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第3話 5
◇
「あれ、南今日もレッスンじゃなかったか? こんな時間にどうした?」
レッスン後に雪平の家に行ったら、くたくたのスウェットは着ているものの、髪を結んでピアノに向かい合う雪平がいた。
雪平の家には防音室があって、そこで南は楽器の練習をさせてもらっていた。立派なグランドピアノやギターがあって、雪平が何かしら音楽に関わりのある人だとはわかっていたが、実際に楽器に向かい合う雪平を見るのは初めてだった。
「すいません。勝手に」
「なんだよ、いつもそうじゃん。まあ、この時間に来るのは珍しいけど」
いつものように合鍵を使って入るには時間が遅すぎる気がしたが、インターホンを鳴らしても、もちろん雪平は出ない。(いつもは面倒くさがって出ないが、今日は防音室にいたからだと思う)仕方なく合鍵で入るとリビングにも寝室にもおらず、あれ、と思って防音室を覗くと雪平がピアノに触れていたのだった。
「雪平さん、ピアノ弾けるんですか?」
「んー、ま、ちょっとはな」
「ギターは」
「それもちょっと。ピアノの方が得意だけど」
雪平は静かに笑った。見慣れない笑顔だった。
「で? 南はどうしたんだよ、もう二十二時過ぎるけど」
「遅くにすみません」
「いや……いいけど。何、なんかあったのかよ?」
「いえ。ちょっと、雪平さんの顔を見たくなっただけです。ごめんなさい。ありがとうございました。邪魔してすみません」
自分でもどうして雪平の顔を見たくなったのかわからず、上手く話せないので帰ろうとしたら、ポロンとピアノの音がした。南が振り向くと雪平がにっと笑った。
一音が消える前に、次の音が奏でられる。静かに始まったそれは次第に音が増え、華やかな一曲となる。遊んでいるように軽やかに、雪平は音を紡ぐ。
南が聞いたことのない曲だけど、胸が弾む。ここ一年ほど、南にとって音楽は苦しみながら向かい合うものになっていたけれど、今は音を楽しむ以外の感情が浮かばない。
鮮明に心に刻まれる。音だけではない、軽やかに指を運ぶその姿も。
「南? 南君? みーちゃーん?」
いつの間にか雪平が目の前にいて、ひらひらと手を振っていた。
「え」
「え、じゃなくて。何飛んでんだよ。見えてる?」
「あ、はい」
「よし。顔は明るくなったな。んじゃあ気をつけて帰れ」
雪平は何事もなかったかのような態度だ。
「は、はい。あれ? じゃなくて、今の、え、なんですか?」
「なんですかってなんだよ。俺の意外性にびっくり?」
「いや、ピアノが弾けたことじゃなくて、いえ、それも驚いたんですけど、あ、でも家にあるってことは弾けるのが当たり前だったのか……じゃなくて、今の曲、あれ、なんですか?」
「何って、曲名?」
「曲名も知りたいですけど……。なんですか、誰が作ったんですか、あれ。すごい」
「すごい? 別に難しい曲でも綺麗な旋律があるもんでもねぇだろ。ありきたりな音の運びだし……」
この興奮をどのように伝えたらいいんだろうと一瞬考えるが、言葉なんか選んでいる余裕はなかった。心のまま、口が勝手に動くから。
「そんなことないです! なんですかね、すごく楽しくなる! 音で遊ぶってああいう感じかな。音楽って、音を楽しむって、まさにああいう感じですよね。俺まだまだ知識が足りなくてどこが優れてるとかわかんないですけど、じっくり楽譜をみてみたい。楽しくてわくわくする小説、本みたいかな。違うな、きっとカラフルな絵本みたいで……雪平さん?」
雪平が目を丸くして自分を見つめていることに気がついた。何か変なことを言っただろうか。いや、変なことを言ったというより、テンションが変だった。雪平の前でこんなに子どもっぽくはしゃいでしまって、きっと「ガキだな」と思われたに違いない。ついこの間「ただのガキ」と言われたばかりだというのに。
「す、すみません。俺、変ですね」
「うん。変」
雪平に変と言われると悲しいやら悔しいやら、複雑な気持ちになる。
「南は音楽に恋してんだな」
「え」
「辛いからやめた方がいいって思うけど。裏切られたり、片思いで終わったり、こっぴどく傷つけられたりするから」
雪平が南の顔を覗き込む。引き寄せられるように頭を下げると、こつんと額を合わせられた。
「でも、最高の恋ができる」
吐息が、優しい。
「南になら、できる」
静かな、確信に満ちた声だった。
雪平は顔を離すと、「顔が赤い」とけらけらと笑う。その姿は紛れもなくいつもの雪平で、先ほどの静かな声やピアノを弾く姿は幻だったのだろうかと思った。
この前、自分のことは何も教えるつもりはないと雪平は言った。嘘だと思った。あのピアノが、言葉が、何も教えるつもりのない人のものとは思えなかった。
すべてを知られて、それで南が離れたら生きられない? 平を想って死ぬと言った雪平を覚えている。あの激しさで、自分のことも愛してくれたら。
南は胸に手をあてる。雪平のことが知りたいと、切実に思った。
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