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第173話 哀れな男の手記(2)

 寒い季節が終わりを見せ始め、地が芽吹き始めた頃に和平協定は無事に成立した。  ラインバールの砦は既に誰もが通れる場所となっていたが、通行証が必要なくなった。これからは身元が明らかであり、犯罪者でなければ荷のチェックもほぼ無しで通れるだろう。  そして締結後直ぐに、双方の国の技術支援が決まった。  ルルエはタニスに比べて川が多い。治水技術が発達し、同時に造船や港作りが上手い。  対してタニスは川は多くなく、夏に雨が降らないと農地に水が不足し、逆に大雨ともなれば川が氾濫する事もあった。  そこで治水技術を学ぶため、若い志願兵が立候補して学びに行く事が決まった。  逆にルルエは農業に不安を持っていた。土地に適した農産物、また品種の改良や田の作り方、肥料の作り方。それらはタニスが得意とするところ。  さっそく農地研究をしている者達を数人見繕い、ルルエへと向かわせる事となった。  そして、互いに大切な人の交換をした。ユリエルはジョシュ将軍の遺品と遺体をルルエへと返し、ルーカスは女王の幼い弟王子の遺骨を返還した。  戻って来た遺骨を見た教会の司教は涙を流して手を合わせ、民も多く王都の教会に訪れて手を合わせていた。 「本当に、体はもう大丈夫なんだな?」  今日何度目かと疑いたくなるほどに同じ事を問われ、ユリエルはジロリと睨む。そして、剣の柄を指で遊んだ。 「なんなら一戦、お相手しますよ」 「あぁ、いや…」  ルーカスは引き下がり、ユリエルは笑う。そして剣の代わりに、唇で触れた。  毒殺の一件から、早数ヶ月がたった。最初こそ辛かったが、迅速かつ適切な処置と治療によってダメージは最低限だっただろう。数週間後には歩き回り、仕事をし始めた。  同時に落ちた体力を戻す事も始め、グリフィスを相手にこれまで以上に剣術を磨いた。おかげで前よりも強くなった気がする。  そして同時に、ベネットの身辺が整理された。屋敷とは別に所有していた小屋の中からは、多くの毒草や種、動物が発見された。そしてその効果を、何を混ぜたのかを、何を試したのかを、あの男はひたすら書き残していたらしい。  その研究書はせっかくなので、アルクースに渡した。薬草学に精通した彼なら有効に使ってくれるだろうと思って。  そして同時に、ある物も発見されていた。 「あの男の手記が、見つかったそうだな」 「……」  ユリエルは黙って、頷いた。  正直あの手記を読んだとき、怒りに震えた。あまりに自分勝手な男の妄想と、思い込みだったのだ。最初から決めつけていたのだ。そんな理由で、母は死んだのだ。  肩に温かな手がかかる。ユリエルはそれに微笑み、手を重ねた。 「ルーカス、今夜中庭で会いませんか?」 「あぁ」  誘えば直ぐに返事が返ってくる。それに頷き、ユリエルはその夜を待つのだった。  その夜、ユリエルは母の墓碑が見えるベンチに腰を下ろしていた。少し温かくなった風が心地よく頬を撫でる。そうして待っていると、ゆっくりと歩み寄ってくる足音が聞こえた。 「待たせたか?」 「いいえ」  隣に腰を下ろした人が、そっと問いかける。それに穏やかに答えたユリエルは、黙って墓碑を見つめた。 「…始まりは、あの男の行き過ぎた恋慕だったようです」  黙っているのも苦しくて、ユリエルは話し出す。懐から、小さな手記を取りだして。 「あの男はシリルの母、正妃のエルザ様を遠くに見て、恋をしたようです」 「そのような接触があったのか?」  問われ、ただ首を横に振った。  エルザという人は嫋やかで柔らかく、芯のある人だった。不誠実を嫌い、故にユリエルを立てた人だった。そんな人に、秘められた関係などあるはずもない。 「おそらく、その他大勢に微笑みかけて手を振った。それをあの男が勝手に、自分に向けられたのだと思い込んだのです。その程度の事ですよ」 「そんな事で、君や母君は恨まれたのか?」  信じられないというルーカスの顔をチラリと見て、ユリエルはただ頷いた。 「手記には、こうあります。『聖母のようなエルザ様。その夫である国王陛下を、魔女が横合いから攫っていった。笑顔を見せるエルザ様もきっと、心の中では泣いておられるだろう。なんて憎らしい女だ』と」 「本当に、そんなことが?」 「違いますよ。エルザ様が王家に輿入れするよりも以前から、私の母とは親友でした。自分に子が出来ない事を悩み、母に相談し、そして母ならば側室としても恨みはないと王に進言したのはエルザ様です」  「逆に辛い思いをさせてしまった」と、エルザは泣いてユリエルに謝っていた。優しい人の悲しみは、確かにユリエルに届いていた。あの人は父王よりもずっと、母の死を悲しんでくれたのだ。 「では、男の思い込みか」 「あの男はエルザ様とも、私の母とも話した事がありません。私もいることは知っていますが、直接の関わりなどありません。あの男は古く宮中にいた、補佐官の一人でしかなかったのです」  だが、常に大臣などの側にいて、影に隠れている印象がある。目立つ事を避け、息を殺すように生きていたのだ。  この手記を読むまで、ユリエルはベネットになんの恨みを買ったのかと思っていた。むしろその後ろに更にいるのだと思い、探らせてくらいだった。  だが、その後ろなんていやしない。この男は勝手に思い込み、妄想から恨みを募らせ続けたのだ。 「弱いからこそ、歪んだのでしょう。実父にも、妹にも虐げられ、常に自らに劣等感を抱き、周囲の目や小さな声が全て自らへ向けられる誹謗だと思い込んだ。そこから来るストレスや憎しみが、私たち母子に向かったようです」  そのような気持ちを、この手記からは感じられる。  父がいかに自分を醜いと見下したか、妹が無能と罵ったか。宮中でも常に人の目を気にしていた事、コソコソと話す全てが自分を蔑んでいるんだと、書いてあった。  ある意味でここまで被害妄想が進むと哀れだった。このような思いを抱えて長く生きていて、あの男は幸せだったのか。  だからこそ、唯一、例え遠く大勢に向けたものでも、笑顔を見せるエルザに憧れと恋慕を募らせたのだろう。彼女を守り、悲しませる者を排除する事が自分に課せられた使命であるように、あの男は思ったのかもしれない。 「酷い話だな」 「そう…ですね」 「ユリエル、悩むのか?」 「…この手記、読むと痛むのですよ。私もある意味で孤独でした。理解者である母を失い、父に遠ざけられ、命を狙われ、寄る辺もなくて。ただ私には、助けてくれる周囲の者がいました。素直に全てを受け取れなくても、寄せてくれる気持ちはありました。それすらもなかったら、私もこのように歪んだのだろうかと」  グリフィスが、ロアールが、ダレンが、エルザが、シリルが。側にいた人がこっそりとユリエルを支えてくれていた。亡き母の残した志が、ぶれない芯を与えてくれた。そこに添う事で、自分はいられる気がした。 「お前はどうしたって、こんなに歪みはしない」 「そうでしょうか?」 「お前は堂々とした気質だ。隠れて毒殺など、考えないだろ?」  問われ、笑う。それはユリエルが偶然にも強者であったからだ。弱く野心を持てば、毒という手を使ったかもしれない。  だが、ルーカスはただ静かに側にいる。この温もりに身を寄せていられる。 「人の縁は、こんなにも大きく、温かいのですね」 「あぁ、そうだな」 「此度の戦い、私は得るものが多かったように思います。クレメンス、レヴィン、アルクース、ファルハード、ヴィト、フィノーラ。彼らを得て、彼らに助けられて、私は自分の小ささを知った気がします。一人ではきっと、ここまで立っていられなかった。果ての見えない目標に、押し潰されてしまいました」  この手記にある哀れな男は、手を伸ばす事もせずに内にこもって、憎しみや劣等感を毒という方法で晴らそうとした。この男の歩んできた孤独の道は、自分のそれと大きく変わらない。壁一枚程度の隔たりしかないだろう。ほんの少し人に恵まれた、その程度なんだ。 「母が死んでしばらく、私は周囲に疎まれ、触れる者もいなかった。書庫に籠もり、本を読む事でしか時間を潰せなかった。気持ちも尖り、可愛げもなかったでしょう。毒に怯え、何を口にするのも恐ろしく思い、全部が敵のように見えた頃もありました。あの時、ロアールやダレン、グリフィスがいなければ…可愛げのない私に必死に接してくれなければ、私は今頃この男のように、周囲の全てを憎み恨み、疎ましく思う人間になっていたでしょうね」  そっと抱き寄せる腕にユリエルは甘えた。瞳を閉じ、温もりに身を寄せて。 「俺は君の臣を、大切にすると誓うよ」 「ん?」 「君をここまで見守って、大切にしてくれた人々を大切に思う。今の君を作っているものを、大切にすると誓う」  優しく言われ、ユリエルはクスクスと笑った。大真面目な顔で、なんてことを言うのだろう。 「私も同じ事を誓いますよ」 「ん?」 「貴方の仲間と、貴方の臣を守ります。私の全てをもって、貴方の大切な全てを守ると誓いますよ」  隣り合って、互いに顔を見合わせて、妙に可笑しくなって二人で声を出して笑った。ひとしきり笑って、見つめ合ってキスをした。甘やかされるような唇に甘えながら、ユリエルは今ある命と未来を感謝し、進んで行くことを改めて誓ったのだった。

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