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第19話

   19 『僕で、よければ』   小さな声だった。それでも、エーゲルさんは薄く口角を上げ、こくこくと頷いている。  台紙の、残った2枠に印鑑を押した。  それを丁寧に折り、前に差し出す。 『僕でよければ、あの』  ガツン。  突然、大きな音が店内に響いた。音の方、ドアの方を見ると、長身の影がへばりついている。どうやら勢いよくドアにぶつかったらしい。  一呼吸置いた後、扉が開いた。ゼエゼエと細い身体が荒い息を繰り返している。ズカズカ大股で歩いてくるのは、スーウェンさんだった。   『ノゾミ、あのな』  顔が青い。眉間に濃く皺が寄っている。呆然とするばかりの僕の、左手を握った。『あ』、はらり、カードが落ちる。  スーウェンさんは自身のカーディガンのポケットの中をなにやらごそごそ捜した後、覚えのある台紙を新たに僕に突きだした。  『俺だって今日でいっぱいになる!』  その迫力に、『は、はい』と発した声は変に上ずっていた。 『今、エリアさんを呼びますから』 『そうじゃ、なく、て、う、げほっげほっ』  スーウェンさんは腰を折り、顔を背けた。呼吸が整っていないまま話し出したのが悪かったのだろう、終いにはムセこみ出してしまった。 『スーウェンさん! 手離して下さい。水持ってきますから』 『いや、大丈夫大丈夫、げほ、はは』  『かっこわりぃ』と呟く声が届く。  笑っているようだけど、長い乱れた銀の髪が表情を隠してしまっている。  手を伸ばす。髪を指で攫い、スーウェンさんの耳にかけた。  スーウェンさんは軽く目を見開き、僕を見た。その目元が、わずかに赤い。 『あ、わ、ご、ごめんなさい。あ、あの、この間はすいませんでした。せっかく来て頂いたのに不快な思いをさせてしまって、あの!』 『好きだ』  手が、一層、強く握られる。   『好きだ。ノゾミ』  え。   『ノゾミの頑張ってる姿を見ると、俺も頑張ろうって思えるよ。ノゾミが笑ってくれると、1日ずっと嬉しいよ』 『スーウェンさん?』 『ごめん。この間は本当にごめん。あんなのただの、嫉妬でしかないから、だから』  スーウェンさんの、こんな顔を初めて見た。 『俺を選んでよ、ノゾミ』  いつもどこか飄々としている印象があるのに、今は全然余裕が見えない。顔は真っ赤で、目は真剣だ。  スーウェンさんが、僕を好きだって、言った。  じわり、視界が歪む。 『ヒイロさん、その人は』  強ばった声音にハッと我に返る。エーゲルさんが、スーウェンさんを睨み付けるようにして見ていた。   『えと、常連さんで』 『そうじゃなくて、なんでノゾミさんの手を握ってるのかってことですよ』 『っ』  荒く腕を引っ張られ、思わず声が上がる。スーウェンさんの手が離れた。  僕の両肩にエーゲルさんの手が強く置かれる。 『付き合ってくれるっていいましたよね、ノゾミさん』  赤い目が、しっかりと僕を見据えている。  言った。  言おうと思っていた。  そうするって決めていた。  そっとスーウェンさんの方へ目線をやる。  ようやく落ち着いたらしい、まっすぐ立ってこっちを見ていた。 『ノゾミ』  名前が呼ばれる。 『ノゾミがそいつを選ぶなら、俺はもうここには来ない。ノゾミには会わないよ』  会えない。   『ノゾミさん』  会えないんだ。  もう何ヶ月待っても、スーウェンさんに、会えなくなる。  それは。 『聞いてるんですか』  顎を掴まれ、前を向かされる。痛い。怖い。怒っている。あんなの優しくしてくれたエーゲルさんを怒らせた。当然だ。当然だ。  だって。 『ご、めんなさい』  瞬きすると同時に熱い滴が頬を滑っていった。   『エ、エーゲルさんとは付き合えない、です』 『ノゾミさん』 『ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』  手が、ひとつだけどいた。高く上げられた拳に、固く目をつむり覚悟を決める。 『ふ、ざけんなよ……俺が! どれだけ!』  殴られる。  その衝撃は襲ってこなかった。ゆっくり目を開ける。スーウェンさんがエーゲルさんの手首を後ろから捕らえていた。   『危、なっ』 『スーウェンさん! 離して下さい』 『え』  エリアさんの言う通りだった。  僕は、エーゲルさんに失礼なことをした。しっかり考えられもしないで、安易に答えをだした。  僕は、今、スーウェンさんを選んだんだ。  人を、選んだ。  その事実が、重たく意識を埋めていく。身体が冷たくひえていく。 『エーゲルさんは、僕を殴っていいんです。僕に、何をしてもいいんです』 『はあ?』 『ごめんなさい、本当に、すいませんでした』  頭を下げる。  ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。  小枝と、選ばれなかった僕。僕を選んでくれなかった父さんと母さん。全部、僕が悪い。けど、エーゲルさんは何も悪くないのに。   『ごめんなさい』  

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