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第175話 裏切りの一矢

【ルーカス】  その日、ラインバールの地は多くの人が訪れていた。  献花台に用意された花を人々は手に持ち、両国の神官が祈りを捧げる炎の中に投じていく。手を合わせる人々の姿を見ながら、ルーカスは深く息を吐いた。  和平協定が締結して、五年。人々の間に壁はなくなった。元々がそれほどかけ離れた文化の国ではないのだ。更に言えば信仰する神も同じだ。  両国の統合に際し、もう一年以上家臣達との間では話し合いが行われてきた。  最初は両国共に戸惑い、反発もあった。だが丁寧に何度もラインバールの地で話し合いが行われ、ぶつかりながらも意見を擦り寄せるうちに、互いの真意や拘り、譲れない部分も分かってきた。  そしてようやく二ヶ月ほど前に、両国が納得出来る人事と法が整ったのだ。 「いよいよですね」 「あぁ」  隣にユリエルが並び、同じ光景を見下ろす。  ラインバール砦は、既に砦としての機能は持っていない。だがこれはこのまま残そうかと思っている。ここに新たな都を作る時の外壁として。そしていつまでも両国の刻んだ歴史を忘れない為に。 「何か、心配事がありますか?」  問われ、ルーカスは苦笑した。  ユリエルとこうした関係になって、何年が過ぎただろうか。渇望から始まり、絶望と希望を見いだし、もがくように進んで。でもこの数年は穏やかだった。  両国の会議はもっぱらラインバールで行われ、自然この地で執務を行う事が多くなっていた。そういう時には二人で忍んで会い、時には求めあった。  互いに多少年は取ったが、ユリエルの美しさと妖艶さには磨きがかかったように思える。どんどんと手放せなくなっている。 「ルーカス?」 「あぁ、すまない。取り逃したアンブローズの動きが掴めない事が、気になってしまって」  今、重要な日を迎えようというこの時にそれを口にするのはいい気分がしない。だが、最近キアの様子もおかしいのだ。そして一年程前に、アンブローズらしい人物を港で見たとの話しもある。  ユリエルはやはり渋い顔をした。彼もまたアンブローズの動向を気にしてくれている。 「警備の数を、増やしましょうか?」  問われ、ルーカスは頭を掻いてしばし悩んだ。  できるだけ多く、身分など関係なくこの場に集まってもらいたい。だからこそ、砦の一部も開放した。かつては戦場だったこの砦の丁度中央、聖域の森に背を向けて場を設けた。  当然背後の警備は付けたし、側にはガレス、グリフィスの両将がいる。更に全体の指揮をクレメンスが行っている。ユリエルの側にはシリルと、当然側近となったレヴィンがいる。 「…いや、これ以上人を遮断はしたくない」 「では、巡回の者を今一度出しましょう」  ユリエルは柔らかく微笑み、ぱっと踵を返す。そうして歩き去る背を、ルーカスはただ見つめていた。  この日、慰霊に訪れた人々へとまずは鎮魂の儀式が行われた。式典の為に作られた壇上に、ユリエルとルーカスは並んで座っている。その目の前にある祭壇の前に、タニスの司教と教皇となったハウエルの二人が立ち、祈りの言葉と聖水が降り注ぐ。  思えばここでは多くの人が死んだだろう。二つの国、それぞれの血を吸った場所だ。  ここに都など、呪われるだろうか。ふと思ったが、止めた。この悲しみの地だからこそ、王都にと願ったんだ。悲しみの場所を、幸せの場所に変える。この場所が本当に笑顔溢れる場所となったら、両国の長い呪いも解けるだろう。  祈りの言葉が終わり、ユリエルと連れ添って祈りを口にし、同時に花輪を聖火へと投じた。改めて祈ると、ユリエルは人々からよく見える演説の壇上へと上がった。 「この地に眠る多くの者の鎮魂を願い、今を生きる人々がこれほどに集まってくれた事を、感謝します」  通る声だ。どれほどの喧騒の中にあっても、彼の声は不思議と通る。それほど大声を張り上げるわけではないのに。だからこそ、人の胸に染みるような印象があるのかもしれない。  少し後方で様子を見ていたルーカスは、そんなユリエルの背を見ながら微笑んでいた。 「かつて、二つの国は多くの血をこの場所で流してきました。多くの悲しみが、この場所で産まれました。ですが、ここで戦って果てた者達が真に願ったのは、穏やかで平和な暮らしだったのではと思います。家族と温かな時を過ごす、何でもない日々を夢見て戦ってきたのだろうと思います」  静かな声が人々の中に消え、表情を落とす者もいた。キュッと胸元を握る婦人や、小さな子の手を握る若い女性の姿。  それらを見るとやはり、胸は痛む。生きているからこそ言える言葉だ。彼らの大切な人は、何をしても戻りはしない。 「彼らの目指した日々を、今の私たちが叶えましょう。そして、この悲しみと苦しみを未来の子孫に残さない事こそが、ここに消えた人々の願いに添う事だと、思っています。もうそれは、難しい事ではないはずです。壁の向こうにいる知らない憎い者では、ないはずです。皆の前にあった壁は、もうないのと同じです。私はルルエの人々を知りました。優しく穏やかで、気さくに手を振ってくれる、そのような優しい人々です。これからは、私にとってもかけがえの無い愛しい民です」  ユリエルのその言葉に、傍聴人は僅かにざわめいた。意図をくみ取った者がいるのだろう。ユリエルがこちらを振り向き、微笑む。ルーカスもそこに視線を向け、目を見張った。  視線の先に銀の光が一瞬見えたのだ。それは真っ直ぐにこちらに向いていた。タニス側の砦から、こちらを…。 「ユリエル!」  風を切る音が、鋭く耳に聞こえる気がする。ルーカスはユリエルの体を脇へと押しやった。だがそれでは、自らの安全は確保できなかった。 「ルーカス!!」  悲鳴のようなユリエルの声が聞こえる。だがそれ以上に、突き立った矢が深く胸を貫いた痛みに呻いた。  前に倒れる事だけは避けて蹲るが、どうにも汗が止まらない。息が苦しく、切れてしまう。どうにか体を立てようとするが、力が入らなかった。  直ぐに人が動いた。ヨハンとレヴィンが怪しい方向へと直ぐに駆け出し、軍医ロアールが駆けつけてくる。その横でずっと体を支えるユリエルが、青い顔をして泣いていた。  手が、まだ動く。腕を伸ばして、頬を撫でた。濡れた感触が伝わってくる。手を添えて、それでもなお涙に濡れていく。言葉が出ないのかもしれない、ずっと名を、呼んでいる。  あぁ、分かるよ。君が毒に倒れた時、そのようになった。なんて声をかけていいか分からず、ただ必死に名を呼んでいた。  口の中に、血の味が広がる。深いだろうと思っていたが、肺まで届いていたようだ。  場が、混乱していく。悲鳴と動揺と逃げ惑う人々のざわめき。その中に、苦しい言葉が聞こえる。  「タニスの仕業か」「ユリエル様を狙っていた」「ルルエは信用できるのか」  ダメだ、そんな疑いを持たないでくれ。こんな一瞬で、これまでの苦労が消えてしまうなんて。せっかく取り除いた憎しみが、再び表れてしまうなんて。  だが、涙に濡れて揺らめいていたユリエルの目が、光を灯した。そして猛然と立ち上がり、まだ射手を捕らえたかも分からないのに壇上に立った。 「静まれ!!」  強い、支配する者の声。綺麗でありながら凛として、強くひれ伏す声をしている。 「両国の和平を願い、ここまで尽力してきたルーカス王を思うなら、その心に憎しみなど宿してはならない! 平和を願い続ける私を思うならば、同じ痛みを知る隣人を疑う事などしてはならない! 彼の王は決して死なせはしない! 卑劣な行いをした者を必ず白日の下に晒し、皆の前で裁きを執り行う事を約束する。この約束が果たされるまで、決して皆は他者を憎んではならない!」  声はみる間に人の間を通っていったのだろう。喧騒が、不安が、落ち着いて行くのを感じる。届いたのだ、ちゃんと…。 「ルーカス様!」  ロアールが矢羽根を切って固定する。グリフィスが、体を持ち上げ猛然と走り出す。ルーカスは全てを預けて、瞳を閉じた。 ============================== 【ユリエル】  ルーカスを射た射手は、タニス側の砦の塔の上で息絶えていた。手にはタニスのエンブレムがついた弓を、服装はルルエの騎士の物を着ていた。 「ちぐはぐですが、これがまたなんとも言えませんね」  クレメンスが重く溜息をつく。射手は塔の上で矢を射ると、自らの首を掻き切っていた。 「何も知らない者が見れば、どちらの仕業か言い争いになります。場所はタニス側だし、武器もタニスの物なのだからタニスが仕掛けた事。ルーカス様を狙ったんだと。でも衣服はルルエの物で、実際狙われたのは明らかにユリエル様でした。タニスの行いに見せたルルエの仕業とも言えます」 「事実を知らない者が見れば、ですけれどね」  ユリエルは溜息をついた。その時、遠慮がちなノックの音が響いて顔を上げた。見ればガレスが、実に歯切れの悪い顔でこちらを見ていた。 「あぁ……討伐に出てた奴からの報告で、捕らえたって」 「どこですか?」 「港のヨハン隊にも聖教騎士の残党が引っかかったけれど、アンブローズは潜伏先の山狩りで捕らえた。グリフィス様が連行するって」 「そうですか」  ギリギリと拳に力が入るのは、仕方がない。憎い男を思えばこうなって当然だった。 「あの、それと…」 「なんです?」 「……キアの扱い、どうするんですか?」  問われ、ユリエルは表情を消した。  ルーカスが倒れた時、真っ先に動いたのはキアだった。彼は顔を青くし、護身用に持っていた短剣で自らの首を刺そうとしたのだ。それを側のガレスが止め、様子の違いを問えばアンブローズの潜伏先を吐いた。  他者を疑わないガレスは驚いていたが、ユリエルには当然と思えた。それというのもユリエルは知っていたのだ。キアがおそらく内通者であると。  ルーカスは彼の身の上を知っていた。そして確信が持てないまでも、内通者はキアなのではないかと疑っていた。そしてユリエルに、キアの歩んできた人生を教えてくれた。  正直同情はした。だが、裏切りの理由にはならない。厳しい目でガレスを見たユリエルは、彼をここに呼ぶように伝えクレメンスを下げた。  やがて、囚人服に枷をしたキアが入ってきた。服装を全て改めたキアは、どうしても女性であった。この姿にガレスは驚いた様子だったが、ユリエルに動揺はない。  俯いたままだったキアは、戸口から動こうとはしなかった。扉を閉めたその場から動かず、言葉もない。そんな彼女に、ユリエルは静かに近づき剣を一閃させた。  風が吹くような勢いの剣がキアの首を横に薙ぐ。目撃者がいれば、おそらく青くなったのだろう。だがその剣はキアの首を落としはしなかった。薄く、僅かに血が滲む程度だった。 「…ルーカスがお前を気遣っていなければ、そこに首は無かった」  憎らしく剣を収めたユリエルは更に距離をつめる。そして胸ぐらを掴み、背後の扉に背を押しつけて睨み付けた。 「何故彼を裏切った。お前を疑いながらも信頼していた彼を、どうして裏切った」 「貴方には分からない…貴方に、僕の事など…」 「そんなに、地獄は恐ろしいか」  キアの赤い瞳が僅かに見開かれる。それを見下ろしながら、ユリエルはなおも瞳に炎を揺らめかしていた。 「私は彼の為なら、地獄に落ちようとも躊躇いなど無い。延々と陵辱されようが、身を切られ焼かれようが構わない。許され、死ねと言われればこの命一つ捨てる事に躊躇いなどない。その程度の覚悟もなく、お前は彼の側にいたのか」  許せなかった。自らを憐れみ、その為にルーカスを裏切った事が。覚悟もなく側に居続ける事をして、どっちも選べなかった事が。  自分か、相手か、ユリエルは簡単に選べた。ただ一つ、唯一を取る事ができるというのに。  キアは赤い瞳を見上げ、ユリエルを凝視する。そして、ポロポロと涙をこぼした。 「貴方に分かるわけがない……死んでどこに行くのか分からない僕の哀れを、分かる訳がない。産まれながらにして何もかもを持つ貴方に、僕のことなんて…」 「何もかもを、持っているだと」  腹立たしさに、ユリエルはキアの隣を拳で殴った。大きな音が響き、キアは身を固くした。 「私は、弟が生まれた事で疎まれた。十かそこらで毒を盛られ、母を失い、寄る辺をなくした。自ら立たなければ王子としてもいられず、必死にここまで踏ん張ってきた。産まれながらに持っていただと? ふざけるな! それが、大切な人を裏切る理由になるというのか!」  ルーカスは最後まで、キアを庇っていた。辛い身の上だったのだと。その弱さをアンブローズは利用しているのかもしれないと。全てを掴めなくても、可能性は大きい。  それでも信じると言ったのだ。ずっと側にいた仲間を、部下を、疑う事を躊躇った。信じたのだ、最後には呪いのような鎖を断ち切ってくれると。それなのに…。 「自らの不幸が、形は違えど他者の上にないと思ったか。そこを理由に仕方がないと、甘えを許した結果がこれだ。お前は、ルーカスを殺そうとした。それを、私が許せると思うのか」  キアはずっと震えていた。ユリエルが恐ろしいわけではないだろう。  その時、不意に扉がノックされた。 「ユリエル様」 「…どうした」 「ルーカス様が、目を覚ましました」  ユリエルはそっと瞳を閉じ、キアの腕を掴んで部屋を出た。その先にはロアールがいて、驚いた顔をしていた。 「その子、連れていくので?」 「あぁ」 「…分かりました」  ロアールはルーカスの部屋へと、ユリエルとキアを連れて行った。  部屋は柔らかな明かりの中にあり、そのベッドに身を預けた人は首だけを向けて、弱く笑っていた。  キアの手を離し、ゆっくりと近づいたユリエルはベッドの脇に腰を下ろし、その額に唇を落とした。見下ろす先で、確かに金の瞳が微笑んでいた。 「死んでしまったら…私は残されたこの身を呪った…」 「あぁ…」 「庇われるなんて…こんなに痛いなら、この身に痛みを感じた方が楽でした」 「それは、俺が痛む…」  ゆっくり腕が伸びて、触れてくる。彼の身が傷ついていないのなら、縋って泣いただろう。それすらも出来ず、ユリエルは見下ろしながらこみ上げる苦しさに涙をこぼした。  ルーカスの視線が、不意に戸口に佇むキアを見た。その目はどこか優しく、静かだった。 「キア」 「はい…」 「悪かった、お前の苦しみを終わらせてやれなかった」  とてもゆっくりと、ルーカスは言う。その言葉に、キアは崩れるように泣いた。 「…ロアール」 「はい」 「ガレスを呼んで、そいつを戻せ」  ユリエルは冷たい声で命じ、直ぐにそのようになった。  静かになった室内で、ルーカスは悲しげな顔をする。その顔を覗き込んで、ユリエルも静かに瞳を閉じた。 「この期に及んで、まだ助けたいなんて。お人好しです」 「すまないな」  優しい動きで体に触れる、その弱い動きに逆らえるはずもない。ユリエルは瞳を閉じ、体に触れぬように隣に寝転んだ。 「キアは可哀想だ」 「分かっていますよ」 「弱い部分につけ込まれたんだ。あの男は…そうやってキアをずっと脅し、恐怖を煽り続けてきたんだ。どうか、責めないでくれ」  ユリエルはしばらく無言だった。そして、瞳を閉じた。 「キアはアンブローズ捕縛に協力し、出自を含めて同情の余地があります。ですが裁判の結果、猶予をつけてもこのままの生では変わらない。キアを殺さなければ、キャシーは救われませんよ」  静かに、だが確かにユリエルは言った。キャシーが救われなければ、キアも救われない。キアだけを救っても、哀れなキャシーは何一つ救われない。弱さを負ったまま、またそこをいつ突かれるか分からない。 「…少し、任せて貰えますか?」 「どうする?」 「悪いようにはしませんよ」  それだけしか、ユリエルは言わなかった。

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