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第164話 伸ばす手
【ユリエル】
請われるままに恋愛譚や英雄譚を歌い語り、招かれるままに寝食を受け、ユリエルはルルエという国を巡っていた。
人々と接すればなんてことはない、タニスの民と何ら変わらない。素朴で、詩人に対する当たりも熱烈で、座れば直ぐに数人が近づいてきて歌を請われる。
野菜や肉を煮込んだスープに、焼きたてのパンを頂き、夜は干し草のベッドに毛布を借りて、外套に包まって眠る。なんら不自由はなく、丁寧に礼を述べて去れば旅の安全を祈ってくれる。
そうして数日、王都を目指してあちこちの小さな村や町を巡って見聞きしたのは、タニスという国への期待や不安だった。
「聞いた話じゃ、タニスってのは野蛮人が多いらしいねぇ」
そんな話をする老人に苦笑が漏れてしまう。だがすかさず周囲から、まったく違う話が飛んでくる。
「何言ってんの! 近所のハスラーさんの息子は昔よりも肥えて戻ってきたよ。筋肉もついて表情まで変わってさ」
「あぁ、仕事嫌いが嘘みたいだって泣いて喜んでたな」
「タニスで中身が別人になったんじゃないかって笑い話だ」
そんな声がしているのに、年老いた者達はタジタジだ。そして、それを聞くユリエルもまた内心安堵していた。
「だが、死んだもんだっているだろ!」
「そりゃ、戦争じゃねぇ。でも、とても丁寧に葬儀も埋葬もしてくれたって話だ。死後の息を引き取るまで、ちゃんと治療も看病もしてくれて、神官が最後の息も引き取ってくれたってさ」
「その遺骨も戻ってきたんだろ? 丁寧な箱に遺骨と服飾を入れて持ってきたって聞いたよ」
そう、そのようにした。
同郷の者がいるならと、遺骨を持たせた。元々返すつもりだから焼いて教会におさめ、身元の分かりそうな物を一緒にしておいた。だから今回、かなりの数を返す事ができた。
「それに比べてアンブローズ様のなさりようは酷いもんだ。私らを戦争に連れてくって、ルーカス様を脅していたらしいじゃないか」
「あぁ、全くだ!」
「それに、ハウエル様が言っていたじゃないか。戦で流した涙はタニスも同じ。過去の非道を私たちが一度も行わなかったなんてことはないって」
「あっちの王様ってのも、誠実だって話さ。自分がしてない過去の事もあたしらみたいな一般人に話して、頭を下げるような人だって、捕虜になってた人から聞いたよ」
これには多少驚いた。そんな話まで伝わっていたのを知ると恥ずかしいが、同時に誇らしくもあった。
過去への謝罪は自己満足でしかなかったのだが、そのように受け止められていたとは。
「私らも、少しは見直さなきゃなんないのかもねぇ」
そう言った人の言葉を、ユリエルは真っ直ぐに受け止めた。
王都手前にある少し大きめの町を目指し、今日はその手前に泊まろうと思っていた。昼を少し前に到着し、いつものように広場に腰を下ろすと人が集まる。
彼らを前に正しい心根の若者が英雄となるまでを語り、路銀をいくらかと食事をもらい、立ち上がった。
さて、今日はどこに泊まろうか。思って路銀を入れた袋を見ていると、不意に路地裏から腕を強く掴まれて引きずられる。
咄嗟で、驚いてされるがままに引きずられたユリエルはすぐに壁に押しつけられ、そして相手を確かめるまもなく口づけられていた。
「んぅ!」
鼻先に感じる匂いが、腕を掴む手が、視界に映る黒髪が、ユリエルの心臓を違う意味で跳ね上げる。うっとりとされるがままに受け入れていけば、たっぷりと口腔を味わった人がそっと体を離した。
「ルーカス?」
「まったく、君は危ないから止めるように言ったのを聞いていないのか?」
多少不機嫌な顔をした美丈夫は、ふっと息を吐いて困ったように笑う。改めて丁寧に抱きしめられた体が、とても温かくなっていく。
「冷えているな。もう温かな季節ではなくなった」
「そうですか?」
「詩人の服は薄い。外套を纏っていても冷えてしまう」
温かく触れる肌の温もりが恋しいと思えるくらいには冷えているのかもしれない。だが、寒いとは感じていない。微笑めば、頬に手が触れた。
「どうしてここへ?」
「君は有名だから、行方を探るのは簡単だった。麗しの詩人が人の心の正しさを説いて回っていると、民の口にものぼっているんだよ」
それは知らなかった。ユリエルは驚き、でもあまり気にはしていなかった。これでも気を付けて、危険そうな時は町を出て野宿をし、夜陰に紛れていた。あえて危険は犯さず、アンブローズの勢力が強そうな土地は避けていたし。
「気を付けてくれ。教皇選挙は一週間後、劣勢となったアンブローズは焦っている。邪魔を排除したいとよからぬ手も打っているみたいだからな」
「ハウエル司教は平気ですか?」
「クララスがついているし、国の兵も付けた。今は王都近辺でだけ演説をしている」
「選挙は公正に行われるのですか?」
「裁判官とその土地の神官、そして国の騎士がついて選挙が行われる。箱に選んだ者の色の札を入れるだけだし、入れた所を見られないように配慮もした。それに、選挙に関して脅しをかける事はそもそもの法で禁じられているしな」
「しっかりしていますね」
「過去何度も同じ過ちを繰り返してきたからな。これは神聖な選出の儀式だ、汚す事は例え王でも許されないんだ」
そう言ったルーカスは、逆に何の力も入っていないような表情をしている。それで悟った。彼にも、もうやるべき事はないのだと。
「ユリエル、これからどうする?」
「明日、少し大きな町へと出るつもりです。出来れば王都までと思うのですが」
「ダメだ」
「ですよね」
アンブローズ派、ハウエル派が入り乱れる中に行くのは少し危険が大きい。だからこそ今回の旅は次の大きな町までにしようと思っている。
「出来ればアレイアの街も避けて欲しいんだが」
「詩人の服装を解いて旅装を整え、馬で一気に戻ろうかと思っているんですよ。選挙の結果によっては直ぐにでも協議に入りますから、その前に整えようと思いまして」
「…そうなれば、確かにな」
これにはルーカスも渋々といった感じだったが、一応の納得はしてもらった。
大きな街で野宿や馬の手配もしたい。小さな町では目立ってしまうし、十分に揃わない事もある。その点、大きな街では人の一人くらい消えてもあまり気にしないものだ。
「明日の昼、街の中にあるジェーン橋で待っていてくれ」
「え?」
「俺もそこへ行く。装備を揃えられる場所も知っているし、通行証も出そう」
「ですが…」
「詩人の姿をしているが、君は俺が側におく密偵の一人だとでもする。怪しまれない姿で旅をするのは、密偵の常套手段だろ?」
少し悪戯な表情で言ったルーカスに、ユリエルは笑う。そして正直に嬉しかった。
今後は王として顔を合わせる事となるだろう。堂々と会える代わりに、甘い顔は少なくなる。だからほんの少しの時間でも、彼との時間は愛しく思えた。
「分かりました」
「それでは、明日」
そう言って離れていった人の背を見送って、ユリエルは少しだけ心が浮き立つような気がした。
翌日、ユリエルは少し早く街についた。
石畳の街は久しぶりで、人の活気もある。噴水に腰を下ろせば小さな子供が側に来て、「何か歌って」とせがんできて、ユリエルはルルエの民謡を歌った。旅の間に知ったそれを子供も一緒になって歌って、はしゃいでクッキーを一つくれた。
そんな事をして橋へときたユリエルは、待ち人を思い川を眺めている。先は森へと通じる川は案外深そうで流れが早く見えた。
「すみません、詩人さん」
「え?」
背後で声がして、ユリエルは振り向いた。多くの人が往来する橋には沢山の人が行き来をする。その中でユリエルに声をかけてきたのは、何でもない普通の青年だった。
「もしかして、最近噂の詩人さんですか?」
「さぁ? 私は噂などというものはあまり分かりませんので」
「そうですか。でも、噂の人にそっくりです。白い髪に、竪琴を持った麗しい詩人さん。翡翠のお守りも、確かに」
「?」
妙に引っかかる。思って体を離そうとしたが、その前に男の眼光が鋭くなった。
「!」
咄嗟に竪琴を盾にして身を翻したユリエルは、その銀のフレームに小刀がつき立つのを見て逃げた。
橋の上で悲鳴が上がるが、男は構わず追ってくる。何とかして人の多い場所からは逃げなければ。
思い、人目の少ない場所へと向かって走っていく。だがその腕に、銀色のナイフが突き立った。
「っ!」
引き抜き、なおも川沿いを走ろうとしたユリエルは、突然体に走った痺れに動きを取られてバランスを崩した。
毒だと気づいたのは、体が川へと落ちていく最中。全身が痺れる中で、息を吸い込み衝撃に耐え、足掻こうとした。だが体は無情に、冷たい川へと落ちていく。
引き込まれるような水の流れに逆らえないまま、体は更に動かなくなる。五体満足なら、どうにか顔を出す事ができただろう。だが、腕や足が痺れて動かず、徐々に意識も途切れていく。
死にたくない…
死ぬ事など怖くないと思っていた心が、悲鳴を上げた。このまま、ルーカスに二度と会えないのだと思うと、死にきれない。彼を思って水底で泣くのかと思えば、苦しくてたまらない。
手を前に、痺れて持ち上がらなくても足掻いた。そうしてどれだけ流されたのか、ため込んだ酸素が不足していく。苦しくて、せめて水面に顔をと願っても、引きずられる。
「……」
限界を迎えた体が欲するように口を開け、流れ込む水に息が止まる。途切れる意識の中、せめて一目と願うように手を差し伸べた。
消える間際、見えた黒があったように思えた…
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