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第176話 咎人の涙
【キア】
数日の後、ラインバールの壇上にキアは上がった。数珠つなぎにされたロープに手を縛られ、一番最後に。
先頭を兵が引き、アンブローズと、そこに加担した元聖教騎士が連なる。そして一番最後、みすぼらしいねずみ色のワンピースを着たキアが続いた。
「あんな女の子まで…」
裁判は既に前日行われ、国王暗殺に加担した、その最も重い責任がある彼らの公開処刑が今日、人々の前で行われる。キアはその場に立った。
木で組まれた頑丈な枠に、ロープの輪が五つ下がっている。死刑執行人がロープに繋いだままの罪人の頭に麻の袋をかぶせ、首にロープをかけた。
連なったロープは解かれたが、後ろ手で括られたまま台の際に立たされ、前へと突き飛ばされる。突き飛ばされた先には当然地面などない。罪人はそのまま、首を吊られてゆく。
キアは最後だった。一人、また一人と知った顔が死んでいくのを見ていた。
怖くて、足が震えた。あれほど怖かったアンブローズが真っ先に執行され、揺れている。麻袋をかぶせられる前まではあんなに喚いていたのに、今はもう何も言いはしない。
屈強だった騎士が、世話役の男が、次々と物言わぬものになっていく。人々の好奇と、興奮と、哀れみが残されたキアへと注がれた。
震えていた。手を後ろに戒められ、目の前に藁を敷き詰めた地面が見える。麻袋を被せにきた赤髪の執行人が、ふと手を止めた。
「お待ち下さい、陛下!」
死刑執行を黙って見ているユリエルの前に、ガレスが転がるように前に出て膝を着き、額を地に擦るようにして頭を下げる。その姿を、キアは呆然と見ていた。
「ガレス…」
「キアの処刑はおやめください! 彼は長年ルーカス様に仕えてきたのです。長年、ずっと……人の心の弱さにつけ込んだアンブローズが元凶なのです! キアは悪くはありません!」
必死なその声に、観衆もまた飲まれるように声を潜めた。興奮が、消えていく。「可哀想に」「あんなに若い子が」と、声が聞こえてきた。
「ユリエル様、僕からもお願いします」
「ヨハン…」
「確かに彼の行いは、裏切りです。貴方を売り、ルーカス様を傷つけた。ですが、十分に情状の余地があります。望まれず産まれ、産まれた事すらも隠され、洗礼さえも受けられず、女性として生きる事を許されなかった。アンブローズはそんなキアに、洗礼を受けられない者は地獄に落ちるのだと脅し、言う事を聞かせていたのです。お願いです、命まで奪う事は」
静かでも、ヨハンの声は観衆に届いた。息を呑むような緊張があった。人々の目が、執行人達もが同情の眼差しをキアへ注ぎ、ユリエルを注目した。
だがユリエルは冷たい瞳のまま、スッと手をあげた。
キアの頭に麻の袋が被せられる。そして、首に縄がかかった。
「非道だ!」
「その子が可哀想だ!」
人々の非難の声だけが波のように押し寄せた。それを聞いて、キアは麻袋の中で泣いていた。
裁判を受けて、キアは素直に全てを話した。自分の生い立ち、アンブローズからの脅し、自らの罪。それもあって、アンブローズは処刑となったのだ。
体が震える。少しでもへたり込めば、ロープが首に食い込む。怖い、死にたくない。今死んだら、どうなってしまうのだろう。やはり、地獄に落ちるのだろうか。
天国の門で天使に名を問われ、答える名すら持たないままに落ちていくのか。アンブローズは? 先に死んだ人々は答える名を持っている。裁判を受ける事ができる。キアは裁判すらも受けられない。
体が、ドンと後ろから押される。瞬間、首にロープが食い込み息が詰まった。悲鳴が上がり、人々の非難の声も途切れた。それでも、簡単に死ねない。息が苦しいのに、止まらない。
死にたくない。死にたくない。死にたくない!
もがくように体を捻り、泣いて暴れた。
途端、体が下へと落ちた。心地よい浮遊感の後、ドサリと体が何かに埋まる。家畜の臭い、痛みがないわけではないが、転んだのと変わらない程度の痛み。息が楽になり、麻袋の中で何度も咽せた。
何が起こったのか分からない。ただ確かなのは、まだ生きている事だ。
ゆっくりと、麻袋が取られる。キアの体は下にある藁の中に落ちていた。ロープが途中で、千切れてボサボサになって落ちていた。
ユリエルが立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。見下すような冷たい視線のまま、処刑台の上に上がってきた。
「ロープが千切れたようですね」
静かに、そう呟く。
怖かった。またあのような怖い思いをするのだろうか。新しいロープを持った死刑執行人が駆けつけてくるのが見える。彼らにとってこれは、失態だ。
だがユリエルは執行人達を押しとどめた。そして、脇に控えていたハウエルを呼んだ。彼は処刑された人々に最後の祈りを捧げる為に控えていたのだ。
「ハウエル殿、こうした場合はどのように考えられる」
問われ、ハウエルは白い法衣のまま丁寧にお辞儀をして、進み出た。
「自然と切れたのであれば、それは神のご意志。まだその者は天に召されるべきではないと、神が判断したのでしょう」
「そうですか」
ユリエルは後ろ手に縛られたままのキアの腕を掴み、人々の前につれてゆく。膝を折って座らせ、首を落とされる罪人のような姿勢を取らされた。
「そのまま、何があっても動くな」
低くキアにだけ聞こえる声で命じられ、キアは身を固くしたまま瞳を閉じた。
剣の抜ける音がする。人々の悲鳴が上がった。あぁ、このまま首を落とされるのか。思って、涙が溢れた。
シュン! という音が響く。首の後ろに、僅かな痛みがあった。だが、首は落ちていない。煩い心臓の音は未だに響いている。見れば目の前に、首に掛かっていた処刑のロープが切れて落ちていた。
「キア・アッカーソンは、今ここに死んだ」
静かな声が、澄んで響いていく。その声を、誰よりもキアが呆然と聞いていた。
「死んだ」という声が、落ちたロープが、ズキズキとする首の後ろが。色んな事が重なって、流れていって、混乱している。
「ここにいる者は、既に何者でもない。名を改め、神に生かされた命を国と主の為に捧げよ」
「…え?」
「ハウエル殿、新たな名を与え洗礼をお願いします」
「え?」
剣を収めたユリエルを、彼女は呆然と見上げた。その瞳は凛としていた。淀みない光を宿すそれは、ルーカスの瞳にも似ている。
「あの…」
「私は言い渡しましたよ。神が貴方の命に猶予を与えたのです。罪人の生は今、私が断ち切りました。貴方はこれから、貴方だけの生を生きるのです。不遇な生い立ちも、犯した罪も忘れなさい。新たな名を与え、新たな生を生きるのですから、神に伝える名もまた新たなものが必要ですよ」
涙が浮かんだ。ただそれは、恐怖からではなかった。
断ち切られたのは、首にかかったロープではなかった。腕を、足を、首を縛った見えない鎖を、この人は断ち切ってくれたのだ。
「あ…有り難うございます…有り難う…」
震える声で彼女は伝え、ユリエルの足元に傅いて泣いた。
肩を、ハウエルが優しく包んだ。ガレスが、ヨハンが、許されて駆け寄って励ますように抱きしめた。人々が、この裁きに歓喜の声を上げた。
新たな生を与えられた彼女は、名をクラリスと改め、彼女の為に行われた洗礼の儀式には多くの人が祝福をした。教皇ハウエルの手で行われた儀式に立った彼女はもう、男の格好などせず、美しい女性の姿で人々の前に堂々と立っていた。
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【ユリエル】
ラインバールに設けられた献花と聖火は、未だに燃えている。人々はそこへ花を手向けていく。その姿を砦の中から、二人の王は見ていた。
「起き上がっていいのですか、ルーカス」
ベッド脇へと椅子を寄せているユリエルは、同じように上体を起こしているルーカスを見た。傷を負って数日、未だ安静を言い渡されているものの、本人はいたって穏やかな様子で頷いた。
「大きく声は張れないが、呼吸は苦しくない。ロアール医師の治療が早かったから、そのおかげだな。とにかく安静にということだから、後はのんびりとするさ」
「そうですか」
ユリエルは穏やかに微笑み、手を重ねる。こうした時間が、とても穏やかで心地よい。そのまま二人は、外の様子を見ていた。
「キア…ではもうないが、有り難う」
「ん?」
静かに伝えられる言葉に、ユリエルは視線を向けて小さく笑う。大した事ではなかった。
ユリエルだって、同情はした。頭に血は上ったものの、苦しい人生だった事は否定しない。だから、一度終わらせようと思いハウエルに相談した。そして、あのような手を取った。
執行人に、レヴィンを混ぜておいた。そして彼に、ロープを弱く切れやすくする薬品を少量塗り込んで貰った。見た目には分からないが、徐々に繊維を弱めるものだ。
後は加重がかかれば切れるはずだが、絶対とは言えなかった。だから、これはユリエルとハウエル、そして実行役のレヴィンしか知らせなかった。神の加護があれば、彼女は助かるだろうと運を天に任せたのだ。
「父が、最後まで気にしていたんだ。可哀想な子だと、憐れんでいた。俺もどうにかしたいとは思っていたが」
「巡り合わせがありますよ。もしかしたら、本当に神の巡り合わせがあったのかもしれません。彼女にとって」
時が巡ってこなければ、解決しない事だってある。それをユリエルは五年の歳月で知った。
悠長な性格ではないが、焦って事を起こしても上手く行かない事もあった。押さえつける事では上手く行かず、反発が多かったりもした。そうした事は時が、解決してくれる。
クラリスの事も、そうだったのだろう。平時に言っても彼女は受け入れたか分からないし、キアとして生きてきた鎖を自然と切る方法もまた難しかった。全てを、「神の思し召し」として本人にも、周囲にも受け入れさせる。
荒っぽい方法ではあったが、過ぎれば最良だったように思えた。
「それにしても、彼女がお前に仕える事にするとはな」
可笑しそうに笑うルーカスを、ユリエルは睨み付けた。そして、困ったように息をついた。
クラリスは新たな主をユリエルとして、側に仕える事を願い出た。これに一番困惑したのはユリエルだった。てっきりルーカスの側に戻ると思ったのだ。
だが、彼女は憑きものが落ちたような様子で微笑み、首を横に振った。
「ルーカス様はお仕えするには、少し優しすぎます。それでは私の恋慕は、いつになっても断ち切る事ができません。貴方が丁度よいのでしょう」
そんな風に言ったのだ。
これにはどんな顔をすればいいのか、ユリエルも困った。遠回しに「人でなし」と言われている気がしてしまった。
「それにもう一つ、私は決して貴方に対して恋情を持つ事がありません」
「え?」
「だって、自分よりも美しい人に恋するなんて、虚しいばかりですもの」
そんな風にクスクス笑う彼女を、ユリエルは困ったように笑って受け入れた。
その時の事を話せば、ルーカスは困ったように笑って頷いた。そして一つ、「頼む」と言って頭を下げられた。
「国の統合については、また日を改める事となってしまったな」
申し訳なく言われ、ユリエルは首を横に振る。これで良かったのかもしれない。今はそう思えるのだ。
ルーカスの体が回復するまで、国の統合については後日とした。そのかわり皆の提案で、国中に触れを出すことになった。
国の統合、王は今までと同じ二人が立つ事、王都をラインバールへと遷都すること。それらの準備を、今行っているところだ。
「ここまできたら、のんびりと行きましょう。待てますよ、いつまでも。貴方とこうして、寄り添う時間があるのですから」
ルーカスはラインバールの砦で養生し、ここで執務を行う事にしたらしい。ならばと、ユリエルも同じようにした。砦は離れているが、徒歩で行ける距離だ。遠く離れているわけでも、隔てる障害があるわけでもない。
不意に、ルーカスはユリエルの手を握った。振り向けば真剣な、優しい瞳が見つめている。吸い込まれるような眼差しから、目が離せなくなった。
「ユリエル、改めてだ」
「え?」
「俺はもう、君を失って生きる意味を見いだせない。君がいなくなってしまっては、残る時間は闇の中だ。俺の残る時間の全てを、君の為に。君と一緒に生きていきたい。許してくれるだろうか」
それは、不意打ちのプロポーズだった。途端早鐘を打つ心臓に、ユリエルは顔を赤くした。
なんて言葉を継げばいいか、分からない。嬉しさに体が震える。耳まで真っ赤になって、ユリエルは俯いた。
「ずるい」
「ん?」
「不意打ちです、こんなの。こんな…心臓破裂しそうです」
胸が痛く思うくらいドキドキと鳴っている。その音が伝わってしまうのではと、思うくらいだ。
「ユリエル」
「んっ」
耳に触れる吐息がくすぐったい。この人は安静にしなければならず、欲情にかられてはならないのに。
「もぉ、煽らないでください」
「ダメか?」
「安静!」
怒ったように言えば楽しげに笑って、「そうだった」と言われる。そして、少し距離が出来た。
「…好き、ですよ」
「え?」
「貴方の事が、好きです。どれほどの年月が経とうと、私は貴方に夢中になる。この気持ちに終わりなどきっとありません。私は貴方のものです。そして貴方は、私のものです」
深く強い独占欲は、どれほど経っても薄れることがない。自分はこれほどに欲深いかと疑うほどだ。この人の全てを欲しいなんて、思ってしまう自分に呆れ、それでも願うのだ。
ルーカスは赤くなり、口元を抑えている。金の瞳が困ったようにこちらを見て、やがて腕が伸びて抱き寄せられる。そしてそっと、唇を交わした。
「俺の全てを、君に」
「私の全てを、貴方に」
誓い合い、二人は寄り添う。もう二度と、誰であってもこの間には立たせない。これは二人の、強い誓いだった。
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