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番の本質(和泉視点)(3)
「日下さん、日下弥生さん、二番にお入りください」
マイクをオンにして、その名前を呼ぶ。
しばらくして診察室に入ってきたのは、爽やかな白いリネンのシャツに細身のスラックス姿の日下弥生だった。
「弥生くん、こんにちは」
和泉がそう挨拶をすると、弥生も一礼する。
「こんにちは。よろしくお願いします」
椅子に腰掛けることを勧める。
弥生とはあのあと彼が特別室を退院するまで顔を合わせることはなかったため、久しぶりである。
引き継いだ同僚医師によると、あのとき投与した緊急抑制剤が効き目を発揮し、以後あのような前後不覚状態になることはなく、順調に発情期を越えることができたという。一週間で退院できたとのことだ。
ただ、あのときかなり強引に緊急抑制剤を投与したため、もしかしたらもう弥生が和泉の元を診察に訪れることはないかもしれないと思っていた。
「今日はどうしました?」
弥生は少し躊躇うような仕草を見せていたが、意を決したように和泉に向きあった。
「あの、実はもう少しフェロモンをコントロールできて、発情期を軽くできたらなって思って……」
和泉先生はそのような抑制剤の調節の仕方が巧いと、他の先生から伺ったので……と言いにくそうに俯いた。
発情期の症状を軽減させる緊急抑制剤の投与に、あれだけ乱れながらも難色を示した弥生である。少し意外だった。
「どういう心境の変化があったの?」
純粋な興味だったが、表現が直接的と気がつき、責めているわけじゃないよ、と付け加える。弥生は少し安堵した表情を見せ、わずかに思案した。心境の変化について誠実に答えようという意思を感じた。
「……あの、あんなふうに前後不覚になって、一人でいるのもヤバいとお医者さんから判断されるような発情期を乗り越えることを、彼は望んでいないのだと思うようになったんです」
彼、とはおそらく亡くなった弥生の番であろう。
その心境の変化を和泉は意外に思ったが、あえて苦痛を背負う必要はない。
「たしかに発情期の間は、彼との逢瀬みたいで。彼が抱いてくれるような、錯覚に陥っていることもありました。……まあ、今でもそうでなんですけど。ただ、それによって自分が苦しむのは、少し違うのかなって」
正直発情期に入ってしまった弥生の症状を軽減するのは、なかなか難しい。正直に言ってしまえば、発情期が起きる前からフェロモン抑制剤を使って発情そのものの症状を軽くするというのが現実的な対処法になる。
「よく、自分で決めたね」
和泉がそう労うと、弥生は少し笑みを見せた。
「人生長いですからね。無理をしないことにしました」
その長い人生というのは、おそらくアルファの彼を思って生きるという意味なのだろう。
「そういえば、この間の発情期の時、先生はあのあと全くいらっしゃってくれませんでしたね……」
弥生の質問で我に返る。
結局、和泉も朔耶の発情期が明けるまで、一週間休暇を取得した。番の発情期という理由の休暇取得は、急でもずいぶん簡単に取得できるものなのだと今更ながらに驚いた。
「あ……ああ。あの時はごめんね」
「いえ、他の先生に診ていただけましたし、あのとき先生に緊急抑制剤を打っていただいて楽になりましたし……」
そして、弥生は少し迷うようにして、和泉に向かった。
「先生は番さんが発情期だったんですか?」
その質問には和泉が驚く。
「え」
「だって。先生、アルファですよね」
もちろん、弥生に本当の性を話したことなどはない。やはり、嗅覚がきくオメガは鋭いということか。
「あれ、わかった?」
苦笑する和泉に、弥生も笑みを浮かべる。
「数ヶ月くらい前から……なんか素敵な香りがするなって思っていて…」
たしかに、先日の診察でも朔耶の香りに当てられたのか、弥生の診察をしているときに己のフェロモンがだだ漏れだった自覚があった。少し考えれば気がつくことだ。
「でも、今は香らないってことは……お相手が見つかったのかなって」
弥生が穏やかな表情をそう言うから、和泉はどう応えて良いのか迷った。
するとそんな心情を察したのか、気にしないでくださいよ、と笑う。
「和泉先生は見つけたんでしょう。死んでも手放したくないと思うほどの存在。一人のアルファにそう思われるなんて、相手の方は本当に幸せだと思うな」
僕は番うというのは奇跡だと思うんです、と弥生は言う。
「アルファとオメガが身体だけでなく魂まで結び付くのが番の契約です。項を噛むというのはそういうものであると、アルファもオメガも本能的に知っている。本来は解除なんてできるものではないんですよね。運命を共にする覚悟がないと交わせない契約なんです。自分の全てを相手に委ね、苦も楽も共に受け入れる。そんな人に奇跡的に出会えるなんて、幸せだと思います」
もちろん、そんな幸せな番契約が世の中にあふれているわけではない。
弥生のように死に別れることも、番に捨て得られるオメガがいることも、意に添わぬ番契約があることも知っている。和泉はそんなアルファやオメガをずっとこの診察室で見てきた。だからこそ、そんな出会いが奇跡という弥生の言葉に素直に頷ける。
「その、失礼なことを聞くかもしれない。もう、弥生くんは新しい番を見つける気はないの?」
明らかに診療行為とは関係がないことなのかもしれないが、気になって聞いてみる。弥生は少し驚いたような表情を見せる。
「え、それは考えてないですね」
そう応えてから少し考える様子を見せる。
「彼もひょっとしたらそれを願っているのかもしれません。でも、僕の番は彼だけなんです。確かに、独りの発情期は辛いし、ときどき胸が締め付けられるくらいに寂しくなるときもあるけど、彼以外と番う可能性なんて考えられません」
弥生はきっぱりとした口調で言い切った。
「もしかしたら、相手の死さえも、この番の契約には当初から織り込まれたことなのかもしれないと思うことがあります。それは、死んでも途切れない、強い絆ともいえる。ならば、僕は受け入れようと思っています」
番を失い、そしてその番との愛の結晶も失ったのに。弥生はしなやかな強さを身に着け、そして穏やかな表情で語っている。
「弥生くんは幸せ?」
思わずそう聞いた。
「はい。あんなに想われて愛されて。最高に幸せでした。僕は、もうそれだけで生きていけます」
清々しいほどに迷いがない。即答だった。
番とは結婚のように紙の上の契約だけではない。身体だけでもなく、魂が結びつく契約なのかもしれない。死んでも途切れない強い絆というのは、きっとそうなのだろう。
朔耶を番にすることをあれだけ迷っていたのは、そこだったのかもしれない。死んでもなお彼を束縛し続けることになるかもしれない契約を、自分が交わしてよいのか。もし、自分が彼よりも早くこの世を去ることになれば、目の前の弥生のようなことが朔耶の身にも起こるかもしれないのだ。
自分が先に死ぬなんて分からない、気にしすぎだと、他人が見れば笑うような、過剰な心配かもしれない。しかし、かつて生死の狭間を彷徨った経験を持ち、現在も生死の現場に身を置く立場では、軽い気持ちで思考を放棄できるものではなかった。
番の契約を交わしたあと、朔耶が胸の中でぽつりと呟いたひと言は印象的だった。
「暁さんも…アルファなんだな……」
「…ん? どういう意味?」
和泉が優しく問うた。その言葉の真意が読み取れなかった。
「ん。いつも理性的だから…。それも素敵なんだけど、本能のまま番にしてくれて、僕は嬉しかった」
そう、朔耶を番にしたいという欲求は間違いなくアルファとしての本能に従ったまで。それまでぐるぐると考えていた、番とはとか、自分がいなくなった後のことなんて、まったく頭になかった。すべての理屈などどうでもよくて、このオメガを自分のものにしたいとしか考えていなかった。それでいいのかとずっと悩んできたはずなのに、いざとなるとそれしかなかったのだ。アルファとオメガという性は、そのようなものなのだろう。
長くベータと偽って生きてきたせいか、そのあたりが鈍っていたのかもしれない。
自分のなかでそのように結論付けると、どこかすっきりとした気分になる。右手が朔耶の下半身に伸びた。
「あ……ふ……ん」
番になっても、朔耶の甘い声は変わらない。
朔耶の嬌声を、存分に堪能した一週間だった。
「先生、メルト製薬の新堂さんが、医局の方にいらしているそうですよ」
午前の診療が終わると同時に、外来担当のナースがそう教えてくれた。
朔耶の発情期が終わり、出勤したときに、アルファ・オメガ科の上司と同僚医師、一部の関わりが深いナースには番ができたことを報告した。その相手が、毎日やってくるメルト製薬の可愛らしいMRであると知ったときのナースの興奮ぶりはすごいものだった。
意外に朔耶はナースに人気であったらしい。
以来、和泉の番が来院すると、事情を知る誰かが知らせてくれるようになった。最近ではオペ室以外……外来にいても連絡が入ってくるようになってしまった。
周囲にはあまりいない珍しいアルファとオメガの番を面白がっているに違いなく、じきに沈静化するのであろうが、彼女たちが言うには眼福なのだという……。
「わかった。わたしのオフィスで会うから、そちらに通しておいてくれる?」
彼女は内線でそのように連絡してくれたが、釘を刺すことも忘れなかった。
「……三時からオペ入っているの、忘れないでくださいね」
そのまま診察室で何社かMRの訪問を受ける。
アルファ・オメガ領域は、研究資金が潤沢にあるため、どこの製薬企業も躍起になって抑制剤を開発している。最近はかなり面会予約を入れてくるMRが増えていた。
一方、朔耶は最近、誠心医科大学病院以外の担当を持つようになった。
その件に関しては、長田から直々に連絡が入り、事情を説明されたのだ。
どうも長田は、朔耶のことをかなり買っているようで、社内初のオメガのアルファ・オメガ領域のスペシャリストMRを目指して、様々な経験を積ませたいらしい。それゆえに和泉の専属ではなくなるが、了承してほしいとのこと。
朔耶のキャリアアップは、和泉としても喜ばしいことだ。それでもMRとしての彼の能力は欠かせないため、当院を最優先にしてほしいと要望しておいた。長田もその点については確約してくれたが、同時に面会にかこつけて逢瀬にしないでくださいね、とかなり失礼なことを釘に刺された。鋭い指摘なので、何も言えない。
朔耶は案外器用だから、和泉の要求も、長田の期待もおそらく難なく応えることができるだろう。
「あ、和泉先生。お世話になります。メルト製薬です」
院内の診療棟を抜け、学部棟の二階がオフィス。その前で、夏でも着崩さないスーツ姿の、可愛らしい自分の番が、はにかみながら待っていた。
たしかにナースが騒ぐのも頷ける。番にしてから朔耶は艶めきが増した気がする。
いつもオフィスの中で待っていろと言っているのだが、本人のプロ意識ゆえか、仕事が絡むと一定の距離をきちんと取りたがり、そこから踏み込まない。
実はそのようなストイックな面も気に入っている。でも、そんなふうに、思わず漏れる笑顔を見ると嬉しくなってしまう。
「よく来たな」
思わず腰をさらって抱きしめたくなる。
「…あ、先生、やめて」
周りを気にした朔耶が止めに入るが、和泉はそのままオフィスのドアを開き、朔耶の腕を取ってその内側に引き入れる。
そしてすばやく閉じて、ドアを背に朔耶を追い込む。
「…い、和泉せんせ…」
困惑する朔耶の顎を取り、その開きかけた唇に自分のものを重ねる。
「ん……」
逢瀬にかこつけるな、という長田の指摘は間違いではないと思う。が、今は職権濫用でも、この幸せを堪能していたいと思う。
「暁さん…」
戸惑う朔耶の声が届く。
和泉は、胸の中に朔耶を抱き込んで、改めてこの奇跡に感謝する。
「もう少し、朔耶の香りを堪能したいな」
【了】
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最後までお付き合いいただきありがとうございました。
思えばリアル(主に仕事)で心が折れそうになり、愉しいことを考えようと現実逃避に考え始めたオメガバースでした。まさかこんなに早くに形になるとは思いませんでしたが、適度に現実逃避しながら愉しく執筆できました(笑)
そしてまさかふじょっしーさんでもアップすることになろうとは。
このお話は終わりになりますが、この世界観使えるかも……と思っている部分もありまして。また、書くかもしれません。
その際はまたお付き合いいただけると嬉しいです。
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