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【 帰還 】 せい
思いのほか順調に仕事が進んだことにリアムは表情を緩めた。日頃の行いがいいからだろう、その考えが可笑しくて口の端が上がる。労せずして恩を売ることができたのは殺伐とした毎日の中で朗報といえる。
10日ほど前、テロ組織の資金源になっている人身売買組織を壊滅させる作戦がCIAの資産 によって遂行された。リアムは今回の作戦に関わっていないがバイヤーの彼のもとには多くの情報が入ってくる。当初短期で終結するはずの作戦は予想以上に難航しているらしい。一匹しかいないはずのモグラが実は複数で壊滅できない。そんな状況を招いたのは資産 の質が悪かったとしか考えられなかった。
CIAは武器庫として使っている老朽化しているビルのスペースを何か所か空にすることにした。作戦を立て直し、新たな資産 を投入するつもりなのだろう。ヨーロッパの都市にはどこにでも築年数が100年以上の建物がある。郊外のただの小屋のような建物が武器庫として機能していることもあるが、やはり都会での作戦ではコンパクトに武器を調達する必要がある。移動させるだけリスクが発生し、完遂の妨げになるからだ。
リアムの請け負った仕事は速やかに武器庫を空にして別の場所へ移すことだった。手数料が発生し、範疇外の急な仕事を請け負うことで借りを作る。あまりCIAと関わりたくはないが、いつか借りを返してもらうことで窮地を抜け出せる、そんな日がこないとも限らない。
完璧に偽装された現金輸送車。鏡とハイテク技術で荷台が空にしかみえないトラック。スポーツ用品にまぎれたスキー板の袋に入れ込んだライフルの銃身。荷物は細分化して数パターンの方法で輸送し別の場所に収める。
今回雇ったチームは信用できる男達だし口が堅い。生き延びるということは大概のことに目をつぶり、耳を塞いで口を閉じていることだ。眼にしたことを自分でも見なかったと思い込むことだ。ただし忘れることはしない。情報は時に何よりも高価で重いものになる。
リアムは質の高いシューター達から信頼されているバイヤーだ。口が堅く、それと同じくらい堅実な仕事を提供する。
トラックを見送り車のドアに手をかけたリアムは違和感に耳を澄ませた。真夜中の闇夜に何かの気配がする。立ち並ぶ建物の壁面を慎重に見つめた。UAV は壁面近くを飛ぶことで姿を隠しターゲットに近づくからだ。
しばらく空を見詰めているとようやく目当ての飛行物体を捉えた。ホバリングしているということは目標を捉え監視している状態だ。灯りがともる窓はほとんどなくシンと静まり返っているが一か所だけ動きのある建物があった。トラックが停まり荷台は倉庫の入り口に半分隠れている。
リアムは苦笑いを浮かべた。自分と同じようにブツを移動する仕事を請け負ったバイヤーがここにもいるらしい。緊張を緩めたその時、短い叫び声が聞こえた。リアムは姿勢を低く落とし腰にさしていたグロッグ19を抜いた。余計なことに関わらない方が身のためなのは百も承知だが、どうしても確かめたかった。何故なら短い叫び声は子供のものに聞こえたからだ。
■2
UAV のアングルを避けリアムは通りを外れ建物の間の路地に入った。
最新の探査技術は恐ろしいほどに進歩している。顔認識ソフトの水準は、眼窩周辺のデータだけで識別できるまで精度が上がった。サングラスの脇から捉えた僅かの部位で本人とのマッチングが即座に判断される。
対象の動きを捉えると歩幅、歩く特徴、身体の傾きなどをデータ化。街中に設置されている防犯カメラだけではなく、個人のスマホ画像やネットカフェ、パソコン内蔵のカメラ、ATMなどの画像と照らし合わせ対象を見つけることができる。
この時代お尋ね者になって逃げきるのは高度なテクニックが必要だ。デジタルの知識はもちろんだがデジタルに敵対するアナログ行動の知恵がなければリアムのような職種は仕事ができない。
トラックが停まっていた建物の裏側に回りドアを見つけた。ピッキングで難なくドアをあけ建物に滑り込む。男達のひそめた声、その合間に鋭い舌打ちのような音がする。パタパタと乾いた音、トラックの荷台が軋む音が連続していた。
リアムは先ほどの叫び声が間違いであればいいと考えたが、単独工作員 だった経験と勘が不具合を告げていた。
薄く灯りが漏れているドアの隙間から中をうかがう。トラックの荷台は開かれており、男達が荷物を積み込んでいた。リアムが先ほど運搬したものとは全然違う荷物――人間。
人身売買はバルト三国をはじめロシアから独立した諸国家にはじまり、東欧や北欧のみならずヨーロッパの各地で人が商品となり売買されている。
怯えや諦めの眼を虚ろに沈ませた少年と少女たちが乱暴に男達に腕を掴まれ、荷台の中に消えていく。
リアムは自分の装備があまりも貧弱であることにため息をついた。グロッグに装填されているのは20発。銃撃戦になる予定はなかったからケヴラーのベストも着ていない。クソみたいな状況だが子供たちが運ばれていくのを無視することはできなかった。飛び出したところで勝算は限りなくゼロに近いがやるしかない。
荷台の片側の扉が閉じられる。一人は運転席にまわり、もう一人は助手席に乗り込んだ。残る男は3人。荷台の扉に手を掛けた男、あとの二人は何事か言葉を交わしプラットホームの横にある狭い部屋へと向かった。
運転席の男が窓をあけ男を手招きする。舌打ちをしながら運転席に男が向かうとリアムは息を殺し運転席の男と話している後ろ姿に狙いを定めた。
その時細い足が荷台からニョキリと飛び出し、少年が一人荷台からソロソロと降りるとトラックの下に潜り込み姿が見えなくなった。
「くそっ」
ここで仕掛けるか、待つか。躊躇は犠牲を生む。リアムはドアを押し開け、引き金を引いた。運転席の横に立っていた男はコンクリートの床に崩れ落ちた。スプレッサーがついていないグロッグは銃声を倉庫中に轟かせ、リアムは身体を晒すことになった。横の部屋から飛び出してきた二人の男の眉間に一発ずつ銃弾を撃ち込み、プラットホームから飛び降りる。しゃがんで下を覗くと少年が腹ばいに伏せていた。
「こっちへこい!」
少年は怯えた眼から涙を流しながら近づいてこようとしない。その時トラックのエンジンがかかりリアムは排気ガスを浴びた。
「出てこい!」
咽ながら叫んでも状況は変わらない。トラックはベタ踏みしたアクセルのせいでギュルギュルとタイヤを軋ませ発進した。荷台の後ろで立ち上がり運転席と助手席の死角に留まりながら荷台に手を伸ばすがトラックの速度には追いつけない。リアタイアに銃弾を撃ち込むとトラックが右に傾いた。
運転手に狙いを定めたその時、助手席側から放物線を描いて何かがこちらに飛んできた――ピンを抜かれた手榴弾。
「うおおおお」
駆け巡るアドレナリンとともに雄叫びをあげたリアムはうずくまる少年に駆け寄り引っ張り上げた。
「掴まれ!」
少年をプラットホームに押し上げる。近くに遮蔽物はない。ホームに飛びあがり少年を抱き上げると狭い部屋に飛び込む。背後で爆発音が轟き風圧でドアがビリビリと震えたが、リアムと少年は無事に切り抜けた。
「ここに留まっていると厄介だ」
リアムは少年の返事を待たず、再び抱き上げ裏から路地にでた。暗い闇に紛れたとき、ようやくリアムは安堵のため息をついた。
■3 ……6年後
「変わりはないか?」
彼を出迎えたエリザベスは表情を変えることなく頷いた。万事順調、報告すべきことはないと伝える動作。彼女は長年リアムの元でセーフハウスの管理をしている。いくつかある物件は主に商品を一時的に保管する場として使っているが、場合によって人間を匿う時もある。
エリザベスはセーフハウスを移る度に髪と目の色を変え雰囲気をがらりと変える。セーフハウスを転々としながらリアムの動きを完璧にサポートしていた。
アメリカの司法と警察、そしてFBIを信用できなくなった彼女はヨーロッパに移り住むことに決めた。その時仲介者を経てリアムに出会った。リアムもエリザベス同様大義や国家に忠誠をつくす意味を失い残りの人生を模索している時だった。互いに通じるものを感じ、以来二人はこの世界では貴重な「信頼」を共有する間柄であり関係は継続している。
「サイードは?」
「奥であなたを待っているわ」
「面倒な案件が片付いたから少しのんびりしたいよ」
「サイードがあなたを遊ばせるはずがないでしょ?きっと次の依頼が舞い込んでいるわ」
「10も年下の男にスケジュール管理されているのはどうかと思う」
「優秀な秘書よ。コーヒーを淹れるわ」
リアムは頭を振りながらため息をついた。
リアムは助け出した少年をエリザベスに託した。二人が何かを強要したり自分を商品として扱わない人間だと確信できるまで一言も話さずリアム達を観察し続けた。彼が言葉を発するまで3ケ月、エリザベスは辛抱強く寄り添った。
少年にサイード(幸福)という名前を付けたのはエリザベスだ。彼は中近東の血を引く容貌で瞳はブラウンよりもアンバーに近い。
サイードの身体には暴力の後が色濃く残り打撲の痣は全身に散っていた。手首と足首にある痣は縛られていた痕。過酷な時間をどれくらい過ごしたのかサイードは答えなかった。
自分の生い立ちも「わからない」の一点張り。「両親はいない」「歳は14歳」「仕事があると誘われた」というあまりにも乏しい情報ではサイードの身元を突き止める術はない。思い出したくないような生活を送っていた……そうであれば忘れてしまえばいい。リアムは新しい身分を与え、少年はサイードという人間に生まれ変わった。
元教師であるエリザベスはサイードに知識を叩き込んだ。難しい数式や難読の文章ではなく生きていくために必要な知識と常識を。自分に能力がなかったせいで陥った苦境に戻りたくなかったサイードは素直に勉学に励んだ。
リアムは身を守るための術を教え込んだ。基礎体力のトレーニング、護身術を会得するためのスパーリング、銃の扱い方。リアムがアメリカ海軍特殊部隊 を経て単独工作員 になるために受けた訓練に比べれば幼稚園レベルだったが、サイードがある程度のレベルで動けるようになるまでには随分時間がかかった。
サイードにとってリアムは「力」の象徴だ。たった一人で自分を助け出し、身体ひとつで仕事をこなし危険を切り抜けている。自分の身を守りたい、そして誰かを救いだせる力が欲しい。サイードは己を鍛え、リアムの思考を手に入れようと学び続けた。
20歳になったサイードは6年かけてリアムの片腕のポジションを得た。新たなルート、治療を請け負ってくれる医者、銃器業者をはじめ必要な商品を取り扱う小売店の開拓。依頼者の事前調査。それらを淡々とこなすサイードはエリザベスの言うとおり優秀な秘書だ。
リアムがサイードの待つ部屋へ入るとデスプレイの向こうでサイードが笑顔を浮かべる。
「おかえり」
「ただいま。スペアのおかげで問題に対処できたよ。ありがとう」
「リアムが危険な目に遭わないように手を打つのが僕の仕事だ。沢山恩を売りつけないとパートナーになれないからね」
リアムは今日二度目のため息をついた。サイードは18歳の時リアムに恋心を打ち明けている。仕舞い込めないほど強く、抑え込むには大きくなりすぎた気持ち。リアムがエリザベスと結ばれたら仕方なく諦めたかもしれない。しかし二人に恋愛感情は生まれず信頼のみが育っている。
別の女に盗られるくらいなら嫌われた方がいい、そう結論付けてサイードは「ずっと待っている」と告げた。リアムから離れても解決しないことをサイードは理解していた。自分の中にある気持ちから逃げる術はない。
「そんな困った顔をしなくてもいいのに」
サイードは心身と能力の成長をみせ、仕事のパートナーとして必要不可欠な存在になっている。パートナーであることに異存はない。しかし公私ともにパートナーになることを自分が望んでいるのかリアムにはわからなかった。
「もっとリアムを困らせてあげよう。仕事の依頼がきているよ」
「俺が困るような仕事なら断ってくれ。いつものように」
「今回の依頼人は僕の独断で断ることができなかった。本物かどうかわからないけど、アンジェリカと名乗っている」
「アンジェリカ?誰だ?」
サイードは封書をリアムに手渡した。
「中を見て。彼女の話を聞きたくなるよ、きっと」
リアムは眉間に訝しげな皺を寄せ封筒の中身を指で挟んでひっぱりだす。白い封筒よりも二回りサイズの小さい黒い封筒に10$札がクリップで留められていた。
「まさか………あのアンジェリカか?」
「トップクラスのシューター。本物ならね」
黒封筒の中にはカードが一枚。『明日10:00に迎えにきます』そっけない一文しか書かれていない。
「サイード、これはどんな方法で届いたんだ?」
「他の依頼人と違って彼女はすべての段取りをふっとばした。玄関のドアの隙間に挿してあったからね。逃げも隠れもできない……違うね「仕事を引き受けないと追いかけまわすわよ」かな」
サイードは引きつった笑顔を浮かべた。厄介な相手に目をつけられたね――瞳がそう言っていた。
■4
「私に向かってこんな迷惑そうな顔をする男には久しぶりに会ったわ」
「相手のペースで事が進むのは嫌いだ」
「わかるわ。私も同じだから」
アンジェリカはニヤリと微笑み車を止めた。身振りで降りるように促され、リアムは心の中でため息をついた。いつもは主導権を握り自分のペースで物事を進める。しかし今は全て相手に握られている。
「秘密の話をするのは公園のベンチでしょ?」
「あんたが映画にかぶれているとは驚きだね」
アンジェリカはスタンドでコーヒーを二つ買い一つをリアムに渡した。コーヒーよりビールを飲みたい心境だったが黙って受け取る。
「カップは左手に持って」
リアムが左手に持ち替えるといきなり手を繋がれた。
「なんだよ」
「あなたも私も利き手は右。不測の事態が発生すれば私は手を離し右手の熱いコーヒーを相手に浴びせる」
「俺はその間に右手でグロッグを握る」
「そういうこと。それに手を繋いでいればデートにしか見えない。一石二鳥でしょ」
アンジェリカは面白い。エリザベスとはまったく違うタイプだが、どちらも頭がいい。リアムはアンジェリカとの時間を楽しみ始めた。
「それで?俺に何をさせたいんだ?」
「せっかちな男は嫌いだけど無駄話が嫌いな男は好きよ。あなたにとっては簡単な仕事だわ。私の依頼人は息子を取り返したがっている」
「誘拐か?」
「いいえ。息子は金持ちのボンボン。偉大な父の影に負かされ続けて負け犬根性が染みついた。いつか父親に認めてもらおうという夢を実現させるために動き出した」
「結構なことじゃないか」
「ただし能力が伴っていない。しかもボンボンはパパの莫大な財産をぶら下げている」
「誰にひっかかった?」
「マクシム」
投資家を装っているがそれは表に見せる顔。裏ではひっかけたターゲットから金を搾り取り、恐喝と強請りで底がつくまで金をしゃぶりつくす。
「よりによってマクシムか」
「手柄をたてて父親に認めてもらおうとした。でもジョーカーを引き当てたってわけ。私はマクシムの裏の顔をぶちまけ、ボンボンだけではなく大事なパパの片足を棺桶につっこませていることを納得させる」
「俺の手助けなんかいらないだろう。ボンボンを担いで飛行機に乗せればいい」
「残念ながらパパは息子が使った金を取り返したいのよ。お金持ちって変なところケチでしょ?だから私はマクシムのホームに乗り込みお金を取り返さないといけないの」
「そういうことか。あんたが暴れている間、俺がボンボンを保管するってことだな」
「話が早いわ。パパはマクシムに搾り取られて絶望している何人かを探しあてた。彼らを救うためにもマクシムをスッカラカンにして欲しいそうよ。金庫番は確保済みだからパスワードや分散している口座は空にできる。ただ生体反応が必要なキーがあるから、マクシムと一緒に銀行と金庫回りをしなくちゃね」
「いくらあんたが美人でもホイホイついていくとは思えないな」
「交渉が決裂したらその時はその時。マクシムと一緒じゃなくても私は構わないわ。パーツがあれば問題はない」
指、網膜、手のひら、指紋。どのスキャンが必要なのかはもう突き止めているだろう。
「金絡みの後始末が仕事?あんたの流儀とは違うんじゃないか?」
「そうね、それだけだったら他を当たれと言ったわ。でもね、マクシムは金を絞りだすだけではなく作り出すことに手を出し始めたの」
「麻薬か?」
「いいえ、違う。旅行先のレストラン。隣のテーブルのイケメン男子たちと仲良くなって観光案内をしてもらって楽しい時間を過ごした。すっかり心を許したらイケメン達は人さらいに変身。女の子は行方不明になりマクシムの商品として売られる」
「くそ!人身売買かよ」
「ええ。マクシム一人を潰しても人身売買は無くならない。でも何もしないよりマシでしょ?マクシムみたいなゲスな男の眼を抉り取るくらい簡単よ」
「あんた、俺が断らないとわかって来たんだな」
アンジェリカはリアムの手をキュっと握った。とびきりの笑顔を浮かべながら。
「頭のいい男は好きよ」
「よし、細部を詰めよう。金庫番に連絡がつかないと騒ぎになる前に動きたい」
アンジェリカは一口も飲んでいないコーヒーをゴミ箱に放り投げた――スイッチをいれる合図のように。
リアムもコーヒーを投げ入れ、二人の繋がっていた手は離れた。少しばかり残念に思う自分に呆れてリアムは口の端を緩めた。
■5
サイードは電気をつける気にならず暗い部屋に一人でいた。アンジェリカと手を繋いだリアムの姿に頭を殴られたような衝撃をうけた。リアムの背後を守るのは自分の仕事だが、後ろで目を光らせている自分のことを知っているのにあれは何だ?なにより癪にさわったのはリアムが楽しんでいたことだ。初対面には見えない打ち解けた雰囲気。そしてアンジェリカは噂以上の美人。
サイードは容姿でも能力でも彼女には遠く及ばず、仕事中のリアムにあんな表情をさせることはできない。リアムは信頼してくれるが心配もしているのだ。サイードにアクシデントが起こらないだろうかと。「大丈夫だ、サイードなら切り抜けられる」そう考えてはいない。まだ自分はリアムのパートナーとして自信をもてるレベルではない。その悔しさと猛烈な嫉妬心で胃のあたりがキリキリした。
状況を観察し己を捨てて完遂を目指すというリアムの教えが吹っ飛んでしまうほどの重苦しい胸のつかえ。灯りをつけて自分がしているだろう情けない顔を見たくない。
二人がホテルの開店扉に消えたところでサイードは限界を迎えた。待機せずに一人戻りグズグズとした想いに縛られている。帰ってきてからずっと。
玄関の扉が開き複数の鍵を操作する音が続いた。リアムはまもなくここに来るだろう。プランの打ち合わせをするために。それでもサイードは立ち上がる気になれなかった。リアムが自分以外の誰かを選ぶ想像は何度もしたが現実は凄まじい力をもっていた。
開いたドアとリアムのシルエット。腕が動きパチンという音とともに暗闇は白い箱に変わった。サイードの顔を見たリアムは何も言わず椅子を引き寄せサイードの隣に座る。
「追尾はどこまで?」
「……ホテル」
サイードは喚き散らして体内を巡るどす黒いものを吐き出したかった。私情を排除し状況を観察して行動を選択する。それが完遂への近道だというリアムの言葉を頭の中で繰り返す。
己を律することができない甘ったれた男だと思われたくない。しかしリアムが隣にいることで心の揺れは強くなるばかりだ。
「プランの打ち合わせをしよう」
「今回僕は必要ないでしょ」
リアムの眉が咎めるように動いた。ヒタと見詰められサイードの忍耐は千切れそうになる。
「ホテルで二人きり。こんな遅くまで」
リアムがこぼした溜息が引き金になった。サイードはリアムの胸倉をつかみ椅子から引きはがした。
「サイード」
平坦なリアムの声がサイードの心を抉る。いつまでも子供だと言いたいのか!子供のようにダダをこねていると呆れているのか!そうだよ、僕をこんなに情けなくしたのはリアムだ。あの女と……あの女と!
顎を掴まれ二人の距離が縮まり、サイードの意図を理解したリアムは鼻を思いきり掴み捻った。凄まじい痛みにサイードの力が緩む。リアムに足を払われ、背中から床に落ちた。
「ぐはっ」
悔しさと情けなさで涙が浮かんだ。自分の無力さが恨めしかった。成長しきれていない姿を晒したことに嫌悪した。
「サイード。接近戦において鼻への攻撃が有効だということがわかったか?」
「くそっ!」
「悪態をついて気が済むならそうしろ。泣いて収まるなら泣き続けろ。頭を冷やせ。コントロールできないパートナーを現場につれていく気はない」
遠ざかっていくリアムの足音を聞きながらサイードは泣いた。リアムの言う「パートナー」は当てつけだ。パートナーなど爪の先ほども思っていないだろう。
こんな姿を晒すくらいならリアムへの想いをすべて削り取りたい。サイードはそう願ったがわかっていた。何度試しても恋心は消えることはなかった。
倉庫で抱きかかえられた時「この人に会うために生きてきた」という確信が身体を貫いた。苦しく酷いことだらけの毎日でも死ななかったのはリアムに会うためだった。それを思い出す度にサイードは強くなろうと自分を鼓舞した。
しかし今、その想いによってリアムが遠ざかっていこうとしている。サイードはリアムを止めることができない自分に絶望するしかなかった。
■6
リアムとアンジェリカはマクシムの屋敷を偵察していた。林に囲まれたコンクリートの建物は最小限の窓しかなく、気が滅入りそうな灰色をしていた。二人は100mほど離れた丘の岩陰からシュタイナー8×30 で観察を続けている。
「かわいい相棒に会えると思っていたのに」
「保管を任せるから偵察は不要だ」
「残念ね」
「見回りは4人。建物の中と合わせて10人はいないとみていい」
「林を抜けて建物に辿り着いても張り付くところがないわ。ツルツルの壁しかない」
「外回りとマクシムの部屋。警備はこの二か所に集中させているはずだ。プランどおり正面から堂々と行くしかないな」
「決行は23:00」
アンジェリカとリアムは車に向かった。二人はプランを何度もイメージし起こるかもしれないアクシデントをひとつずつ潰していたから口数が少ない。リアムが運転席に回ってもアンジェリカは何も言わず助手席に乗りこんだ。
無言のドライブがしばらく続いた。アンジェリカが口を開いたのは目的地にあと10分というタイミングだった。
「何かあったの?」
リアムは前方から視線を外さない。
「ありましたって言っているようなものね。あなたの秘書と喧嘩でもした?」
「喧嘩ではない」
「エストニア」
「……何が言いたい?」
「組む相手のことを調べるのは常識でしょう?当然私も調べたわ。6年前、テロの資金源になっている人身売買組織の壊滅作戦があった。複数のトラックが集まり積み直しをしているところに踏み込み、荷物だった多くの子供たちが救出され作戦は成功」
「それで?」
「ただしおかしなことがあった。子供たちがいたらしい建物のひとつに死んだ男が三人。手榴弾の破裂痕があったけれど銃撃戦の痕跡はない。そして一切何もでなかった」
「何もなかった。それでいいじゃないか」
「いいえ、突発的な状況でも痕跡を残さず行動できる人間は少ない。その時期あの場所に存在できて尚且つ腕がいいとなるとリアムだろう。エディはそう言った」
「エディ……忘れない男。アンタの情報源はトムだったのか」
「あなたはそこで子供を一人救い今は同じ仕事をしている」
「詮索されるのは嫌いなんだ」
「わかるわ。私も同じだから」
リアムは苛立ちハンドルに手のひらを打ち付けた。
「何が言いたいんだ!」
「優秀な単独工作員 だったあなたが何故バイヤーなのかってこと。単独資産 やシューターならわかる。何故バイヤーなの?」
「今日の仕事に必要か?」
「ええ。あなたがバイヤーに徹するなら戦闘不能にさせるだけだわ。排除はしない」
「……そういうことか」
「眉間に一発撃ちこむより足を撃つ男と現場に乗り込むならそれ相応の対策がいる」
リアムは路肩に車を止めた。顔をゴシゴシとこすったあとアンジェリカに目を向ける。嘘で切り抜けられる相手ではない。
「俺のことを海外出張の多い商社マンだと思い込んでいた親友がいた。危ない目に遭ったら大変だとジャックはいつも俺のことを心配してくれたよ。夏のある日、ジャックは買い物にでかけた。その店で頭のイカレれた男が銃を乱射してジャックは死んだ。アメリカの大義のために、テロの脅威を排除するために多くの命を奪い作戦に携わった。それは俺やジャックの世界を守りたかったからだ。だがあっけなく親友を奪われた。すべての意味が失われた、俺の中で」
「……そう」
「コロコロかわる大義に本質を見いだせなかった。だから俺は信念を持った相手の助けになる役回りに職替えをした。後悔はないし、これからも変えるつもりはない」
「今日もバイヤーに徹するわけね」
「ああ、避けられない場合は排除する。例えばアンタに危険が迫ったら」
「エストニアはあなたなのね」
「ああそうだ」
「それを聞いて安心した。あなたは帰りたいと思える男だとわかったから」
「帰りたい男?」
「救出した男の子を育てた。そしてビジネスを手伝えるまで成長させた。何も持っていない人間は死を恐れないけれど生き残ることに淡泊だったりする。粘り強く「帰る」ために行動できる人間しか私は信用できない」
「あんたにもいるのか?そういう相手が」
アンジェリカはすぐに返事をしなかった。リアムは促すことなくフロントガラスの向こうに見える景色を眺めた。アンジェリカもリアムではなく前に視線を向けている。
「ええ。調教師 よ」
リアムは意外な言葉に驚き、返す声が大きくなる。
「あんたに調教師 ?一匹狼だとばかり……」
「そうね、初めて人に言ったから」
「……なんで俺に?」
「あなたには感じるものがあるから。たぶん私達は似ている」
「それは……わかるよ」
「私は彼に教えられたことを実践しているからまだ生きている。仕事は自分で選べるし報酬と評判はトップクラスよ。全部彼のおかげ。生きることに意味を見いだせなかった私に意味をくれた。
だからあなたの所にいる秘書と同じなの。彼にとってあなたは生きるための指針。絶対的存在。それを忘れないで」
「絶対的存在……か」
「ええ。私の調教師 は過去に心を置いてきた人だから私が何をしたって牙城は崩れない。だから父であり兄であり教師であることで満足することにしたの」
「どういう意味だ?」
アンジェリカはリアムの手をキュっと握り微笑んだ。
「言葉にしてもいいの?」
リアムはエンジンをかけることで会話を打ち切った。これ以上アンジェリカに穿り返されるのはいただけない。昨晩床に転がしてから一言も話していないサイードのことを考えた。
きちんと話をすべきだろう。『生きる為の指針。絶対的存在』とサイードが見ているのだとしたら、向き合わなくてはならない――真剣に。
■7
アンジェリカと別れリアムはサイードのいるセーフハウスに戻った。出迎えたのはエリザベスだけでサイードの姿はない。
「サイードは?」
「あなたのプランを確認して動いていたわ。ここ15分ばかりは音がしないけど」
現場に来るなと言ったが、サイードを作戦から外す気になれずリアムはプランをデスクに置いた。ボンボンの保管は大事なパートだから急遽オーダーした人間に任せる気にならなかった。
「リアム」
エリザベスの視線を受け止めながらリアムは心が沈んだ。誰もが自分に解決しろと言い募ることに。そんな仕事を選んだことに。
「サイードにとってあなたはヒーローよ」
「だから?」
「唯一無二の存在なの。サイード全ての心があなたに向かっている」
「受け入れられないなら突き放せと?」
「あなたが本気で突き放したらサイードは生きる意味を失う」
リアムは苛立たしい指摘ばかりだと拳を握った。
「受け入れられないならはっきり言ってあげて。ビジネスパートナーになれてもそれ以外のパートナーは無理だと。残酷でもはっきりした言葉が必要よ」
「ああ、そう言うよ」
「その場限りの関係を持つことは仕事に影響するわ」
「……その場限り?」
エリザベスは皮肉めいた微笑みを浮かべた。
「あれだけの情報をネットだけで得られるものなの?」
「人の持つ情報も必要だ」
「そうよね。それを手にするための対価は?」
「金だよ」
「リアム、時に金以外を望む男もいる」
リアムは心がガクンと揺れたことに狼狽えた。
「まさか……」
「私もはっきり聞いたことはない。ただサイードにとって過去にあった出来事を繰り返すだけなのよ。強要でしかなかった行為が今は対価として意味を持つ。それに昔と違い今は目的がある。リアムの為だという意義が」
「だからといって……まさか」
エリザベスは偶然出くわしたある出来事を胸にしまっていた。コーヒーを片手にサイードの部屋を訪ねた時僅かに開いていたドアから見えたもの。それはリアムの名を呼びながら自慰をするサイードの姿だった。そして彼は泣いていた。「ごめんなさい……リアム……」とかすれた声を漏らしながら自分を鎮めようとしているサイード。
かつて欲望のままに身体を蹂躙した男達と同じ欲をリアムに持っている自分に嫌悪しながら止められないサイードの気持ちを考えると涙がこぼれた。尊敬と憧憬、それと同じくらい強い欲望。
「サイードがあなたではない誰かを愛することを認めなければならないわ」
「当たり前だろう」
「できるのかしら?」
「リジー……もうこれくらいにしてくれ。サイードの様子を見てくる」
エリザベスに背を向けサイードの部屋に向かいながら、今日はどうしてこうも責められるのかとリアムは頭をかかえたくなった。サイードと対面して今の自分が何を言えるのか見当がつかない。何より作戦決行を前にして波風を立てたくなかった。
ドアをゆっくりあけるとサイードはソファに横たわり目を閉じている。長い夜に備えての仮眠だろう。サイードが握りしめているものが自分のシャツであることに気が付いたリアムはドクンと鼓動のピッチが速まったことを自覚した。20歳にしては幼ないサイードの寝顔はリアムの心を温めると同時に動揺を生み出した。そっと頬にふれるとサイードの瞼が揺れ、リアムはぱっと手を離す。
「俺は何を望んでいるのだろうか」
サイードがいなければ「帰る男」ではなくなる。何を目的に生きるのか?その疑問はリアムを悩ませていた。達成感を得る、それだけのモチベーションでこれからを乗り切っていけるとは思えない。それに距離を縮めるために努力するサイードの成長を何よりも楽しみにしている自覚がある。
アンジェリカとエリザベスの言葉はリアムの慢心を指摘するものだった。自分の元を去ることはないという甘え。サイードが自分の道を見つけたら?他の誰かに目を向けたら?
リアムのシャツを握っているサイードが今目を覚ませば二人の空気が気まずいものになる。リアムはドアに向かった。とにかく今夜の仕事をやり遂げてからサイードに向き合おうと心に決めて。
■8
ディスプレイに映るGPSを確認しながら、サイードはソファに項垂れている男を見詰めた。スーツは皺が寄りシャツのボタンは2つ外されている。もちろんネクタイはない。
アンジェリカに伴われて保管場所に来た男は精気を無くし茫然としていた。ビジネスパートナーとして信じていた男が裏の世界で暗躍していると聞かされれば当然だろう。しかも人身売買にも関わっているとなれば絶望的だ。父親を見返そうとしたことが結果的にすべて裏目にでた現実に潰れそうになっている。
「帰らなければならないのか」
サイードは返事をしなかった。問いかけなのか独り言なのかわからなかったからだ。リアムとアンジェリカの突撃を前にして無駄話をする気持ちにはなれない。
「いっそのこと死んだほうがよかった」
サイードはこの甘ったれた男と同じ部屋にいることにウンザリしていた。泣き言を言うくらいなら黙っていた方がましだ。
「僕は両親を知らない。子供の頃人身売買の商品だった。死にたいなら死ねばいい。随分恵まれた境遇のくせに」
「君が?」
サイードは答えなかった。まもなく突入の時間でGPSのシグナルは目的地に到着している。
「マックスは何も心配するなと言ったのに、まさか騙されていたとは」
サイードは違和感を覚えた。何も心配するな?マクシムが言った……何も心配するな?
「どういうことだ?」
サイードの声音が変わったことに気が付いた男は怯えビクっと肩を揺らせた。
「どういうことって……」
「何も心配するなとは何のことだ」
「父が……言ってきた。騙されているから帰国するように。これは命令だ、迎えをよこすって。だから俺はマックスに聞いたんだ。間違いだろうって」
マクシムは獲物の父親に動きがあることを知っていた。迎えをよこすことも。
「まずい!」
サイードは電話を掴みタップした。作戦の時はリアムも携帯を使う。しかし突入時間を過ぎた今、通話は繋がらなかった。冷静になれと繰り返しながら違う番号をタップする。
『どうした?』
「今日は空いている?」
『ああ、緊急っぽいな』
「荷物の見張りを頼みたい。すでに保管場所にあるから面倒なことはない。回収するまで目を光らせてくれればいい」
『わかったぜ。で?どこだ』
「場所はリジーに聞いてくれ。No.6にいる。リジーをピックアップしてここに」
『わかった。すぐに向かう』
サイードは身支度をしながらエリザベスに電話をかけた。
「リジー。フィリップを向かわせた。ここに来てくれ。僕はバックアップに向かう」
『一人で?』
「今から招集できるスタッフはいない。僕がどうにかするしかない」
『わかった』
ケヴラーの抗弾ベストと全身黒い衣服に着替えシグザウエルとナイフを装備に加える。あっけにとられている男の両腕を後ろに回し手首を結束バンドで拘束した。
「逃げられたら困る。少しの間辛抱してくれ」
諦めたのか返事をしない男の足首も同様に拘束した。フィリップが来るまで待っている時間がもったいない。今はバックアップに向かうことが最優先項目。
サイードは保管場所から車を走らせた。リアムのプランを最初から反芻する。遂行に必要な時間、作戦終了時間からの逆算。アクシデントによって加算される時間。それに警察が駆け付ける時間を加味してサイードは連絡すべきタイミングを見極めた。綱渡りの行き当たりばったりの策だが多少役に立つだろう。いや、役に立ってもらわないと困る。
■9
リアムとアンジェリカはプラン通り正面から乗り込んだ。リアムが調達したMarauder に乗り玄関を突き破って突入。Marauder は強硬なバリケードとなり二人を守った。放たれた特殊閃光音響弾に多くの人間が五感を狂わせ戦闘不能に陥る。
「随分手荒いバイヤーね」
「効率的と言ってくれ」
堅牢な装甲を盾に前方と後方に別れ敵陣に銃弾を放つ。聴覚と視覚を失っている間に仕事を済ませなければ厄介なことになる。
「アンジェリカ」
「ええ、想定より数が多い」
リアムは車中からH&K MP7を二挺取り出した。一つをアンジェリカに向けて床を滑らせる。
「ちんたらP99cで遊んでいる暇はない」
「さすがピカイチのバイヤーね」
「バイヤーなのはここまでだ」
二人は頷き、掃射して敵陣を壊滅し背中合わせで目的地を目指して進んだ。互いに背中と前方を守りながら。
見取り図で確認していたマクシムの居場所は角を曲がればすぐ。リアムは再び閃光音響弾を投げ込んだ。角に身をよせ閃光を避けたあと掃射しながら先を目指す。リアムがドアを蹴破り、二人は前転して室内に侵入し遮蔽物になる家具に身を潜めた。アンジェリカは狙いを定め対象を排除しながらマクシムとの距離を縮めていった。
「アンジェリカ!聞こえたか?」
「ええ!でも何故?」
「マクシム。警察がここに向かっている。サイレンが聞こえているだろう?俺達とこなければ逮捕されて一生刑務所の中だ。だが一緒に来れば交渉の余地がある」
リアムの言葉に部屋が一瞬静かになった。バタバタと足音が複数廊下に消えた。金で雇われた男達は逃げ出すことに決めたようだ。
アンジェリカは銃を構えマクシムに狙いを定めた。
「私は貴方が生きていようが死んでいようが構わないの。仕事がしたいだけ。私と来るか、警察に捕まるか選んで」
マクシムは銃を床に落とし両手を挙げた。アンジェリカが後ろでに手錠をかける。
「時間がない」
「ええ」
アンジェリカは黒封筒をマクシムのデスクに置いてから銃を構え廊下にでた。リアムはマクシムを引きずりながらMarauder を目指した。
警察車両のサイレンはかすかな音からはっきりとしたものに変わっている。Marauder にマクシムを放り込むとアンジェリカが首筋に注射を突き立てた。眠ってもらったほうが何かと都合がいい。
身体を潜り込ませているアンジェリカを守るためリアムは車両の外に立っていた。かすかに動く気配を察知した瞬間腹部に衝撃をくらい、リアムは倒れた。マクシムの部屋から逃げ出した男の一人がさらに引き金を引こうとしている。銃声とともに振り返ったアンジェリカはリアムを撃った男の頭部に銃弾を撃ちこんだ。
「くそっ!俺のことはいい。Marauder で警察と鉢合わせするわけにはいかない。アンジェリカ、今すぐ出ろ!」
「置いていくわけにはいかない!」
「大丈夫だ。少しは歩ける。たぶん警察に通報をいれたのはサイードだ。こっちに向かっているだろう。俺はサイードと合流する!早く行け!」
リアムは立ち上がり下腹部を抑えながら表情を歪めた。よりによってケヴラーで覆われていない場所を撃たれるとはついていない。
「連絡するわ」
「当たり前だ。ギャラを踏み倒すなよ」
アンジェリカは表情を引き締めMarauder に乗り発進させた。リアムは被っていたニットキャップを脱ぎ腹部に当てる。血痕を現場に残せばDNAで特定されるだろう。単独工作員 時代は機密扱いで守られていた身分だったが今はそんなものはない。
アドレナリンがでているうちに身体を動かせ!リアムはふらつく身体を叱咤しながら警察が向かってくるのとは逆の方向へ足を進めた。
■10
本当はこのまま倒れ込んでしまいたかった。しかし一度止まれば動けなくなるとわかっていたリアムは歩くことに集中する。
マクシムを確保した時点でこの作戦は完遂したといえる。アンジェリカは父親のもとへ息子を無事送り届けるだろう。警察は黒封筒を見て誰によって破壊行為が行われたのか簡単に突き止める。リアムの関与がどこまで調べられるかわからないが、大きなヘマをした記憶はない――撃たれたことを除けば。
何のためにこんな苦しい思いをしながらヨタヨタと歩いているのか。馬鹿みたいだと自嘲が浮かぶ。
ポケットの中でスマホが振動した。念のため辺りを確認したが黒い闇しか見えない。警察車両の回転灯が見えないくらいには距離をとれたらしい。太い木の幹に身体を預け、痛みに顔をしかめながらスマホをとりだしスライドさせた。
『リアム?』
「ああ」
『どうしたの?まさか』
「突入地点から10時の方向。距離は正直わからない。光と音が届かないくらいは離れている。道路から10mの林を直進中。被弾した……もう体力が限界だ」
『ピックアップする!』
あっさり通話が途絶え自分が今たった一人であることが怖くなった。真っ暗な林の中でまもなく動けなくなる。そのあとは?サイードがみつけてくれなかったら?「帰る男」か……皮肉だな、アンジェリカ。帰りついて初めて「帰る男」になれる。このままだと俺は帰れない男だ。
リアムは暗闇に浸食され、その場に崩れ落ちた。
■11
「リアム!リアム!」……誰かが呼んでいる。誰だ?
「リアム!」……誰?
頬に触れる温かさが気持ちよかった。ペチペチと叩かれているようだが優しさしか感じられない。俺は歩いていたはずだ、歩いて……歩いて……帰らなくては。帰る?……どこに?
「リアム!」
緩い覚醒は視界を濁らせぼんやりとしか見えない。誰かがいる。誰かが俺を見ている。
「リアム!」
「サ……ド」
「リアム!僕がわかる?わかったら瞬きして!」
ゆっくり瞼が動いた。
「傷を調べるから。少し痛いかもしれないけど我慢して」
サイードはマグライトを口に咥え灯りをあてながら傷を調べた。ケヴラーのわずか下に射入孔。ゆっくり体を横向けるとリアムが呻き声をあげた。ボトムを下げて確認したが射出孔はない。出血が予想より多くないことが安心材料だが、この傷で歩き続けたダメージが心配だ。
「リアム!もう困らせないから!だから頑張って。なんとしても助ける。僕の命にかけて。ちゃんと帰ってくるって約束して!」
温かく包まれている両頬にポタリと滴が落ちた。その感触に再びリアムの瞼が開く。暗闇の中でサイードのアンバー色の瞳がはっきりリアムには見えた。
「サイ……ド」
「ヤンのところに運ぶから」
「帰り……たい」
「一緒に帰るよ。リジーも待っている」
「サイ……ド」
「リアム?」
「困らせて……いい」
「リアム?」
「サイ……ドと……帰る」
「リアム!!!」
意識を失ったリアムを抱えサイードは林を駆け抜けた。帰らないと!一緒に!リアムを助けないと!僕が助けないと!
リアムを引きずりながらサイードはヤンに電話をした。
「ヤン!弾は右下腹部。出血はそうでもないが射出孔がないから銃弾は体内に留まっている。骨の損傷はわからないが歩けていたから深刻ではないと思いたい」
『オペの準備をする!連れてこい!』
サイードは歯を食いしばりリアムを車まで連れて行った。後部座席に横たえ、車を発進させヤンの元に向かう。
「僕を置いていくなんて許さない」
サイードは運転しながらずっと言い続けた。リアムの意識下に声が届くことを祈りながら。
■12
「ようやくあなたと話ができるわね」
「……ええ」
ヤンの病院にある一室でアンジェリカとサイードは向かい合っていた。動けないリアムにかわりフィリップとイアンが付き添い父親の元に息子を届けることになった。フライトは2時間後、無事3人は空港に到着している。
アンジェリカはミッション完遂の報告とギャラの支払いをするためにここに来た。リアムは一命をとりとめたが無理はできない。銃創による熱が下がり切っていないし痛み止めが効いている時はビジネスの話は無理だ。
リアムと取り決めたギャラ、リアムが手配した備品の実費。それらを総括してアンジェリカはオンラインで振り込みを完了させた。サイードはマクシムがどうなったか聞いていない。聞いたところでリアムの傷が治るわけではないからだ。
アンジェリカは相変わらず美しく自信に満ちたオーラを放っている。サイードはムクムクと沸き上がる嫉妬心を持て余していた。
「ねえ、相談があるの」
「相談ならリアムとしてください。といってもまだ何かを決められる状態ではないですが」
「いいえ、サイード。あなたに相談なの」
サイードは驚いて顔を上げた。
「僕に?」
「ええ。前から考えていたのよ。お金の管理について」
「お金?……ですか?」
「報酬を安全に管理できる口座が欲しい。様々な名義、そして複数の国。分散した口座があればもっとスムーズに仕事ができる。バイヤー、シューター関係なく必要なものよ。高い手数料を払ってロンダリング業者に委ねている現状を私は変えたいの。命をはって得た報酬が資金洗浄 の片棒を担いでいるなんて腹立たしいと思わない?」
「そうですが、それがどう僕に関係するのですか?」
「リアムは完璧な身分を生み出せるバイヤーよ。そしてあなたの管理能力と合わせれば金融業が可能じゃないかしら」
「僕が?」
「ええ。考えてみて。あなたはリアムのパートナーになるには強みが必要よ。リアムにはできないことが強みになる。そして二人揃うことで成立するビジネス。もしやってみる気があるなら、何人か紹介できるわ」
「何故僕にそんなことを?」
「私はリアムと共感できる。それは能力のある仕事人として。サイード、あなたは絶対的存在を持つ身という私との共通点がある。リアムが常に「帰る男」であるために、あなたは成長し続ける必要があるわ。私と同じように」
「あなたと……同じ」
アンジェリカは書類一式をまとめ立ち上がった。デスクの上に数字が書かれたカードが一枚置かれる。
「安全な回路。衛星電話の番号よ。決心がついたらいつでも電話してちょうだい」
アンジェリカはすっと右手を差し出した。サイードは慌てて立ち上がり彼女の右手を握る。
「サイード、期待しているわ」
アンジェリカは微笑みサイードに背を向け部屋を出て行った。
■ epilogue
病室に戻るとリアムはベッドをリクライニングさせ窓の外を見ていた。
「何か見える?」
リアムはゆっくりサイードに視線を合わせた。
「ああ、星が見える。すっかり星のことなんか忘れていた。毎晩空に浮かんでいるというのに」
「そうだね」
「アンジェリカは?」
「全てクリアにして帰ったよ。ここには寄らなかった?」
「ああ、こなかった」
リアムの手が伸びて来たのでサイードはしっかり握った。
「なるべく困らせないように頑張る。そして僕じゃないとダメだってリアムが思えるビジネスパートナーになれるように大人になる」
「別にいいよ」
サイードはいらない……そういう意味か。サイードは繋がった手を離そうとしたがリアムが強く掴んだ。
「違う。大人でも子供でもいい。どっちでもいいってことだ。何も確かなことを言ってやれないが、俺はサイードの所に帰りたい……そう願った。あの夜」
「……リアム」
「どうしたいのか、どうなっていくのかわからないんだ。情けないことに。でも俺にはお前が必要だ」
「僕にもあなたが必要だ」
「今はそれでいいか?」
「……うん」
サイードが横に座ってもリアムは何も言わなかった。繋がった手を間に置き、窓の外で煌めく星を眺める。星の数のように選択肢があり、焦らず探していけばきっと答えがみつかるはずだ。
「たまにはこうして星をみることにしよう」
「そうだね」
サイードが繋がった手を持ち上げリアムの手の甲にキスをおとしたが、リアムは何も言わなかった。そのまま二人は言葉を交わすことなく星に想いを馳せた。
この星のように二人の未来が美しいものであることを願って。
END
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