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第174話 少女の悲運
【???】
とある家に、望まれぬ子が生まれた。
ルルエの名門貴族家、アッカーソン家は規模も大きな家柄であり、代々王の側近くに召し抱えられていた。
当主アルマン・アッカーソンには妻ビアンカ、そして息子オースティンがおり、裕福に、そして幸せに生活をしていた。
だがこのアルマンには、一つとんでもない悪癖があったのだ。
アルマンは、女癖が悪く執拗で、変質的だった。
当時ビアンカ付きであり、オースティンの世話役をしていた若い女性がいた。貴族家の末にあり、慎ましく優しげだったその女性は、気の強いビアンカとは正反対であり、アルマンの目に留まってしまった。
アルマンはこの女性を屋敷の地下へと連れ込み、連日犯し、暴行を加えた。そしてとうとう、女性はアルマンの子を身籠もったのである。
妻にも、同居する実父にも言わず、アルマンは女を地下室に監禁し続けた。そしてビアンカには「田舎に帰った」と言って新しい女性を雇い入れた。
だがアルマンの性癖は更に悪化し、新しく雇い入れた女性にまで手を出した。
だがこの女性は先の女性に比べて気が強く、行為の最中にアルマンを殴り倒し、ビアンカの所に駆け込んでしまったのである。
アルマンが起こした事は、ビアンカと実父の知るところとなった。そして、前から夫の行動のぎこちなさに気づいていたビアンカが地下を暴いた事によって、身重の女性は見つかったのである。
この時既に四ヶ月、堕胎させる事は困難であった。
ルルエ聖教会において、神より授かった子を堕胎させる事は原則罪深い行いと言われている。だが、家庭の事情や貴族のスキャンダルによって、子がまだその形を明らかとしない二、三ヶ月の間ならば、事故であったと処理されてきた。
だが、既に彼女の腹の中ではその期間を大幅に過ぎた子が成されていたのだ。
この子を堕ろせば神の怒りに触れ、この家は潰える。実父はそれを恐れてビアンカを説得し、密かに彼女を死んだ事にし、屋敷の地下に監禁したまま子が産まれるのを任せた。
そうして、彼女は一人の女の子を産み落とした。小さく産声を上げたその子は、父アルマンに似ていた。その為、養子に出すこともはばかられた。
家名に傷がつく。たった、それだけの理由だった。
子は名を「キャシー」と付けられ、母子は地下で暮らした。僅かな明かり取りの窓から差し込む陽光で昼夜を判断し、日に二度食事を与えられる。
母は子に、言葉を教えた。二人きり、音が漏れないような場所で、母は必死に子が生きられるように教育をし、体を鍛えるように運動をさせた。
そんな生活が、十一年も続いたのだ。
だが、この非道な行いを神は許さなかったのだろう。少女が十一歳になったある日、アルマン一家は馬車の転落事故で全員が死んだ。
残されたのは隠居した齢八十を過ぎた実父と、キャシーだけとなった。
これに焦ったのは実父であった。跡取りのいない名門アッカーソン家はこれで潰えてしまう。焦りに焦った彼は、長年仕えていた前ルルエ国王、ルーカスの父に事の次第を隠さずに伝えた。
前王は酷く驚き、同時に悩んだ。
長年仕えていた者の窮状をどうにかしてやりたいという思いはあるが、アルマンが行った非道を許す事もできない。そして残ったのは、長く表に出る事すらもできなかった娘だけだ。どうしてやれるという。
その時、悪魔が囁いた。
「そのような事情でしたら、致し方ありません。方法はございます」
当時教皇になったばかりのアンブローズが、謹んで前に出て、アッカーソン老と前王へ言った。
「その娘を、ご当主様が外に作った愛人との子として受け入れ、名を改めてはいかがか」
「そんな事が許されるというのか!」
前王は非難したが、アッカーソン老にとってこれ以上の手はなかった。血が絶える事に比べれば、他を欺く事など大した事ではなかったのだ。
かくして地下の母子は日の当たる場所に戻った。だが、母親はこの時既に長い監禁生活に痩せ細り、余命はほぼなかった。
そして娘キャシーはアンブローズの手によって名を「キア」とし、戸籍を操作されて人としての人権を得た。
キア・アッカーソン誕生の時であった。
月明かりが差し込む山の中へ、キアは入り込んだ。その先に、うち捨てられた古い教会がある。
外套を纏い、馬で単騎訪れたそこには、二人の目つきの鋭い騎士がいた。
「アンブローズ様へ、お目通りを」
男は馬を預かり、身体検査をして、中へとキアを通した。
教会の中は埃っぽいが、そこから奥にある居住区は片付けられている。蝋燭の頼りない明かりの中を進むキアは、自身の心臓の音に苦しくなっていた。
あの日、少女キャシーはキアとなり、男の人生を歩み出した。ただその苦労はあまりに大きかった。女であるというのに、男の中に身を置くことは思春期の彼女にとって辛い時間だったのだ。
ただ唯一救いであったのは、仕えた主であった。
前王はキアの身の上を大変に案じて、息子であるルーカスの側仕えとした。当然、ルーカスはキアの身の上を知っている。だからこそ、辛い時に無理はさせなかったし、風呂のついた部屋にキアを置いた。
キアの中にある女性の部分は、この寛大で優しい主を思った。身分に添わないのは当然分かっている。それでも戦場に出て、危険と分かりながらも離れなかった。後方を整え、人や食料の補給などに邁進した。そして時には敵国への使者も行った。
全ては愛しいルーカスの為だった。
それなのに…。
訪れた教会の奥の部屋に、その老人はいた。会うのは実に、数ヶ月ぶりであった。
「きたか、キャシー」
ニヤリと笑う老人の目に、まだ強い力があることを感じたキアは恐ろしくなった。
「お待たせして申し訳ありません、アンブローズ様」
その声はルルエ国王ルーカスの側近キアではなく、哀れな少女キャシーのものだった。
「さて、タニスに行っておったのだろ? なにか、よい話はないのかね?」
「それは……」
言葉に詰まってしまう。話したくないのだ、ルーカスの為に。
両国の和平がなって、既に五年が経った。これを記念して近々、ラインバールで鎮魂の儀式が開かれる。だが、そればかりではない。ルーカスはタニスとの統合をこの場で発表しようとしている。
思えばタニスとの停戦の時から、このような予兆はあったように思えた。両国の壁が薄くなった時、二人の王は示し合わせたように統一した基準の刑法を定めた。そして、両国の人間を差別なく裁判をしたのだ。
人の流れが活発となり、偏っていた思い込みが薄れ、情報が行き交うようになってより人の触れ合いは多くなった。今ではどちらの国の出身かなんて、気にするのはよほどの老人しかいなくなった。
文化が混じり、商業が混じり、壁が薄くなって五年。互いに助け合いを始めた国は、既に一つの国と言っても過言ではないのだ。
アンブローズはゆっくりと歩み寄り、キアの前に立つ。その目はゴミを見るような目だった。
「神の意に添わぬ行いは、地獄に落ちるのだぞキャシー」
「それは…」
「生きながら永劫の炎に焼かれ、四肢を裂かれるか」
「そんな!」
「それとも、淫乱の母と父の業を背負って、地獄の悪魔にその身を穢されるか?」
「!」
嫌らしい目で、アンブローズはキアの体を見回す。服で隠し、胸を強く締め付けているが、キアもこの時二十歳を超えている。腰はくびれ、胸は痛いほどにきつく締め上げて誤魔化しているが、それなりに育ってしまっている。仕方なく服を着るときには腹に布を仕込み、凹凸が分からないようにしている。
「地獄の悪魔は淫乱な女が好きだと聞くぞ。身を犯され、腹に子を宿され、何度も産んではまたと、醜い者と混じり合う度にお前の身も醜く変わり行く。魂が汚れれば二度とこの世に生まれ落ちる事はなく、永劫お前は望まぬ腹となって地獄に留まるのだ」
「そんな…」
「お前の母もそこにいるだろう。並んで悪魔の腹となるのもまた、良いのだろうな」
想像して、そのあまりに辛い仕打ちに震えた。
キアは当然処女であった。例えルーカスでも、キアの肌に触れる事はなかった。長年を共に過ごしたヨハンやガレスといった仲間など、キアが女である事すら知らないのだ。
処女の身で、そのような地獄に落ちてしまったら……。
この身の不遇に、キアは涙が出た。
望んで産まれたわけでも、望まれたわけでもない。母は時折、苦しそうな目でキアを見た。憎しみすらも見える目だった。
だが決して、言葉にはしなかった。キュッと噛みしめた唇を見ると、もう喉元までは出かかっていたのではと思うのだ。
「お前など、産まれてこなければよかったのに」と。
アンブローズはなおも、震え泣くキアに近づき、そっと頬の涙を撫でた。
「可哀想なキャシー、お前が天へと行ける唯一の事は、神の意に添うこと。私の言う事を聞く事だ」
せめぎ合う気持ちの中で、キアはずっと苦しんでいた。死ねるものなら忠義を立てて死にたかった。だが、それはできない。
キアは、洗礼を受けていない。
ルルエ聖教において、女児は十歳までに洗礼を受けなければならない。だがキアは十一歳まで産まれた事すらも隠されてしまった。その為、キャシーとしては洗礼を受けられなかったのだ。
男児は十三歳までに洗礼を行えばいい。キアは洗礼を受けたが、そもそもキアなんて人間は作り物だ。作り物が洗礼を受けたからといって、魂は救われない。
死後、天の門の前で神に告げる名を、キアは持っていなかった。
「さぁ、タニスとはどんな話をしたんだ?」
「…近く、ラインバールで式典が…慰霊と兼ねたものが…」
「ほぉ、それだけか?」
老人は更に詰め寄ってくる。キアはこの人物に隠し事ができたためしがない。震えながら身を固くしていれば、苛立った老人の杖がキアの腹へとうち込められた。
「うっ!」
「全てを吐かねばこのまま地獄へ送り届けてくれる!」
「それだけは!」
「ならば言え!!」
ルーカスを裏切る。でも、地獄にも落ちたくはない。なんの悪い事をしたというんだ。望まないなら、どうして産んだんだ!
苦しくて、辛くて、泣きながら腹を押さえて蹲ったキアは、ボソボソと言葉を紡いだ。
「その場で、両国の王は国の統合を宣言するつもりです」
アンブローズの瞳が険しくなり、次にはニヤリと笑みを作る。それを見上げて、この人こそが悪魔なのではないかと思う。
だが、もうルーカスにも言えない。教皇選挙の時、いち早く結果を知ったキアがアンブローズに伝えた事で、この老人は他国へと逃げた。
逃げた時の船の手配をしたのも、キアだった。
あのまま帰ってこなければ。思っても、ダメだ。丁度一年前、アンブローズは何でもない顔でこの国に戻り、キアに接触してきたのだ。
「これはまた、神の意の背く行いだ。可哀想なルーカス陛下は、タニスの悪魔に誑かされていると見える」
「ルーカス様には危害は加えないと!」
最初に、そう言ったじゃないか…。
「勿論、ルーカス陛下には危害など加えない。殺すのはタニスの悪魔だ」
その言葉に、キアは固まると同時に「ならばいい」と思ってしまった。
タニス国王ユリエルとルーカスのただならぬ関係を知ってしまったのは、タニスで起こった毒殺未遂事件の時だった。
危険だろう場所に、ルーカスは躊躇いもなく飛び込んでユリエルを助け、その口に水を飲ませ続け、必死に名を呼び体を摩っていた。その様子で、「彼らは普通の関係にはないのだ」と知った。特別な言葉などいらなかった。
憎かった。地位も、美貌も、名誉も持っているユリエルが、この上愛しいルーカスまで攫っていく事が。何も持たないキアは、触れる事もできないのに。
なんて不公平なのだろう。女である部分を消せないのに、隠さなければいけない。愛しい人が敵国の王と思いを寄せ合う姿を、この後も見続けなければいけない。
そう思えば、ユリエルを多少邪魔に思ってしまったのだ。
「キャシー、日時と、詳しい会場の場所を後で持ってくるのだぞ。神が見事悪魔を成敗しよう」
キアはもう、抵抗する力を失っていた。ただ力なく頷き、フラフラと帰っていった。
キアがルーカスのいる王城へと辿り着いたのは、既に深夜になってからだった。
疲れた体を奮い立たせて歩き出すと、部屋の前に知った姿があった。
「今帰ったのか、キア」
「ルーカス様…」
途端、溢れた息苦しさと申し訳なさに涙が出そうになる。キアは必死にその思いを押しとどめた。
「大丈夫か?」
近づいて、頭を撫でる大きな手を見て、胸の奥底が熱を持つ。この手に甘えれば、どれほどに楽になるのだろう。この人の為に地獄に落ちてもいい、裏切らないと思えたなら、どれだけ今が楽だっただろう。
思うがそんな勇気はない。父と義母、そして義兄は二目と見られない姿で死んだ。母は食事を受け付けられず、痩せて手足や胸は骨が浮き出ているのに腹だけが妊婦のようにぽっこりと出て、目ばかりがギョロリとして、そのまま声を発する事もなく死んだ。祖父はある雨の夜、「息子の声がする」と言って外に出て、雷に打たれて黒焦げとなった。
あんまりだ、呪われている。母以外に愛情など持っていなかったが、親族のそうした死を目の当たりにして、神の怒りを感じた。「お前もこうなるのだ」と言われている気がした。事故と病気で片付けられたこれらの事は、とてもそうは思えなかった。
「平気です、陛下。ただ、今日は疲れました。報告は明日でもよろしいでしょうか?」
「あぁ、構わない」
穏やかに微笑んだルーカスが、脇を通り過ぎていく。途端目の前に広がった闇は、キアを深く誘うようで恐ろしかった。
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