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第166話 教皇という光

【ユリエル】  翌日、ルーカスはこの場を離れユリエルはもう一日大事をとってこの場所に留まった。  この家の主アルナンは実に気持ちのいい女性だ。そしてその息子であるヨハンを見た時に「まずい」と思ったのだが、全てルーカスが説明済みだった。  彼は何だかんだと言ってユリエルの装備を整え、変装用の染め粉も整えてくれた。 「まったく、本当にどうなのさ。あんたもさ、冷静にあれこれ考えようよ」  その言いようがレヴィンにあまりに似ているから、ユリエルは可笑しくなって笑ってしまった。  そうして一夜を彼ら親子と過ごし、ユリエルはその間にアルナンに歌を請われて披露したりと、穏やかな時間を過ごした。  そうして暖炉の前で装備を確認している時に、不意に隣にヨハンが座った。 「どうしました?」 「選挙、始まったよ」 「え?」 「地方は早いんだ」  そう呟いたヨハンは静かに、地方の選挙の話を始めた。 「白がハウエル司教、赤がアンブローズ。それぞれの色の板を持って一人ずつ部屋に入って、投票する方を箱へ、しない方を側の焚き火へとくべる。後で不正がないようにな。箱の中身は誰も見ないまま、封印される。それを国の騎士と聖教騎士が王都へ運ぶ。そして、王都で国王の側近と枢機卿が開票を行う」 「現在の状況は?」 「五分。僅かにハウエル司教が優位だな。投票部屋の中での事は一切口外しないから、一般の民がそっちに流れた。それに、商人の一部もな。どうやら話が出来るなら和平を結んでタニスとの商売を本格的にやりたいって思ってるみたいだ。そっちのが金になるからな」 「なるほど、それはいいことです」  やはり商人は短期の利益よりも長期的な利益を取るようだ。これはあまり心配はしていなかった。ツェザーリに話しても「そらタニスと手結ぶ方がええわ」と言っていた。  問題だったのは民だ。圧倒的な数を占める、日々を平和に穏やかに過ごす人々の感情だった。そこがタニス憎しとなれば問題だったのだ。  そこをハウエルが味方につけられるなら、後はもう安心していられる。  ヨハンはチラチラとユリエルを見ては、息を吐いた。 「完全に安心もできないんだけど」 「領主がアンブローズを贔屓している場合ですね」 「分かってるじゃん。そういう場所の領民はハウエル司教に入れた途端に犯人捜しが始まって、追い出される。それよりは従う方がいいからな」 「愚かな事ですね」 「愚かでも効果覿面だよ。万が一アンブローズが勝ったら、ルーカスが王位を追われるってのに」  頭を抱えるヨハンを、ユリエルは笑う。「何笑ってんのさ」と睨む彼に、ユリエルは「うーん」と考えた。考えている事を、少しだけ頼もうかと思ったのだ。 「もしもルーカスが王位を追われたら、直ぐに王城を脱出して身を隠す助けをしてもらえませんかね?」 「え? あぁ、それは言われなくてもするけどさ。でも、何?」 「もしも彼が王位を追われたならば、躊躇うものは何もありません。タニス全軍をもって、ルルエを落とします」 「!」  ニヤリと、ユリエルは鋭い笑みを浮かべる。これはずっと思っていた事なのだ。そしてその為の準備もしているのだ。 「私はルーカスがいるから、全軍での攻撃なんて事はしていません。被害を最低限に抑えて戦っています。けれどもし、ルーカスが追われるというなら躊躇いなどないでしょ? ちまちまと面倒な事などせずに全勢力での総攻撃でこの国を潰し、その後でルーカスを王位に戻します」  ポカンと、ヨハンは口を開けたままだった。だがしばらくして頭を振ると、もの凄い顔をしてユリエルを見る。ただここはユリエルも譲る気がない。鋭い笑みはそのままだ。 「おっかない事言わないでくれよ!」 「難しくはありませんよ? ルーカスを慕う国軍だって、心から慕えない相手を命がけで守れるわけじゃありません。聖教会だって今十分に力を削ぎました。その為にバートラムの兵は未だ捕虜のままなのですよ。この状況でタニスの総攻撃に、どれだけ耐えられるか。リゴットから軍を下げない理由もこれです。アンブローズが勝利し、ルーカスが王としての権威を失った時が、この国の最後の日です」  ブルッと、ヨハンは震える。だがその表情は複雑そうだった。ルーカスは彼にとって乳兄弟。ユリエルはあくまで、ルーカス個人の味方なのだ。 「ジョシュ将軍の子が、次の王位につくかもしんない」 「たかが一歳の子供に国政は不可能。罰するならば実権を握るアンブローズですよ」 「どこまでもルーカスの味方なんだな、あんた」  少し考えて、ヨハンは笑う。少しくたびれてはいるものの、スッキリとした顔だった。 「ははっ、凄いな…。あぁ、もう…うちの陛下が骨抜きになるわだ。かっこいい。それだけの覚悟でやってるんだ」 「命かかってますよ」  言えば楽しげな笑みが続く。そして次には、手を差し伸べられた。 「不本意だけど、似合いではあるよ。あんたの依頼、受けた。そんな未来が来ない事を願ってるけれどね」 「私も同じくですよ」  握手を交わした二人は互いに頷き、ここに謎の共犯者ができたような気分もあり、ユリエルは穏やかに笑った。  翌日、用意された装備を着込み髪色を濃紺に染めたユリエルは馬で最短距離をリゴット砦へと走らせた。砦や町を経由せず、馬を休ませる以外は休憩を取らずに走って三日で、リゴット砦へと帰り着いた。 「陛下!!」  鬼の形相というグリフィスに笑みだけを向け、ユリエルは寝室へと転がり込む。詳しくは後日。あと数日もあれば形勢が決まる。全てはその時だ。 ============================== 【ルーカス】  地方は結果が出た。結果は予想以上に競っている。今日の王都での選挙結果によっては覆る。  心臓が痛い。その思いで、ルーカスは玉座に触れた。  ここに拘るつもりはない。だがここを譲れば国は荒れるだろう。しかもヨハンからユリエルの言っていた事を聞いてしまっては余計にだ。彼がこの国を攻め落とそうというのは、正直賛成できない。 「どうしましたかな?」  穏やかな声に視線を向ければ、ハウエルが穏やかな顔をして立っている。それに向き直り、ルーカスは苦笑した。 「案外俺は小心な男だと思ってな」 「ご冗談を。貴方のような豪胆な方もおりませんよ」  可笑しそうにハウエルは笑う。そして真面目な顔をして、ルーカスに一つ頷いた。 「神は正しき心の者へ加護を与えます。きっと、大丈夫ですよ」 「あぁ」  頷いて、それでも消えない不安は押し込んだ。そして静かに審判の時を待った。  城の前に作られた演説台に、アンブローズが立った。貴族や一部の人々からの支持はやはり絶大らしく、声があがった。 「この国はいつから、憎きタニスを受け入れる弱い国となったのか。この国はいつから、敵に対して媚びを売る国となったのか!」  老人とは思えない力強い声に、古い者は拳をあげる。それを、ルーカスは見つめた。  彼らの憎しみは、一体何だという。息子を、孫を、先祖を殺された恨みか? 違う。彼らは恨みなど持たない。彼らの中にあるのはタニスという国を蹂躙する望みだ。いつからか広がった、「タニスは我が国の一部である」という間違った風潮がそうさせているのだ。 「一度は一つであった国を割ったのはあちらのほう。それを取り戻し、正しい神の導きと指導者の下で正しく統治することこそが、真に神が望む事。和平などありえん!」  アンブローズの言葉を聞くに、酷く心が醜くなる。誰でもいい、あの老人の舌を止めてくれ。それが出来るなら死後どこでへでも落ちていい。そのような憎しみと不快感に歯を食いしばる。  その腕を、ハウエルが掴んで首を左右に振った。 「どちらが正しく神の御心に届くのか。それを見届ける事こそが貴方のお役目ですぞ、陛下」 「ハウエル…」 「貴方と、麗しの詩人が解いた正義の心をお忘れなきよう、陛下」  演説を終えたアンブローズが壇上から降りる。それを入れ替わるようにハウエルは前に立ち、まずは祈った。 「まずは皆、祈りを捧げましょう。過去、現在、多くの散った命への感謝と、安らかな眠りを願って」  そう言って十字を切って祈りを捧げたハウエルに次いで、多くの者が祈りを捧げる。騒がしかった場は、途端に静かになった。 「過去、多くの戦いが起こりました。多くの者が死にました。憎しみが憎しみを呼び、更なる血をこの国に降らせてきました」  呼びかけるような静かな声に、皆が聞き入る。ハウエルはそうした人々を見回し、頷いた。 「ですがそれは、相手も同じではないでしょうか? この国が繰り返した悲劇は、返せば相手も繰り返した悲劇。憎しみに憎しみで応酬をしていては、この先も同じ事が繰り返される。これこそが悲劇ではありませんか?」  問いかけに返る言葉はない。それでも、俯く人々は多い。確かに言葉が伝わっている証しのようだ。 「神に選ばれた最初の奇跡の人は、この地に染みる憎しみを終わらせようと、暴君を諫めました。聖教会というものの始まりは、憎しみを終わらせ真に平和な心を取り戻す、そこから始まったものです。決して、他を支配する事ではありません」  ユリエルが各地で歌った詩人の歌。この地の最初の教皇の物語は人々の耳にまだ残っているのだろう。言葉もなく聞く人々が、胸の前で祈った。 「心穏やかに、真に平穏をもたらす方法は、他者を許し合う事です。痛みを知るこの国の民ならば、相手の痛みを知る事もできます。流す涙は同時に、相手の流す涙です。流す血は、相手も同じく流したものです。許し合い、手を取って知る事から初めてゆきましょう。そうする事が将来、この国から争いをなくし、憎しみや悲しみから解放される方法なのです」  言い終わると、ハウエルはもう一度祈りを捧げて壇上から降りた。場は、妙に静かになったまま、王城の一室を使っての投票となったのであった。  この数時間は、ルーカスにとって人生で一番長い数時間だっただろう。投票、開票、集計が出るまでの数時間を、ルーカスは落ち着かない様子で待っていた。  そうして結果を知らせる垂れ幕が、城のテラスから前広場へと落とされた。 「!」  白い垂れ幕が重しによって下へと落ちて、風に揺れる。花火が上がり、新たな教皇が決まったことを華々しく伝える。その色を見て、ルーカスは息を吐き出した。 「ハウエル司教だ…」 「ハウエル様が新教皇だ!」  人々の声が聞こえ、盛大な歓迎の拍手と口笛が響くのを、ルーカスは聞いていた。そしてその隣にはハウエルがいて、穏やかに笑いルーカスの肩を叩いた。 「人々が争いではなく、わかり合う事を望んだ証拠ですよ、ルーカス様」  その言葉に、ルーカスは力なく頷いて前を向いた。そして、直ぐにヨハンを呼んだ。 「アンブローズを捕らえる。奴はもう教皇ではない。謀反の疑いで捕らえ、本人を取り調べる」 「はい!」  ヨハンが直ぐに走り出し、ハウエルが複雑な顔をする。そんなハウエルに他の神官達が近づいてきて、最上級の礼をして白い法衣を着せていく。  教皇のみが着ることの出来るそれらを纏い、ハウエルは人々の前に立った。その後ろにはルーカスもつく。 「有り難う。皆の心は確かに受け取りました。これから、この国は大きく変わっていくでしょう。二つの国を自由に行き来する未来も、きっと訪れる事でしょう。ですがそれらを作るのは、皆の心なのです。今日という日を、どうか忘れないように。神は常に、正しい貴方の中におられるのです」  沸き上がる声が歓喜を示す。それを聞きながら、ルーカスはようやくこの日、自国の安定を見たような気がした。  その夜、王都の外れ二カ所で炎が上がった。周囲の者や王都を守る騎士が火を消し止めた時、室内は全て焼け落ちていた。 「アンブローズを取り逃がしたか…」  報告にきたヨハンに、ルーカスは難しい顔をした。 「開票結果が出た直後に、残された聖教騎士の一部を連れて逃げ去ったみたい。ルーカスがまだ結果を知る前に」  ルーカスは静かに瞳を閉じた。ヨハンが何を言いたいのかは分かる。 「こっち側に、アンブローズに通じてる奴がいる。ルーカス個人の動向は分からなくても、こっち側の動きを知れる位置にいる奴だよ。どうする?」 「どうする…か…」  予測はついている。だが、そこを責め立てるのはあまりに酷だった。 「…監視をつけて、泳がせて良い。アンブローズの行方もそこから知れるかもしれない」 「いいの?」 「いい」  一度確認しただけで、ヨハンもそれ以上の事を言わなかった。  アンブローズ、およびバートラムの邸宅が焼け、聖教騎士団の一部と共にアンブローズは消えた。先に憂いを残しながらも、国は大きく動き出したのは確かだった。

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