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第167話 谷底の真実(1)
【ユリエル】
ユリエルの元へ教皇選挙の結果がもたらされたのは、一週間も経ってからの事だった。
街に潜ませていたクレメンスの部下が伝えた内容を聞いて、ユリエルは力が抜けたような気がした。
「おめでとうございます、陛下」
クレメンスが穏やかに笑って頷き、グリフィスも安堵している。側にはアルクースもいて、皆が力の抜けた顔をした。
ユリエルは直ぐに動けるように兵をラインバールまで進めていた。その数、十万。これまでにない大がかりな兵の待機に、王都までもが緊張した。
それは部隊を預かるグリフィスも同じ。クレメンスと二人で指揮をするとはいえ、戦場の前線で戦い指示を出すのはグリフィスだ。それを思うと気苦労はあったのだろう。
だがこれで、ルルエへの総攻撃は回避できる。後は和平の使者を送り、正式に日を設けて、国の要人も交えて協議をすればいい。
ユリエルはシリルに相談し、レヴィンを使者に立てて今回の結果を支持する旨を伝え、正式に和平協定を結ぶ前段階として休戦協定を結びたい事を書簡として認めた。
それから一週間ほどで、レヴィンは戻って来た。そしてユリエルに概ね合意の書簡を渡し、こちらに使者を向かわせていると伝えてきた。
その日の夜だった。クレメンスとグリフィス、そしてアルクースとこれまでの戦いを労うように飲んでいたユリエルの元へ、レヴィンが混ざり込んできた。
「レヴィン?」
「実はさ、ここにいる全員に会いたいっていうお客さんが来てるんだけど…ちょっと顔出してもらっていいかな?」
この言葉に、ユリエルは嫌なものを感じた。知らず引きつった表情をするユリエルに、クレメンスはいち早く気づいて立ち上がる。
「構わない。他も、いいか?」
「別に構わないが…」
「俺も?」
「勿論アルも。陛下もね」
悪戯っぽく言ったレヴィンを睨むが、軽くいなされてしまう。そうして全員が立ち上がれば、拒む事などできはしない。逃げて終われるわけがない。
レヴィンがつれて行くのは、やはりリゴット砦の物品庫。この扉は一度しか使っていない。ここでルーカスと蜜月を過ごした間、ユリエルは他のより安全な通路を使っていた。
物品庫の隠し通路をレヴィンが暴くと、クレメンスは忌々しい顔をし、グリフィスとアルクースはただ感心していた。レヴィンに腕を引かれ、ランプを持つ彼の後ろを進む。
心臓が痛む。この先に彼はいるのだろうか。どんな顔をしている。どんな顔をすればいい。部下の前で、王の顔をするのか恋人の顔をするのか、それすらも分からない緊張と不安が押し寄せていた。
やがて足は地面につき、扉が開かれた。谷底に綺麗な月の光が注ぐ。その前に、彼はいた。
背後にヨハンとガレス、そして何故かシリルを率いた愛しい人は、王の顔などしていなかった。とても優しい、包み込むような温かな視線と笑みをユリエルへと投げる。その表情に、ただ胸底が甘く音を立てた。
「なっ!」
「陛下、お下がりを!」
クレメンスが、グリフィスが警戒の声を上げて剣に手を当てたのが分かった。アルクースが驚きに息を呑んだのも分かった。
だが、僅かに歩み寄った人が大きく手を広げてこちらへと微笑んだのを見れば、もうそこに逆らえるものはなかった。
駆け出すように走り寄り、ユリエルはルーカスの腕の中に飛び込んだ。受け止めてくれる腕の確かさに安堵し、触れる熱に沢山のものが溶け出していく。あまりに長く、そして険しかった。あまりに苦しく、愛おしかった。その思いがない交ぜになって、甘く甘く締め付けていた。
「待たせてすまなかった、ユリエル」
確かに背に腕がまわり、強く抱きしめられている。ユリエルもその背に手を回して、確かめた。上向いたそこに、柔らかな金の瞳がある。優しい笑みがある。それがそっと落ちてきて、確かめるように唇に触れた。
甘えて受け入れたその熱が、ゆっくりと去って行く。余韻のある行為に瞳を潤ませたユリエルは、ふと背後が凄い空気を発しているのに気づいて振り返った。
グリフィスが真っ赤になってアワアワしている。クレメンスが頭が痛いと手を額に当てて唸っている。アルクースが魚のように口をパクパクさせて声にならない声を発している。そしてレヴィンとシリルが寄り添ってニヤニヤしていた。
そして同じようにルーカスの背後ではガレスが今にも鼻血を噴きそうな顔をして、ヨハンが呆れた顔をしている。
そうした双方のど真ん中で人目もはばからずキスをした自分に、ユリエルも言葉をなくしてしまっていた。
「くくっ」
「ちょっ、ルーカス!」
「いいじゃないか、知らせようと思ってレヴィンに協力してもらったんだ」
そう言ったルーカスはユリエルの腰に腕を回し、ギュッと引き寄せる。離さないと言わんばかりのその力に、ユリエルも従って側にいた。
「これは、これは陛下、あの、一体!」
「つまり、陛下がルルエに忍ばせていた協力者というのはルーカス様その人であったと、そういう事だ」
呆れたと言わんばかりのクレメンスは、だが立ち直りも早かった。恨みがましい瞳が睨み付けるものの、苦笑したユリエルにただ溜息をつくばかりだった。
「まったく、とんでもないお人だ。敵国の王と通じて、自軍と敵軍をそれぞれ思うがままに操っていたとは」
「人聞きの悪い言い方をしないでください、クレメンス。それでは私が両国をいいように牛耳っていたようではありませんか」
「おや、違うので?」
「違いますよ!」
反論するも胡乱な目で見られ、ユリエルは更にムキになって声を出そうとする。だがそれは、ポンポンと宥めるルーカスの手によって止められた。
「ユリエルはタニス軍を率いていただけだ、クレメンス将軍。ルルエ軍を率いていたのは、確かに俺だ。互いの状況を伝え合い、戦局を操作したことは間違いないが、全てをきっちりと決めていた訳じゃない。そもそもそれをしていたら、このリゴット砦を落とされるのはさすがに止めた」
ルーカスの言葉に、クレメンスもしばし考えて頷いた。
「確かにあの夜戦は手抜きなどとは思えないものでした。ですがあの時点ではもう、互いに協力者であったのでは?」
「そうだ。だが国の王として、また兵を預かる責任者として、手を抜くことはできない。あんなに心労の溜まる戦いは後にも先にもなかった」
「それは! 何度も謝って納得できる説明もしたではありませんか。貴方だってそれに頷いて…」
「ユリエル、納得と感情は必ずしも一致しないんだ。あの一戦は俺の中では最も辛いものだったよ。君を殺してしまわないかという不安と、兵と国を守らなければという責任に板挟みになった」
そう苦しそうに言いながらなおもあやすような手の動きに、ユリエルはしょぼくれた顔をする。それを見たクレメンスとグリフィス、そしてアルクースが顔を見合わせ、次には困った顔で笑った。
「いやはや、これはまた困ったが…なんとも反対しづらい」
「ユリエル様にお仕えして十年近くはなりますが、このようにこの方を諫めてしまわれる方には会ったことがない」
「お似合い…と言っていいのかは分からないけれどね」
部下達のその言葉に、ユリエルは視線を向ける。皆が困ってはいる。だが、反対も反発もない。そのことにひたすら安堵が押し寄せた。
「さーて、そうなるともう少し場所を変えようか?」
そう言い出したのはヨハンだ。背後のガレスは複雑な顔をしつつも緊張感はない。むしろこの場の空気に飲まれて薄ら涙すら浮かべていた。
「谷底の家に案内する。そこで、ちゃんと話をしよう」
ルーカスに促され、ユリエルも確かに頷く。そして二人連れ添って、谷底の家へと向かっていった。
谷底の家に到着した部下達は、まず事の経緯を知りたがった。ユリエルは酒を出し、それを飲みながらこれまでのあらましを語った。
「最初は、王都を奪われた直後でした。様子を見に行ったその先で、旅人に扮したルーカスと出会ったんです」
「そんなに昔ですか?」
当時ユリエルを近くまで迎えに来ていたクレメンスが声を上げる。それに、ユリエルも頷いた。
「あの時に王都で出会い、少し言葉を交わしただけなのに、彼は私の中に居座った。また機会があれば会いたい、そう思っていました」
「その時点でおかしいとか思わなかったの?」
アルクースの言葉にユリエルは苦笑し、頷いた。
「旅人は歴史を追いかける。近くにいれば事件現場にいてもおかしくはありません。何より私は他人の正体よりも、自分の正体がばれないかを気にしなければなりませんでした。そして、敵地に長居もできませんでした」
「俺も詩人がいるとしか思わなかったからな。彼らはどこへでも気が向けば行くものだ。何より彼の歌はその正体を疑わせないものだった」
互いにあそこまでは疑いなど持たなかった。いや、持てるほど時間がなかったのだろう。
「それから二度、マリアンヌ港、そして解放後の王都で巡り会い、その頃には愛しさが募るようになっていました。多少の疑いを持ったとしても、自らを偽っている以上話す事はできない。だから、彼の言葉を飲み込んでいました」
クレメンスが溜息をつき、グリフィスが困った顔をする。言いたい事はわからんではない。だが、あの時は短い逢瀬を楽しみ、寄せられる情を受ける事しか望んでいなかった。
「そうなると、互いの正体を知ったのはラインバールの戦いですか?」
「えぇ」
「それは……辛くなかった?」
アルクースに問われ、ユリエルは苦笑する。今でもあの時の苦しみは忘れない。同時に、喜びも。
「辛かったのは確かです。ですが同時に、あの時にようやく偽らぬ形で互いを求められた。そして、互いの状況を知ったんです」
「親書の件ですね?」
クレメンスに、ユリエルは頷いた。
「被害を最小限に抑えつつ、互いに国内の反乱を抑え込む。そうして両国が落ち着きを取り戻し、真に王の手に国政が戻ってきたら、和平を結ぶ。そう決めたのがこの時です」
共犯者となった。国を裏切る共犯者に。だがそれは一時の事。国を思い、互いを思うからこそやれたこと。その中に不安がないかと言われれば不安ばかりだった。それでも進まなければ先はなかったのだ。
「つまり今、互いの目的は達せられた。これでもう争う事はなくなった。和平を結び、両国の関係を改善させてゆく。だからこそ、互いの関係を我々重臣に明かしたのでしょ?」
「…まだ、これからです。ようやく、スタートラインに立ったんですよ」
「え?」
クレメンスは驚いた顔をして、隣のグリフィスを見る。グリフィスも多少不安そうな顔はしたが、ここまで来れば黙って聞くつもりだろう。ジッとユリエルを見ていた。
「和平協定を結び、両国の通行手形を容易に出せるようにします。同時に、互いの領地で犯罪を犯した者を共通の法で裁きます」
「それは…」
「殺人、放火については基本極刑。盗み、違法な売買についても厳しい法は設けます。ですが、どちらの国の者でも丁寧に話を聞き、厳正に裁きます。その為の場所は、ラインバールの砦を改良して作ります」
クレメンスとグリフィスは戸惑った顔をした。何をしようというのか、理解し始めているのだろう。そしてヨハンは驚かない。知っているのだろう。
「国や人、身分によらず厳正な裁判を行い、それによって事情も鑑みて罰を与える。徐々にそれは、両国の法とします」
「お待ち下さい陛下、それは…!」
「後に、二国を一国に統合します」
言い切ったユリエルを、タニス側の面々とガレスは驚きを持って聞いた。ヨハンは、深く息を吐く。そしてルーカスとユリエルは確かな目で一同を見回した。
「互いを知れば、法が同じであれば、国境が薄くなれば、そこに国の境はなくなっていく。互いの技術や知識を互いの国の発展の為に遣い、時をかけて歩み寄っていく。人々を見て、頃を見計らい、国をまとめます」
「…王は、どうなるのですか?
「二王となるでしょう」
「そんな無茶な! 国に王子が二人いるだけで波瀾となるのに、王が二人並び立つなんてことは無茶です!」
クレメンスの言葉は確かだった。だが同時に、もっと確かな事もあった。
「では、私が王の座を退きましょう。私は今の地位に一切拘りはありません」
「そんな! それでは我らタニスの臣が納得しません!」
「では、俺が王位を返そう。ユリエルの下で、ただ蜜月を過ごすのもいい」
「それはダメだ、ルーカス! そんなの納得いくわけが!」
「「……」」
そう、こうなるだろうと思ったのだ。互いの国にとって互いの王は確かにカリスマなのだ。だからどちらが退いても反発がある。副王としても、こればかりは上手く収まらないのだ。
「故に、二王です」
「「…そうですね」」
納得いったように、両国の臣が溜息をついて頷いた。その息の合った応対に、ユリエルとルーカスは顔を見合わせて笑った。
「和平協定は一年以内に確かな形で締結をしたい。その為の法の準備も互いにつめていました。必要な場を設け、人々からの要望を聞いて必要ならば両国を跨ぐ機関を作ります。公共工事、技術の分野でも助け合いをしていけばより発展していきます」
「五年程度でラインバール砦を両国共に廃止し、関所を取り払う。それと同時に、国の統合を両王から宣言をしたい。新たな王都は、ラインバールの地に作る」
ここまで、話をつめたのだ。谷底の家で互いの国について話し、譲れない部分、協力したい部分、法整備、新王都への遷都。時はあっという間に過ぎていった。互いの体に触れて確かめ合う夜など、本当に数えるほどしかなかった。石橋崩落からの数ヶ月、二人は恋人よりも王でいたほうが多かった。
場は、どこか戸惑ったように静かだった。そんな重臣達を前に、ユリエルは一つ確かに頭を下げた。
「ここからは、私たちだけの力ではどうにもなりません。助けてもらいたい。お願い、できませんか?」
隣でルーカスも同じように頭を下げる。これに皆が戸惑い、それと同時に苦笑を漏らした。そして丁寧に、二人の王の前に膝をついて臣下の礼を取った。
「「我らが王に、輝かしい未来よあらん」」
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