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第165話 愛しいという狂気

【ルーカス】  約束の頃になって、ルーカスは橋へと向かっていた。簡素な旅人の格好をしているからか、人々に声をかけられることはない。ただその横を、ヨハンがずっとついてきていた。 「ヨハン」 「いいじゃん、俺も休みだもん」  そう言って暢気にしている部下に溜息をつき、どうにかユリエルに会う前には離れるようにしなければと考えていた。  その時だ、橋の方向から悲鳴が聞こえたのは。  嫌な予感がして、ルーカスはなりふり構わず走った。人々が逃げ惑う中をかいくぐったその先で、水しぶきが上がったのだけを見た。 「どうした!」 「詩人が襲われて…」  それだけで相手がユリエルだと分かった。全身の血が引けていく。心臓が音を立てる。 「ルーカス!」  ヨハンの声も無視して、ルーカスは川へと飛び込み水の中を潜る。そしてそこに、沈みそうな彼を見つけた。  手を伸ばすそれを、どうにか取って引き上げる。濡れた体は反応がない。  一度水面に顔を出すと、すかさずどこからか矢が飛んだ。川の流れに任せる状態では犯人を見つける事もできない。  ルーカスはもう一度川へと身を沈めた。幸い、この川は知っている森へと通じている。その流れが緩まる場所に、知り合いがいる。そこにたどり着ければ。  ただひたすらに願いながら、怯えながら、ルーカスは下流の森へと水を進んでいった。  そうしてたどり着いた岸辺で、ぐったりと力のないユリエルを抱いた。唇が青紫に変わっている。息がない。 「ユリエル!」  名を呼んで、蘇生をしながら心臓が煩くなった。もしもこのまま彼を失ったら? 考えただけで先が見えない。息さえできないのだ。 「ユリエル!」  何度も何度も心肺蘇生をして、諦められなくて必死になった。  そのうちに、水が口から溢れ出て、ほんの微かに息が通った。  助けられる!  体を温めながらなおも同じようにしていくと、飲み込んだ水を徐々に吐き出し、その度に息が確かに戻ってくる。冷え切った体が小刻みに震えるその反応すらも救いに思えた。  濡れた服のまま、ルーカスは森の中へとユリエルを抱いて走った。この先に小さな家があるのだ。見えてきたその扉を叩き、住人の名を叫んだ。 「アルナン! いるなら開けてくれ!」  ドンドンと数回叩き、名を呼んでいる。もしも不在ならこの状態のユリエルは凍えて弱っていく。今だって、息が戻ったにすぎないのに。  だが、扉は直ぐに開いた。立っていた五十代と思える女性はずぶ濡れのルーカスを見て目を丸くし、そのルーカスが背負うユリエルを見て厳しい顔をした。 「直ぐこちらへ。服は脱がせてくださいませ、陛下」 「すまない!」  招かれるままに部屋へと入り、暖炉の前でユリエルの服を脱がせていく。白い肌がなおも白く見える。細い体が震えている。そして、腕に赤い流血が見え、更には僅かに色を変えている。 「毒ですな」 「アルナン」 「なんの、任せてくださいよ。これでも森の魔女と呼ばれていたのですよ」  女性は言って、直ぐに治療を開始してくれる。毒を吸い出し、水で洗い、反応を見る。  その間、ルーカスの方が震えていた。もしも強い毒なら助からない事もある。何の毒かわからなければ、治療もできない。このまま…。 「心配なさらないことですよ、陛下。幸い、毒は痺れるだけのもの。命に直結はいたしませんよ」 「本当に…」 「勿論。その毒も水で大半が流れたようですね。このまま温めて、寝かせてあげれば目が覚めますよ」  ニッコリと言ったアルナンがタオルでユリエルの体を丁寧に包み、拭いていく。それを見てようやく、ルーカスの体から力が抜けた。 「おやおや!」  慌てたようにアルナンが声をかけたのは、不安が形になって流れたからだ。安堵が堪えていた涙を押し出した。  震えが止まらないのは、水で濡れたからではない。失うという恐怖が、とても近くにあったからだ。  服を脱いで同じように着替えて、ルーカスはユリエルの体を抱いた。未だに震えている体を抱きしめて、確かめている。こうしていないと消えてしまうようで不安だ。その声が、瞳が見つめてくれるまで怖かった。  そんなルーカスの様子を、アルナンは穏やかに見ている。ベッドに寝かせて、側に温かな茶が置かれて、それでようやく息がつけた。 「恋人ですか、陛下」 「っ!」  思わず咳き込んだルーカスに、アルナンは楽しげに笑う。睨み付けても効果がないのは分かっているが、それでも思わずジトリとみてしまった。 「乳母としては微笑ましいという話ですよ」 「アルナン…」  言ったが、この人に隠し事が出来た試しがない。ルーカスも肩を落として頷いた。  アルナンはルーカスの乳母だった女性だ。宮中に仕えながら間者としても活躍をした女性であり、ヨハンの実母でもある。  今ではこの森の小屋で一人暮らしている。街での生活は疲れるからということらしい。 「そういえば、聞いた事がありますよ。麗しの詩人が人の正しさを説いて歩いているって」 「その詩人だよ」 「なるほど。だからこそ、狙われましたか」  これにはルーカスも瞳を厳しくした。  ユリエルを狙った相手を確かめてはいない。だが間違いなくアンブローズ派の人間であるのは確かだ。  許せない。その思いに身が焼き切れそうだ。  その時、小屋の戸が勢いよく開いた。そしてそこに忘れていた影を見たのだ。 「母さん、ここにルーカス!」 「ヨハン!」  ルーカスは思わずユリエルとの間に立った。緊張が走る。ヨハンは一度ユリエルとじっくり顔を合わせている。顔を覚えているはずだ。  そんなルーカスの緊張など感じていないように、ヨハンはほっと胸を撫で下ろしている。 「よかった。いっきなり川に飛び込むんだもん焦ったよ。あっ、不届き者は捕まえて引き渡したよ。詩人を襲うなんて、何考えてるんだ…よ……」  ヨハンの目がユリエルを捕らえた。増した緊張がルーカスにも伝わる。近づいてこようとしていたヨハンが、数歩後退した。 「ルーカス、その人…」 「ヨハン聞け! この人はっ」  だがその前にヨハンがナイフを抜いたのを見て、ルーカスの心臓は痛いほどに鳴った。  ユリエルを失う事はできないんだ。それを行うのが乳兄弟だなんて、冗談じゃない。  ルーカスは迷った。迷って、剣の柄に手をかけた。 「冗談きついよ、ルーカス! そいつが何者か知ってるだろ! どうしてあんたが、タニス王を庇うんだ!」  アルナンも一瞬身を固くした。だが、それだけだった。 「どけよ。そいつを外に放り出す」 「そんな事はさせない」 「分かってるのか! 停戦したとは言え、敵国の王だぞ! これが民に…万が一アンブローズ派に知れればあんたは玉座を追われるかもしれない。売国奴と言われて、全てを失うんだぞ!」 「王の位など欲しい奴にくれてやる! だが彼を失う事はできない! この人を失えば、俺の心は裂ける…」  思い知った。冷たい水底へと沈みそうなユリエルを見た時に、失えないのだと分かった。王の椅子は捨てられても、彼を捨てる事はできないのだと分かった。  あんな恐怖を、今まで感じた事はない。いっそ心臓が止まるのではと思ったのだ。失えば、求めるように同じ死を選びそうだった。  不意に、服を引かれた。とても弱い力が、縋るように服を引くのだ。思わずそこを見て、驚きと喜びと安堵に鼓動が早まった。ジェードが薄く開き、静かに首を横に振った。 「いけない、ルーカス…」 「ユリエル…」 「友と臣の大切さを私に説いた貴方が、それを傷つけてはいけませんよ」  小さく、でも柔らかな声が諫めていく。  たまらず、ルーカスはかき抱くようにユリエルを引き寄せた。まだ力の入らない体を強く、背を、頭を抱いて震えていた。弱い力が、背に触れる。コトンと頭が、肩口に落ちる。 「よかった…貴方の幻だけでは、死にきれなかった…」  呟くようなその声が、ルーカスにユリエルの不安を伝えて締め付けた。  一応毒消しの薬を飲んだユリエルは、再び寝入っていた。ただし今回は確かな息をしている。規則的に上下する胸を、ルーカスは安堵して見ていられた。  その側に世話をしてくれたアルナンと、ふて腐れたヨハンがいる。斬りかかりそうなヨハンを、アルナンが拳骨一つで諫めたのには驚いた。 「まったく、躾のなっていない子だよ。主に刃物を向けるとはどういう了見だね」 「だって…」 「だっても何もないよ。あのまま一歩でも動けば、私がお前の喉をカッ切る事になっただろう」  恐ろしい親子の会話を苦笑しながら聞いて、同時に申し訳なさにルーカスは肩を落とした。 「…さて、どういうことか聞いてもよいのでしょうかね、陛下」 「あぁ…」  話をしなければいけないだろう。ランプに明かりが灯り、室内をほんのりと柔らかな色に染める。その中で、ルーカスは静かに話をした。 「…始まりは、タニス王都を奪った翌日、王都の噴水からだった」  綺麗な月夜、出会った詩人は月よりの使者だと思うほどに、清廉で美しく、神秘的だった。ほんの十分もないだろう逢瀬に、心を緩く囚われた。  そうして二度目は港町で。見つけた喜びに胸が熱くなった気がした。より深く知り、深く求めてしまった。合わせた肌の心地よさを、触れる心を留める事ができなかった。そうして、囚われていった。  タニス王都を追われ、ジョシュを失った苦しみの中でも、心の柔らかな所にいたのは彼の人のみだった。三度の邂逅に、何度感謝したか。離したくはないと抱きしめ、強引に連れ帰りたいと何度思い、押し留まったか。  そしてラインバールで、彼の正体を知った。絶望と苦しみと、それを超える焦がれる心に苦しみながら、幾度も「諦めろ」と言い聞かせた。それでも、願ってしまった。  森で出会ったあの瞬間に、王であるルーカスは消えていたのかもしれない。ただ一人を求める男が、足掻いて引き寄せたのは敵だった。  そして、夜の森で互いの心を確かめた。引きずり込んだのはルーカスだ。諦めようと一度は背を向けたユリエルを離さなかったのは、ルーカスの方だった。  だがそこで、互いの王としての願いも知った。協力できるのだと、確信した。同じ願いをユリエルも持ってくれるのだと分かれば、他をどれだけ欺こうと怖くはなかった。どのような罵詈雑言を浴びせられようと、歴史に泥を塗ろうと恐れはなかった。同じ決断をしてくれた愛しい人が唯一の味方であるなら、何ら迷いはなかったのだ。  そうして、ここまできた。互いに連絡を取り合い、時には戦士として、時には王として対峙した。傷つけ合うこともあった。だが彼の顔に、僅かな視線に恋人としての心をみつけられたから、すれ違ったのではないと思えた。  話し終えると、外は夜に染まっていた。 「…運命や定めなんてものを信じる方ではないのですが。これは、導きがあったのでしょうね」  静かな声でアルナンが呟き、ヨハンは椅子の上で膝を抱えて顔を隠していた。 「神様なんてくそ食らえ」 「ヨハン…」 「せめて、タニスのどっかのお姫様だってなら、どっかのお坊ちゃんだってなら、まだ見過ごせた。でも……どうするんだよ…」  何度も思った事を口にするヨハンに、ルーカスも苦笑が漏れた。  そう、相手がどこぞの貴族の娘や息子なら、ルーカスだって攫っただろう。面倒な手など使わず攫って、そのまま囲ったのだ。  だがユリエルは王だ。国の王をそのような事にはできない。 「和平は、お二人の唯一の願いですかな」 「あぁ…」 「だが、和平がなったとて簡単ではないでしょう。友好を結び、その後はどうなさるおつもりで?」 「何年かけてもいい。まずは関所を取っ払い、両国共通の法を敷く」 「…それで?」 「互いの国に大きな差異はない。人々の間にその思いが出来たタイミングで、二国を一国とする」 「!」  アルナンもヨハンも、これには身を硬くして止まった。だが、もう準備はできている。谷底の家で何度も会っていたのは逢瀬を重ねたばかりではない。大抵が王の顔をしていたのだ。 「何度も顔をつきあわせて話し合った。国の仕組み、法の仕組み、新たな王都をどこに置くか」 「そんな事…」 「五年…いや、十年だ。和平を結び、国交を結び、ラインバールの関所を廃する。同じ法で両国の民は裁かれ、守られる。タニスである、ルルエであるという国の境をなくしていく。人の往来をより自由とし、足りない部分を補い合う。そうして人の心から、国という隔てを消していく」  何度も何度も、話し合ったのだ。二つの国の架け橋に、自分たちが真っ先になる。その思いを、幾夜も確かめてきた。  無謀だろう。そんな事は分かりきっている。だが、どうして諦められる。どうして、捨てられるんだ。 「まずはこの教皇選挙でアンブローズを叩く。ハウエルを立て、宗教というものの本来の姿を、人の心を安らかに、優しく導く為の教会を作り上げる。聖教騎士団を廃し、すぐにタニスとの正式な和解と和平の調印を行い、国境を自由に行き来できるように交渉を重ねていく。ここからだ」 「…タニスがあり得ないくらい格安に捕虜の解放をしたのは、こういうことだったの?」 「そうだ」 「こちらは何をもって、和平の証しとするのですか、陛下?」 「女王の子を、聖遺骨を返す」  これに、アルナンは俯きヨハンは困った顔をした。 「ルーイット王からの言付けを、犯すのですね」 「元は女王の息子だ。殺しておきながら幼い王子を手元になど、どの口が言える。最初に裏切った父の元よりも、愛された母と兄の側に戻る方がいい」  王都の中に一つ、特別な墓所がある。聖遺骨と呼ばれた小さな骨は金で覆われ、美しいビロードのマントと金の杖、そして小さいながらも美しい王冠と眠っている。  女王を裏切った王が、幼い子の死に耐えきれずにそのようにし、以後持ち出しを禁じている。 「あるべきものを、あるべき場所へ。そこから確かなものとして、二つの国は歩み寄るんだ」  ルーカスのこれは、王としての意志だった。  更に夜が更けた頃に、ユリエルはゆっくりと目を開けた。虚ろに探す視線がルーカスを捕らえ、ふにゃりと歪む。  凛とした瞳でも、鋭いものでもない、弱さの見える表情は恋人へ向けるもの。伸ばされた腕に体を寄せ、抱きしめる腕の確かさに安堵して、抱き返した。 「ルーカス…」 「目が覚めてくれて良かった。気分は?」 「平気です」  確かな受け答えに、もう大丈夫だと安堵できる。ルーカスもようやく、穏やかに笑える。 「すまない、ユリエル」 「何を謝るのですか?」 「傷つけた。死なせてしまうところだった」 「それは貴方のせいではありません。私こそ、無防備でした。すみません、迷惑を…」 「迷惑なんて言わないでくれ」  言えば、ユリエルは微かに震えた。より、背を抱きしめる手に力がこもっている。 「怖かった…」  呟いた言葉を拾う。ルーカスもまた、頷いた。 「貴方にもう会うことは叶わないのだと」 「あぁ」 「…すみません」 「謝らないでくれ」  ルーカスも同じだ。二度とこの腕に抱きしめる事は叶わないのだと思った。この腕にぐったりと重い体を思い出せば、今もまた震えが走る。  見つめて、確かめるように口づけをした。存在を確かめるような口づけはとても長く思えた。不安や恐怖を埋めるように触れあわせた体は温かかった。 「ユリエル」 「はい」 「今日は隣で、眠ってもいいだろうか」  問えば少し驚いた顔をした彼が、次には可笑しそうに笑う。そしてそっと、隣を空けた。そこに横たわり、抱きしめて瞳を閉じれば穏やかな眠気が落ちてくる。さっきまではまったく、眠れる気がしなかったのに。 「ユリエル」 「なんですか?」 「愛している」  疲れた体が重く落ちていくその間際に、ルーカスはまどろみながら呟いた。腕の中のユリエルは穏やかな様子で体を寄せて、頷いた。 「私も、愛していますよ」 「…早く、こうして毎夜抱いて眠りたい」 「私も、その日を夢見ていますよ」  限界だった。意識が落ちていく。腕の中の温もりと愛しく抱いたまま、ルーカスは沈んでいった。

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