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第8話

 8  ゴーン、ゴーン。  城からの鐘の音で目を覚ます。 「コホ」  起き上がり、水でうがいをする。顔を洗い、一度両頬を叩いた。  頑張ろう。 ***  忙しい。これまでになかったくらいに忙しい。  今日はもしかしたら国民の休日的な日なのだろうか。入れ替わり立ち替わり、お客さんが絶えない。 『ありがとうございました』  僕にはお菓子作りはできない。せいぜい、包装や飾り付けぐらいしか手を出せない。だから接客が主な仕事になってくる。  たまたま、大きな注文を受けてしまったミラさんとエリアさんは奥でなんだかバタバタしてるし、しっかりしないとと、気を引き締める。  また、扉が開いた。  40代くらいの女性客だ。あちこちに施された装飾品が眩しい。 『いらっしゃいませ』  カツカツ、ヒールを響かせ、女性は真っ先にケーキの飾られたガラスケースまでやってきた。その横で注文を待つ。  すぐに女性は顔を上げた。ケースを指差し話す。 『コレとコレ、あとコレも』 『は、はい!』  ケースの裏側に行き、しゃがみ込む。  ぐらり。  眩暈がした。思わず、床に掌をつく。あれ、どうしたんだろう。気を取り直して、ガラス戸をズラす。トングを掴み、注文の品をトレイに乗せていく。   『ああ、やっぱりそっちを止めてこっちのにするわ。その赤いの』 『はいっ』  女性客の声が大きく響く。ガラス越しに扉が開くのが見えた。新しいお客さんだ。若い女性で壁際の棚に並べられたパンやバターケーキを眺めている。  焦る。  焦るのにうまく手が動いてくれず、トングの先のケーキが妙に重く感じる。 『こちらでよろしいでしょうか?』  起ち上がり、トレイに載せられた色とりどりのケーキを見せる。お客さんは唸りながら首を傾げた。じゃらりとアクセサリーが音を立てる。 『なんだか直に見ると小さい気がするわ。同じやつ、もう1つ追加してちょうだい』 『はい、かしこまりました』  ふと、お客さんの後ろで後から来た女性客が待っているのが見えた。既に商品を選び終えたらしく、木の枝で編んだかごにパンやバターケーキが数個入れられていた。  目が合う。「あ」といった感じで微笑まれた。  かごをガラスケースの上に置き、『お願いします』と言う。 『すいません、少々お待ち下さい』  そう言うつもりだった。  ――なのに、言葉が出てこなかった。ど忘れだ。いつも言っているのに、どうしてだかその言葉が思い出せない。  少し、間が空いた。それがいけなかった。 『ちょっと! こっちはまだ選んでる最中なのよ! 私の方が先よ!』  年配の女性が声を荒げた。キーンと頭に突き刺さる。  まずいまずい。どうしよう。言葉、出てこない。 『全く、非常識ね』 『まあっ、た、確かに私も悪かったかもしれませんが! そこまで言われる筋合いはありません! あなたこそ、いつまでもあれやこれやとケースの前を占領して、非常識だわ!』  後からのお客さんまでもが、顔を真っ赤にし、口げんかに応じしてしまったようだ。もはや、僕の耳には記号の羅列にしか聞こえない。  どうしよう。  どうにかその場を収めようと出た声は想像以上に小さくて、2人の応酬の中に呆気なく飲まれてしまう。  キンキンする、頭、痛い。  どうしよう。ごめんなさい、僕が悪いのに。  ――その時、またドアが開いた。パニックが加速する。どうしよう。目を固く閉じる。ふと、2人の女性の声が消えた。そうっと目を開ける。   『申し訳ありません、お客様。こちら、商品ですね、お預かり致します』  灰色の髪がさらりと肩口から落ちる。スーウェンさんが、そこにいた。 『ス、』 『お客様、ご注文はお決まりでしょうか?』  後ろから声がし、振り返れば、エリアさんがにこやかに立っていた。俺の手からトングとトレイをとるとケース前に出て行く。  お客さんは戸惑いながらも、頷いた。隣では会計がスーウェンさんの手で済まされていく。 『こちら、お騒がせしたお詫びです。ささやかですが、よろしければお食べ下さい』  扉の前では、ミラさんがバターケーキを可愛らしく包装したものを2人に手渡していた。 『ありがとうございました――! またよろしくお願いします!』  あっという間、だった。  扉が閉まる。  飛び込んできた風に汗を冷たく感じた。汗、っていつの間にこんなにかいたんだろう。 『ノゾミくん』  顔を上げればエリアさんがすぐ側にいた。いつも浮かんでいる優しい笑みが、今はない。  ドキリとした。 『ああいう時はすぐに呼んでくれていいんだよ。近くにいるんだから』 『あ、』  全くだ。僕、1人でできると思って、思い上がってて、結局、2人に迷惑かけたんだ。  拳を握りしめる。   『すいません、でし、た』  声が揺れないように喉に力を入れる。  ここで泣いたら、ダメだ。絶対にダメだ。悪いのは僕なんだから。 『大事なお客様を2人も失うところだったってこと、わかるよね』 『すいません』  呆れられた。怒ってる。当然だ。  どうしてこうなんだろう。こんなんだから、母さんも、父さんも、小枝ばかりが好きなんだ。  ああ違う。今はそんなこと考えている場合じゃない。  怖くて、エリアさんの目が見れない。なんだか、視界がぐらぐらする。 『それくらいでいいじゃないか。ノゾミも反省しているみたいだし』 『スーウェンは口出さないで下さい』 『けど、』  そうか、スーウェンさんも、お客さんとして来てくれてたのに巻き込んでしまったんだ。 『ぼ、僕が、悪いんです。スーウェンさんも、ごめんなさい』 『謝るなよ』  ぐらぐらする。視界が、段々と暗くなっていく。汗、冷たい。  もっとちゃんと謝りたいのに、声が出ない。  ぐらぐら、ぐらぐら、嫌なことがたくさん、頭の奥から吹き出してくる。 『ノゾミ!』  遠くで小さく、スーウェンさんの呼ぶ声が聞こえた。

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