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第172話 哀れな男の手記(1)
【ユリエル】
深く沈み込んでいただろう。不意に、頭を撫でる手がある。見上げれば、随分見ていない顔がジッと見下ろしていた。
「母上…」
膝に頭を乗せられ、頭を撫でられているくすぐったい感覚。それに笑いながら、ユリエルは死んだのだろうと思った。そうでなければ、母に会えるはずもない。
「すみません、母上…」
道半ばだ。後を引き継ぐ人はいるが、見られない事は悲しかった。大切な人と離れてしまったことは、悔しくてならなかった。
だが母は途端に不機嫌に眉根を寄せて、ユリエルの頭から手をどけた。
「お前の迎えなど、まだ予定にありません」
「え?」
思わず見てしまえば、母は美しい銀の髪を耳にかけ、腕を組んで見下している。高圧的と取れる姿だが、ユリエルには懐かしい叱られる時の顔だった。
「お前があまりに馬鹿をしたから、笑いにきたのです。とんだ体たらくですよ」
「申し訳ありません…」
「私の無念など晴らそうとするからこうなるのです。罪を本人から認めさせようなど、このような卑小な人間に求めたのが間違いです」
厳しく、そして容赦のない言葉にユリエルは笑った。笑いながら、泣けてきた。この言葉が、この気性が、ユリエルの尻を叩き叱咤激励してきたのだ。
母は、なおも困ったように笑い、ユリエルの背後を指さした。
「寝ている暇などありませんよ。お前のすべきことはまだ残っています。まずは、大切な人を諫めなさい。さもなければ彼の王は、国始まって以来の暴君と成り果てるでしょう」
その言葉に、ユリエルは立ち上がった。そして躊躇いもなく背を向け、見える明かりへと歩み出す。
懐かしい思いもあるが、これからいつでも会えるのだ。死と生の狭間になど、留まってはいられないのだから。
ゆっくりと、目が開いた。重怠い体は、内が酷く痛む気もした。吸い込んだ空気がザラついて、思わず小さく咳き込んでしまった。
「ユリエル!!」
声が、懐かしく思える。必死の形相をした人は、そのままユリエルを抱きしめてきた。
「けほっ」
名を呼びたいのだが、渇いた咳が出て上手くいかない。すかさず違う方向から、見覚えのあるお茶が差し出された。
「ルーカス様、これを」
「あぁ」
上手く動かない体を起き上がらせられ、背に手が触れる。そうして飲まされたお茶が、染み渡るようだった。
「ルーカス?」
小さいが、声が出た。それに何より安堵したのは、ルーカスなのだろう。苦しい表情が、震える手が、泣きそうなのに涙さえ出ない様子が、酷く申し訳なく胸を締め付けた。
言葉もなく抱きしめられ、震える体を感じている。背に手を回したいのだが、重くて持ち上がってくれない。だが、感じる体の熱が、感触が、生きている喜びを伝えてくれる。
「死んでしまうと…」
「ごめんなさい…」
「許さない…」
怒られている事に、安堵してはいけないだろう。実際彼には謝っても足りない。強く強く抱きしめてくる腕の中で、ユリエルは穏やかに笑みを浮かべていた。
「ルーカス様、意識が戻ったとはいえユリエル様は弱っています。あまりに強く抱いては、息が」
「あぁ…」
アルクースが言って、ルーカスはとりあえず離してくれる。そうして見上げたアルクースもまた、だいぶご立腹の様子だ。
「まったく、何してるのさ」
「すみません…」
「あのね、死なない事ならごめんで済むけど、死んだら取り返しつかないんだよ。ルーカス様が咄嗟に毒を吐かせたから、一命を取り留めたんだからね」
ルーカスを見れば、厳しく眉根を寄せている。少しだけ動く手で、触れた。温かな手が包むように触れて、ユリエルは頷いた。
「有り難うございます、ルーカス」
「二度と、こんな事は許さない」
「もう、しませんよ…」
する理由がない。ベネットが死んで、全てが闇に沈んだ。もう誰も、ユリエルの命を狙ってはいない。同時に、母の死の真相は分からなくなったが。
その時、ノックの音と共にクレメンスとグリフィス、シリル、レヴィンが入ってきた。そして、瞳を開けているユリエルを見て皆が駆け寄ってきた。
「兄上!」
抱きつくように腕に縋り泣くシリルは、逞しい姿ではなく弟に戻っている。それを見るクレメンスとグリフィスも、安堵した様子で見下ろしていた。
「無茶も大概にして欲しいものです」
「すみません」
「さすがに焦ったんだけど、陛下。血吐いて倒れるとか、どんな毒かと思うでしょ」
まぁ、だろうなとは思った。ユリエル自身、ベネットの死に様を思い出すと恐ろしいのだ。あのような毒は今までなかったはずだ。しかも、どこから侵入したのか分からない。
「毒は、どこから…」
問えば、ルーカスは複雑な顔をして頬を撫でた。
「あの男自身からだ」
「自身?」
「呼気や、吐き出した血だと思う。毒に冒されたそれらが触れたり、吸い込んだ事で冒されたんだ。こんな毒、今までなかったんだけど」
困惑を隠せない様子で、アルクースも呟く。それに、ユリエルは頷いた。
「毒の大元は、彼が含んだハンカチでした。グラスに毒を塗り込んだ時に使われた物だと判明し、直ぐに処分しました。ベネットの遺体も厚手の袋に入れ、あの部屋から移しておりません。被害者は貴方だけです、陛下」
「距離が近かったし、たっぷりあいつの血を付けられたからね。手の傷も爛れてたけど、戻るって」
見ればベネットのひっかいた辺りに包帯がされている。そこがジクジクと痛む気がした。
「なんにしても、会談は延期だ」
「少し時間を頂ければ…」
言った途端、ルーカスが思いきり睨み付けた。さすがの迫力にユリエルも声がなく、「春に…」と延期を承諾した。
なんにしても、これで一応は片づいた。後味も悪いが、これはもう仕方がない。諦めるより他になかった。
周囲の話を聞いて、ユリエルは自分の状態の悪さを再認識していた。
直ぐに口の中や胃を洗浄されたが、昏睡状態が二日続いたらしい。新種の毒であった為に対処法も解毒法も分からないが、即座に行われた洗浄が結果的に一番正しかったようだ。
しかも摂取させられた量が多くなかった為、こうしてまだ生きている。
目が覚めた今は三日目の夜。体内、特に呼気を吸い込んだ気管支系と、傷つけられた手のダメージは大きいらしい。現にまだ微熱程度はあり、呼吸も苦しくはないが違和感がある。大きく吸い込めばザラついて咳き込んでしまう。
ルーカスはずっと、昼も夜もなく側にいて、手を握り汗を拭き、適度に水を飲ませてと、一生懸命世話をしてくれたそうだ。今もずっと、汗で張り付いた髪を撫でてくれている。
「くすぐったい」
いいながら笑えば、ルーカスも徐々に元の表情に戻っていく。険しく憎悪に光る目ではなく、柔らかく案じてくれる恋人の目だ。
「ずっと、そうしていてくれたのですか?」
「あぁ」
耳に触れるように、確かめるように、大きな手が撫でていく。心地よくされて、ふとユリエルは思いだした。
「夢か…あの世に片足をつっこんだのか分かりませんが。母に会いました」
言えば、ルーカスは複雑な顔をする。痛みに眉を寄せ、それでも不安を口にしない。そんな顔だった。
「怒られました」
「だろうな」
「私のお迎えは、まだ予定にないそうです。あまりの馬鹿に笑い飛ばしに来たと。とんだ体たらくだと、怒られました」
気持ち良く撫でられて、ユリエルは思い出す。叱責しながら、それでも少し心配そうな母の表情を今でも覚えていられる。あの邂逅は、果たして夢だったのか。今ではもう、分かりはしないが。
「強い母だな」
「本当に。気合いが入ります」
昔から、いいことをすれば頭を撫でてくれた。悪い事をすれば尻が赤くなるほど叩かれた。寂しい時には隣にいて、泣きたい時は抱きしめてくれた。口数も少なかったし、言う事が簡潔で、ちょっと怒った印象を受ける人だったけれど、温かい人だったんだ。
「やるべき事が、まだ残っている。寝ている暇はないと、言っていました」
「あぁ、その通りだ」
「…貴方を置いて死ねば、貴方は暴君となる。そうも言われました」
「否定しない。実際、君が死んだら俺は先が見えない。怒りや悲しみを抱えた抜け殻など、どう転ぶか分からないからな」
柔らかい手が頬に触れる。そしてそっと、指が唇に触れた。
「キスとか、ダメですよ。まだ毒の影響が完全に抜けたか分からないのですから」
「問題ない」と、アルクースは言っていた。ベネットから感じた嗅ぎ慣れない異臭もしないし、喀血もない。ただ、著しく弱っているのは本当だから、しばらくは重湯に薬草を大量投入した美味しくない物を食べる事になるそうだ。
それでもそっと、指先が唇をなぞる。くすぐったく、心地よい刺激だった。
「夢の中で、母がずっと撫でていてくれました」
「ん?」
「あれは、ルーカスの手だったのでしょうかね?」
夢にしてはリアルだった手の感触。あれは現実の体が感じていたのかもしれない。そう思い、ユリエルは微笑んだ。
「貴方が私を引き留めてくれた。私は、貴方に生かされていますね」
「お互い様だ。俺は君を生かす事で、俺自身を生かしているんだ」
伝えられる言葉を飲み込み、ユリエルは腕に力を込める。さっきよりは体も動く。重いが動かし、ルーカスに触れた。
「私もきっと同じです。貴方が生きていなければ、私も生きてはいられない」
「それならもう、止めてくれ」
「…もう、ありませんよ」
ベネットが死んだ今、ユリエルの戦いは既に終わった。国内の調整をしつつ、和平を取り付けて。そこに、命の危機はもうない。
「春までには、体をしっかり治して貴方と向き合います。その時には、忍んで行きますよ」
「あぁ、そうしてくれ」
ようやく微笑んだ人が、ユリエルの額に唇を落とす。そのくすぐったい感触に笑って、ユリエルは再び穏やかな眠りに瞳を閉じた。
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