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第170話 正当の血
【???】
あの女の血だ。あの女の血はやはり呪われている。だから早めに駆除しなければいけなかったんだ。あの女は魔女なのだから。
男は一人焦っていた。ただただ焦っていた。
王妃様がいたにも関わらず王を誑かし、男を蔑ろにしたあの悪女め。しかも、よりにもよって悪魔を産み落としただなんて。
苦々しく拳を握り、上着のポケットを探る。そこには小さな瓶が二つ入っている。それを指で撫でる間、男はしばし心を落ち着けられた。
男にとって正妃エルザは聖女であった。清らかで優しく、チビで小太りの男にも分け隔てない優しさを向けてくれた。
当時男は宮中に仕える大臣の補佐程度でしかなく、掃いて捨てるほどいる貴族の息子であった。しかも見た目に劣り、実父からも疎まれた。そんな男の性格は鬱屈し、歪んでいった。
最初の犠牲者は、妹が飼っていた鳥だった。ほんの少し、本で読んだ毒の実を餌に混ぜてみた。そしたら鳥は死に、妹は泣いていた。生意気な妹が自分の行いで感情を大きく変える。そのことに、男は支配欲を満たされた。
それからというもの、何かがあると男は弱い者をターゲットにして悪戯をした。死ななくてもいい、多少苦しめばいいのだ。それを影から見ている事が、男の楽しみになった。
その為の勉強もした。幸い男は資料整理などで書庫に行くことが多く、調べ物は得意だった。また、大臣に少しお願いして金銭を払えば、閲覧が難しい書籍を見ることもできた。
そうして薬と毒の知識を蓄え、時に実験していったのだ。
そんな男の前にエルザが現れたのは、男がようやく男爵という爵位を貰ったくらいだった。彼女は遠目にも美しく、優しい。大臣の隣に佇んでいる男の姿を見て、笑いかけてくれた。
まさに聖女であったのだ。
だが彼女にはなかなか子が生まれなかった。そこで、魔女がこの王宮へとやってきた。
側室アデラは威圧的な雰囲気のある女性で、破天荒であった。女なのに書庫で書をあさり、言葉もきつい。彼女は醜い男を見下していた。
そんな女と、何故かエルザは仲が良かった。まるで姉のように慕っていた。楽しそうに笑い、微笑む姿を憎く見ていた。
そして魔女はあろう事か、男児を産んだ。次の王は、魔女の子に決まったのだ。
男は絶望した。産まれた王子はまるで魔女と同じだった。冷たい目で周囲を見渡し、醜い男を見下すようにしている。それに、ひたすら耐えるしかなかった。
大臣の補佐を経て、少しずつ地位を上げていた男は男爵から子爵へとなっていた。
その頃、男の父は病床に伏すことが多くなり、生意気な妹は虫の息だった。男のやりきれぬ思いが初めて、他者への殺意へと変貌したのだ。
やがて男の父が死に、妹が死んで、男は父の爵位を継いで宮中でもいいポジションで働くようになった。宰相補佐の側仕えだ。
そして時を同じくして、エルザが身ごもった。お仕えしている補佐はエルザの父親だった。
産まれたエルザの子は男児。正妃の産んだ子であった。
これでエルザの子が次の王位に就く。だが、万が一にも憂いがあってはならない。魔女とその子を始末しなければならない。
男は特別な毒を作った。父を殺した毒を更に改良した。長く苦しむように、数年をかけてあの女と子供に盛った。
魔女は徐々に弱ったが、悪魔の方は上手く行かない。なぜだ…考えたが、答えは分かった。あの女が途中で気づいたんだ。そして息子から遠ざけた。そしてあの悪魔もそれに気づいた。
魔女は気づいた時には遅かったのだろう。死んだ。だが悪魔は残っている。今もまだ、残っている。
考えに考えて、男はまた毒を改良した。悪魔には今までの毒をしつこく盛っているが、上手くいかない事も分かっている。これでは埒があかない。
そうしてようやく、ある程度の効果が望めるものが出来た。少量で、しかも数分で効果が出る。毒を仕込むよう指示を出した下男を始末するのに使ったが、効果は確かだ。
だが、それを仕込む隙がなくなった。よりにもよって、時間がないのだ。
あの悪魔は敵国ルルエと和平を結ぼうという。よりにもよってだ!
このままではタニスという国は敵の手によって作り替えられる。この国がこの国ではなくなってしまう。今でもそうなのだ、これ以上など耐えられない。憎き国を、憎き血を許せなど何故言える。
男は焦って、タニス王城を歩き回っていた。明日、ルルエ国王とその家臣が来てここで本格的な協定が結ばれる。その前にあの王を殺さなければいけないのだ。
幸いにして、今日はその前日。王は数人の者を呼んでルルエ国王に面通しをするという。
悪魔ユリエルを始末するなら、もう今日しかないのだ。
男は落ち着きなく昼食会が行われる会場の周辺へと来ていた。すると、中で準備をしていたらしい人々が一斉に出てきたのだ。
「食材の荷馬車が到着したぞ、急げ!」
「ルルエ国王様達のお部屋の準備がまだ整わないなんて、何をしているの!」
そんな声と共にバタバタ走っていくのだ。男はそれを物陰に隠れて見ていた。今になって、まったく何をしているのか。
ふと、会場を覗けば人は誰もいない。場は整えられ、座席も用意されている。男はここに招かれている。あと数時間もすれば、ここに座っているだろう。
一か八か、悪魔に短剣を振りかざそうかとも思った。だが、おそらく傷一つ付ける事もできないだろう。
男にとっての武器はあくまで毒なのだ。
そうして見回すと、端のテーブルに食器が既に用意されていた。皆同じ物だが、中に二つ違うものがある。クリスタルのグラスに、金の台座で蔦を模した、美しいものだ。
男はこれを知っていた。昔仕えていた宰相が、自慢げに話していたのだ。「このグラスで酒が飲めるのは、私と国王だけだ」と。王家に伝わるもので、王とそれに準ずる者しか使えないのだと。
これだと思った。
幸い、この場所には誰もいない。周囲を見回し、改めて人の目がないかを確かめた。
そして男はひっそりと、液体の入った瓶を取り出しハンカチに染みこませ、それをグラスの内側へと入念に塗った。ほんの少量でも十分に効果のある毒だ、塗り込むだけでも殺せる。しかもこの毒はあの悪魔も耐性がない新しいものだ。
あの悪魔でも、ルルエ王でもいい。むしろ両方死ねばいい。そうすればこの国はお優しいエルザ様の子、シリル様が継がれる。正しき血の元に正しい形の王国が作られるのだ。
男はハンカチと小瓶を上着のポケットにしまい込む。そしてコソコソと、会場を後にした。
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