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第7話
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朝、目が覚めると、喉が痛かった。何度か咳払いをして、身体を起こす。頭が重たい。降ろした足裏の感触が妙に冷たく感じた。
ふらふらとテーブルまで歩き、上に置いてあった水を掬い飲む。
少し、落ち着いた。
「よし」
今日も頑張ろう。
***
『ありがとうございました』
頭を下げて、お客さんを見送る。
働き初めて1ヶ月が経とうとしていた。辞書とミラさん、エリアさんのご指導のおかげでなんとか仕事に必要な最低限の言葉と多少の読み書きができるようになったが、まだまだ、スムーズな会話ができるレベルとは言い難い。
けれど、2人のことは少し知ることができた。年齢はエリアさんが25歳でミラさんはその7つ下だそうだ。『リゲラ』は元々はご両親が営んでいたお店だそうだが、不幸な事故があり、2人が後を継いだとのことで……聞いた時は、後悔した。
こんな優しい兄妹を育ててくれたご両親なんだ。きっと、ものすごく愛していた。ものすごく、つらかった。
適当な言葉も思いつかず、口ごもってしまい、逆に気を遣わせてしまった。
『大分慣れたようだね』
頭の上に手を置かれ、目線を上げるとエリアさんがいつものように微笑んでいた。
いけない。少しぼおっとしてた。どうも今日は思考が散漫している気がする。気をつけないと。
エリアさんは、聞き取れるようゆっくり話てくれる。
『はい、まだまだ、全然ですけど』
『そんなことないよ。僕もミラも助かってる』
『っ、はい! ありがとうございます!』
そう言ってもらえるのが、一番嬉しい。もっと、勉強して慣れて、役に立ちたいな。
「コホ、」
不意に咳が出て自分でも少し驚いた。思わず口を押さえる。エリアさんも眉根を寄せこちらを見下ろしていた。
『ノゾミくん、大丈』
店の扉が開く。
『いらっしゃいませ』と駆け寄ると、珍しい顔があった。珍しい、と言ってもその顔は3日に1度くらいは見ているのだけど、この昼間の時間にということは今までなかった。
スーウェンさんだ。心なし、目の下の隈の色も薄いように思える。
『ノゾミ、元気にしてたか?』
ぐりぐり髪を掻き回され、頭まで一緒にぐらぐら揺れる。
『一昨日の夜もお会いしましたよ』
『ははは、そうかそうか。そうかそうか』
お菓子をまだ手にしていないというのにこのテンションの高さは珍しい。
エリアさんがすぐに動き出す。
『注文受けてたもの、持ってきますね』
『ああ、頼む』
2人になっても、スーウェンさんは僕の頭から手を離さなかった。終いには胸に囲いこみ、なで回す。
『ス、スーウェンさん?』
『ああ、癒される……』
癒し効果が僕なんかにあるのか甚だ疑問なんだけど、スーウェンさんがそうしたいならじっとしていよう。
いつも仕事の拘束が長いらしくて、青い顔をしている彼がこうも楽しそうなのだから水を差す必要もない。
僕も、気持ちがいい。
トロ、と目蓋が落ちてくる。そういえば、頭を撫でられたことなんて今まであんまりなかった。嬉しい、かも。
『――ノゾミ?』
ハッと我に返る。慌てて、スーウェンさんから離れた。わ、馬鹿、お客さんに対して何を、今、少し意識とんでたし。
『ご、ごめんなさい!』
『俺はいいけど、――疲れてるんじゃないの?』
『え、あ……大丈夫ですよ。それより、スーウェンさん、今日は早いですね』
『ああ』
スーウェンさんの顔が緩む。今日は白いシャツに黒いジャケットでかっちりした感じだから、なんだかギャップがあって面白い。
後ろで物音がして振り返ると、エリアさんが10センチ10センチくらいの正方形の小さな箱を持って立っていた。
『本当に、珍しい時間に来ましたね』と言葉を被せる。
『今日は俺の可愛い部下達が、上司に俺を休ませてやってくれって懇願してくれたらしくてね、いやあ、本当に可愛い奴ら』
『ああ、相当顔色酷いですもんね、スーウェン』
『そうか? いやまあそんなわけで今日はこれから休みなんだ。ははは、仕事のことは忘れて寝て下さいと言われたが、そんなもの考えられるわけがない。全く頭が働かないからな!』
『……だから帰されたんでしょうね』
会話のテンポが俺に話してくれる時より早くて、聞き取れる単語が少ない。とりあえず、スーウェンさんが今日はお休みだっていうことはわかった。
『いつもお仕事大変そうですね。今日はゆっくりして下さい』
そう言うと、背の高い2人からの目線が落ちてきた。
あ。
思わず、口に出してしまっていた。会話の邪魔をしてしまった。
『す、いま』
謝る前にまたスーウェンさんに抱きしめられる。わしゃわしゃ、後頭部を撫でられるのを感じた。
『本当にいい子だなあ! うちで働かないか?』
『勝手にうちの子をあんな場所に勧誘しないで下さい』
ぐいと後ろに引っ張られ今度はエリアさんの腕の中にいた。言葉が早くて自分の名前ぐらいしかわからない。けど、不快に思われたわけではないみたいでホッとする。
その日のスーウェンさんの買っていった品は、お酒をたっぷり使った生地に細かく刻まれたフルーツが混ざったバターケーキだった。
スーウェンさんは狂喜し、スキップ混じりに店を出ていった。
本当にお休みが嬉しいのか……ただたんに疲れすぎて何かを振り切ってしまっているのか……おそらくは両方だろう。
その日も1日、バタバタと過ぎていった。部屋に着くと同時にベッドに倒れ込む。枕元に置いていた辞書を開き、眺めた。
勉強しなくちゃなと思うのに頭が重い。
指で文字をなぞる。慣れ親しんだ言葉に不思議と泣けてきた。どうも今日は涙腺が弱いようだ。
「かあさん、とお、さん……さ、え」
あんなにも嫌だったのに。絶対に、あそこに戻りたいわけじゃないのに。久しぶりに声にした言葉はそんなものだった。
ダメだと思うのに目蓋が落ちてくる。
抗えなかった。
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