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第6話
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見覚えがあった。そうだ、昨晩遅い時間にお店から出てきていた。ベージュ色の丈の長いカーディガンに中は全身黒ずくめの格好をしている。エリアさんより背が高い。
灰色の髪、深い緑色の目の下には隈がはっきりと伺える。
細い身体の全身から「疲れてます」オーラが漂っていた。よたよたとショーケースの前に歩み寄り、眺めるのかと思いきやその上に顎を乗せた。
どう対応すればいいのかわからず、わたわたしているのは僕だけで、了解したとばかりにエリアさんは奥からリボンで飾られた箱を持ってきた。
次第に男の人の目に生気が戻っていく。
エリアさんはにこりと笑った。
『こちらの商品ですね』
『それ!』
リボンを解き箱が開けられる。そこには数々の焼き菓子が丁寧に並べられていた。バターの香りが強い。ものすごく美味しそうだ。
僕までその男の人と一緒に目を輝かせてしまった。
『ありがとう! エリア!』
男の人は箱に頬ずりをしてからまた丁寧にリボンをかけ直した。
『あれ、この子』
ようやくすぐ隣に立っていた僕の存在に気がついたようで目を瞬かせた。
『リゲラ』にはこの人以外にも常連さんが多い。だから今日1日だけでもこういう反応は初めてではなかった。シャキと背を伸ばす。
改めて向かいあうと、雰囲気がエリアさんに似ている。優しくて丸いイメージ。少し垂れた目が細められた。
『今日からうちで働いてもらってるんですよ。ノゾミくんです』
エリアさんがすかさず、側に来てくれた。
何を言っているのか全部はわからないが紹介してくれているのはわかる。『望(のぞみ)です』と改めて言い、礼をした。
『ここじゃない国から来たらしくてね、言葉がまだ不自由なんだけど、良い子だよ。ね?』
『……? はい?』
相づちを求められても、すいません、わかりません。とりあえず頷けばクスクスと笑われた。
ま、間違えたかな。言葉、早く覚えないと。
『ノゾミ、ノゾミか、随分細いなあ、男……か?』
『可愛い顔してるけど、男の子ですよ。手出さないでね』
『……出さないよ。そんな暇ない』
『今日もお疲れ様』
『ああもうお前の菓子だけが癒しさ』
『うーわー、かわいそう』
『かわいそうさ』
なんだか、楽しそうだ。言葉を挟めなくて、落ち着かない。邪魔かな、僕、奥、入ってた方がいいかな。片付けぐらいならできるかもしれない。
そう後ろを振り返るも、すぐに正面を向かされた。何故だか店長に後ろから抱きしめられたせいだ。
『……? ……?』
『ま、今後ともよろしくお願いします』
『ああ、可愛い店員さんも増えたしな』
これまでの常連さんと違う。エリアさんとこの人はきっと友達なんだろうな。言葉かけが気安い。いい、なぁ。
しばらく抱かれた状態のまま、軽快な会話が続いた。ぼんやりと時間が過ぎていく。それを遮ったのは、配達に出ていたミラさんの帰宅だった。
2人の姿を見ると白い頬を膨らませ、ビシリと指さした。
『酷い、お兄ちゃん、サボってたでしょ!』
『人聞き悪いこと言うもんじゃないよ。お客様の相手をしていただけです』
『そうだよ、ミラちゃん。俺は、店長の相手をしていただけで』
『……サボりじゃない』
ミラさんも当然、このお客さんとは仲が良いようで、悪態を吐きながらも楽しんでいる様子だ。
全然、話に入れない。知らない内に、頭が垂れていく。
――言葉、覚えないと。辞書買えるのいつになるだろう。会話がちゃんとできるようになるの、いつになるだろう。
それまで、ここで雇ってもらえるだろうか。
一緒に、いてくれるだろうか。
エリアさんに抱かれて、一応輪の中にいるような形になっているのに、それさえも滑稽に思えてくる。
『長居しちゃったな、じゃあ、また来るよ』
『無理せずに。また、お待ちしてますよ』
『ああ』
話に一区切りついたのか、お客さんは両手で大事そうに箱を持ち上げた。帰るんだと思った途端、ほっとした息が出た。肩の力が抜ける。
エリアさんの腕の力も緩んだので、深く礼をした。最低限、これだけは言いたい。
『あ、りがとうございました』
ふとお客さんは扉へ向かっていた足を止めた。僕の方へつま先を向け、腰を曲げる。目線が同じくらいの高さになった。
澄んだ深い深い緑色がじいと僕を見ている。やがて、微笑みの形に変わった。
『スーウェン・ライナーだ。また来るよ、頑張ってね』
手を差し出され、わけもわからないまま、その手を握る。
ペンぐらいしか持ってこなかった僕の手と全く違う。大きくて固い手だった。
『ス、スー?』
『スーウェン』
『スー、ウェン、さん』
『そう。じゃあね』
お客さん……スーウェンさんの手が離れる。箱を抱え直し、お店から出て行った。
僕を気に掛けてくれた。雰囲気のまま、優しい人なのだろう。
また、会えるかな。会えるといい、な。
『さて、今日はもうこれで締めかな』
『そうね、配達も終わったし』
『ああ、ノゾミくん』
『はっ、はい』
パッと顔を上げる。片付けのやり方を教えてもらえるのだろうかと期待するも、エリアさんは僕のエプロンの裾を掴み、奥を指さした。
エプロン、もうしまえってことだろうか。片付けには必要ないのかな。言われるがままにまだ慣れない手つきで腰に結ばれた紐を解く。厨房に入り元あった壁にエプロンを掛けた。
次は次はとまたエリアさんに駆け寄るも、首を横に振られた。
ドキと心臓が跳ねる。
『今日はもういいよ』
『え、』
『家、帰って大丈夫』
『家』
『うん』
今度はまっすぐに扉の方を指され、ようやく、意味がわかった。
『あ、はい』
頷いて、扉に向かう。口角がひきっつたようにしか上がってくれない。ノブを握りしめる。
――ダ、メだ、ってことかな。もう雇えないってことかな。確かに全然役に立てなかったけど、でも、ここで、働きたいって本当に思ってた。
ここで。
居場所を。
『はい、ノゾミくん』
トンと背を叩かれるのと同時に、顔の横に茶色の包装紙で包まれた長方形のものが差し出された。
振り返れば、歪んだ視界に、ミラさんが微笑んでいた。
『これ?』
あまりに包みが顔に接近してくるのでひとまず受け取り、ミラさんに向き直る。
包みには薄く厚みがあった。なんだろう。
『お給料だよ』
『……? ごめんなさい、わからない……』
『ええとね』
無理矢理手の中で包みが解かれた。見覚えのある横顔が現れる。誰かは知らない、けど、この国の紙幣だということは知っている。
ますます混乱する。
よくわからないけど、くれるということだろうか。なんで、お給料だとしてももっと先になるんじゃないのかな。
咄嗟に知っている言葉で当てはまるものが出ず、無言で首を振り、ミラさんに紙幣を押しつける。
『困ってるみたいだったから、先に』
「もらえないですよ!」
『いいから……ね?』
「もらえないです! 役に立ててない」
『ノゾミくん!』
今度は逆にミラさんに手ごと握り込まれて紙幣を寄せられる。
『また、あ・し・た!』
『……あし、た? 明日?』
『そう! 明日からもよろしくね』
『明日』
『疲れてるでしょう? 顔色悪いよ。片付けは2人でちゃちゃっとやっちゃうから大丈夫だよ。先に帰っても……ノゾミくん?』
言葉が、できないのがもどかしい。『明日』、また、『明日』?
ひとつ頷いて、深く礼をする。包みを受け取り、店を出た。走って走って、ああ、今日もまだ月が明るい。
本屋さんはまだ開いていた。飛び込み、真っ先に辞書を手に取り、レジに持っていく。
「これ、下さい!」
また、明日から、頑張ろう。
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