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第5話

 5    ケーキ屋の名前は、「リゲラ」というらしい。本屋で立ち読みした辞書によると意味は「優しさ」だ。  ケーキを差し出してくれた少女……ミラさんと、そのお兄さんのエリアさんが経営する店で、中はこじんまりとまとまっていた。  辞書を閉じ棚に戻す。店を出ようとすれば険しい顔の店主と目が合った。まだ辞書を買うお金どころか服をそろえる余裕もないので勘弁してほしい。  「すいません」と小さく言い、店を出た。  この国では救世主を神聖視する関係から、僕のいた世界の文字とこちらの文字との関連辞書が置いてあった。本当はじっくり勉強したいけれど、辞書というのはどちらの世界でも高額だ。  ……まぁ、無一文の僕が額の評価をするのもおこがましいんだけど。 「ええと、『いらっしゃいませ』は、『cbit』? 発音どうだっけ」  紙に書かれた文字を片手に首を傾げる。  せっかく雇ってもらえることになったのだから、最低限のことは言えないとまずいだろう。いくらミラさんとエリアさんがこちらが心配になるくらい優しくてもだ。   『いらっしゃいませ』 『ありがとうございました』 『こちらでお間違いないでしょうか』 『お待たせしました』  などなど、覚える言葉は多い。  昨夜身振り手振りで自分が異邦人であることと、働きたい意欲をアピールしたところ意外にもすぐにOKが出た。  僕の方が逆に「大丈夫なんですか?」と聞いてしまった程だ。  2人は顔を見合わせ笑うばかりだったが。  よし、『準備中』の札のかかったリゲラを前に拳を固め大きく深呼吸をする。早朝のひんやりとした空気が肺に心地よい。 『お、おはようございます!』  覚え立ての言葉とともに、扉を開けた。ショーケースの向こうに、エリアさんが立っていた。分厚い手袋をはめた手で鉄板を持っている。その上には美味しそうに膨らんだシュー生地が乗っていた。  僕を見、微笑む。 『おはよう』  その姿は、見惚れてしまうくらいにキレイだ。長身でスラリとしている。何歳くらいなんだろう。まだそこまでの会話はできない。  頭を軽く下げて、扉を閉める。店内は静かで、急に大声を出した自分が恥ずかしく思えた。  エリアさんに手招かれ奥に行くと既にテーブルの上には幾種ものおいしそうなケーキが並んでいた。  思わず感嘆の声が漏れる。  「ふ」と、エリアさんに笑われ、顔が赤くなる。まるで子どもだ。  熱がとれた様子のシュー生地に粉砂糖をふり、真ん中を切る。そしてボウルから生クリームを取り出し中に詰める。エリアさんの手がすばやくそれを済ませていく。  1区切りついたところで、エリアさんから銀紙を手渡された。丸い形の薄い銀紙だ。 『え、っと』  戸惑っていると、エリアさんは出来上がったばかりのシュークリームをひょいと手にとり、銀紙に乗せた。皺を寄せていき、丸くシューの下を囲うように整える。  あっという間に売り物の完成だ。  また銀紙を渡され、いい加減理解した。同じようにやればいいのだろう。緊張しながらそうっと手を伸ばす。  が、それは止められた。  エリアさんが首を横に振っている。指さされたのは手洗い場だった。 「あ」  常識中の常識じゃないか。あたふたしながら、手を丹念に洗う。続いて指さされたのは壁にかかった赤いエプロンだった。  まだ新しい。 「え」  エリアさんを見る。エリアさんが着ているのは黒いエプロンで、白い肌によく似合っていた。それと同じ形の、エプロン。  壁からそれを下ろし、家庭科実習以来のエプロンを制服の上から着てみる。  エリアさんはやっぱり微笑んでいて、頷いた。  顔がまた、熱くなる。やばい、泣きそうだ。エプロンの裾を握りしめ必死に堪える。 『あ、ありがとうござい、ます』  頑張ろう、頑張るんだ。  ***  ――とはいえ、初めての労働は緊張と失敗の連続だった。  ケーキを切ろうとすれば形が崩れてしまう、フルーツをカットしようとすれば自分の指までカットしてしまう、接客は当然たどたどしく、何度もミラさんに助けてもらわなければならなかった。  情けない。   「うう……、」  凹む。自分のできなさに凹む。今までも散々凹んできたのだけど、もう一段階凹む。  ようやくお客さんもショーケースの中身も少なくなってきた頃、窓の外を見ればもう真っ暗だ。  あっという間な、そして役立てた気もしない1日だった。  どんより雲を背負っていると、後ろからぽんと背を叩かれた。 『あ、わ、ご、ごめんなさい』  気を抜いてました。  エリアさんはたいして怒った様子も見せず、首を傾げて扉を指さした。キィとゆっくり扉が開く。 『うちの常連さんなんだ』  

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