが、この王冠を頂くのです』
こうして悪しき王を討ち滅ぼした男が教皇となり、王は神に選ばれて王冠を頂いた。だからこそ、この国は王と教皇が同列となってしまった。
この時代の尊い両者ならばいいだろう。だが人の志は歪む。善き人はその志を継がないままに他へと権力だけが移っていく。そうして今、善悪は逆転した。
歌を終えれば多くの拍手をもらい、詩人は丁寧に礼をする。その前に人々は僅かな食べ物や路銀を置いてくれる。
それらを有り難くしまい込むと、一人の老人が近づいてきた。身なりからもそれなりにいい家の者だと分かった。
「詩人さん、素晴らしい歌でした。よろしければ、今夜は我が家にお泊まりなさい」
「よいのでしょうか?」
「構いませんよ」
そう言った老人の言葉に頷いて、詩人ユリエルは後へと続いた。
招かれた家は小さいながらも立派であった。町の長をする老人が温かなスープをご馳走してくれて、毛布と簡素なベッドを提供してくれる。感謝し、少し話をした。
「詩人さん、先ほどの話はこれっきりがいい」
「それは、なぜでしょうか?」
ユリエルは老人に問うた。とても言いずらそうに善良な老人が言う事に、ユリエルは眉を寄せる事になる。
「民がどれほど願っても、上のお人には敵いはしません。わしらもアンブローズ様を支持するようにと、言われているのですよ」
「おかしな話です。正しき者が声を上げ、正しき男が神の声を聞くと言うのに、耳を塞ぐのですか?」
「…タニスはおっかない。あちこちの村や町からも人が出たが、誰一人帰ってこない。タニスに殺されたか、奴隷にされたに違いない。領主様の息子も帰ってこないのです。ですから、和平など…」
これにはやはり眉根を寄せるしかない。ユリエルは少しでも助けになればと、ルルエの古い話や、今日語った正しい心を説くような話を村や町で披露している。
停戦の協定が成った今、そのくらいの余裕はあった。
「ハウエル様と仰る方は、神の声を聞く方と聞いていますが」
「わしらは好きですが……許し合う事など、本当に出来るのか…」
ユリエルは笑い、鳥が歌うように囁いた。
『憎むは罪のみとしましょう
流した涙を拭うのは他者なのです
見回した先に手を伸ばせば
そこにあるのは同じく涙を流す他者です』
一節を説くユリエルの声に、老人は深く考えていた。
何か手を打つべきか。ユリエルは翌日町を後にしてタニス陣地へと歩き出した。そして二日をかけてリゴット砦へと戻ってきた。
「陛下! またそのような格好でお出になって」
グリフィスが見とがめて眉根を寄せるのを笑って流したユリエルは、クレメンスを側に呼んだ。そこで、一つの提案を行った。
「和平協定を推し進めるのですか?」
突然の提案に目を丸くしたクレメンスは、腕を組んで考え始める。だが、ユリエルはこれを行おうと思った。
「危険なことですよ。それでなくても和平派のハウエル司教は少し苦しくなっています。ここで和平協定を進めれば、更に窮地に立たせてしまうかもしれません」
「目的は和平協定を結ぶ事よりも、それを軸に捉えた捕虜をルルエに返すことです」
ユリエルの言葉に、クレメンスは更に目を丸くしたが、次第にそれも落ち着いた。こちらの思惑を正しく理解したのだろう。
「それは、ルルエ国内を偵察した貴方が、民の声を拾った結果ですか?」
「そうです。民はタニスへの不信感を持っています。捕らえられた自国の者が不当な扱いを受けているのだと思っています。ですので、捕虜を解放してそうではないのだと知らせる必要があります」
捕らえた捕虜は規則的で人道的な扱いをしてきた。そうした生活を送った者がこちらへの反感を持つことは少ないだろう。むしろ捕らえた時よりも逞しくなった者までいるらしい。
「使者は誰を立てましょう」
「シリルとレヴィン、そしてクレメンス、貴方にもお願いします」
「正当な使者として手出しもさせない。そういう事ですね?」
「えぇ。護衛の兵は十名。馬車はタニス王家の物を使います。停戦し、書状を持たせての訪問となれば簡単には手出しはできません」
「畏まりました」
クレメンスが丁寧に礼をして用意を始める。それを見送り、ユリエルは次にグリフィスへと視線を向けた。
「グリフィス、王都奪還のおりに捕らえた捕虜を千、解放します」
「そんなにですか!」
和平交渉ではなく、それを確約するための手土産としては多いだろう。
だが本来の目的はそうではない。彼らを解放し、無事な姿を民に見せ、こちらの印象を良いものにする事。そして解放した者から他の者の様子が伝われば更によい方向へと向かうだろう。
和平へと民の心が動けば無視できない者もいるだろう。元々日和見の者や穏健派の者も多いと聞くから、そうした者が転がってくれればハウエル優勢となる。
「両親が年老いている者、新婚であった者、子が産まれる予定があった者、他に兄弟のない者を優先して解放します」
「分かりました、そのように通達して連れて参ります」
「肉体労働の分、給金を僅かでも払っていたはずです。国外へ持ち出す事は禁じますが、買った物に関しては武具の類いでない限りは持ち出しを許可します」
「それも通達いたします」
頭を下げて早速出て行ったグリフィスを見送り、ユリエルは息を吐く。これでどうにか、ハウエル優位になればいい。反発を抑え込めるだけの信頼を得られればいい。この程度の事しか出来ないのがもどかしいが、他国の事。むしろ干渉する余地があるだけましだろうか。
不安が払拭されるわけではない。だが、それでもユリエルはここまで繋いだ希望を諦めるわけにはいかないのだ。この先の未来を、諦める事はできないのだった。
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