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第21話(エーゲル)
21(エーゲル)
きっかけは、母親の買ってきたお菓子だった。エーゲルは顔に似合わず、甘いものが好きだ。
「近くまで行ったから」と、テーブルに置かれたのはクッキーの詰まった袋で、食べてみると非常に美味しかった。
素直にそう言うと、「リゲラさんのよ」と母は言う。
『リゲラ』はよく聞く名前だった。母親の、その母親のときからあるケーキ屋だ。公園のすぐ傍にある。
頷きながら、今度は自分で買いに行こうとこっそり決意していた。
「そうそう、なんだか可愛らしい子が増えていたわね。あんたと同じくらいの」
その言葉に決意はより固くなった。
とはいえ、ケーキ屋にエーゲルのようなタイプが行くには少し勇気がいる。空いている時間を考えて、午前の内に足を運んだ。
「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのは、花のように微笑む少女だった。黒いスカートの上、淡い桃色のエプロンをしている。
確かに可愛いとエーゲルは今更ながら母に同意をした。
棚を物色しながらそう広くはない店内を歩く。かごをとり、惹かれた菓子を入れていく。そこで気がついた。
色とりどりのケーキが並んだガラスケースの傍に、小柄な少年が立っていた。
エーゲルと目が合うと、驚いたように背筋を伸ばし頭を下げる。
「い、いらっしゃいませ」
まだ慣れていないのか、顔は赤く、声も固く、緊張していることが丸わかりだった。顔が上がった。白い手が伸びてくる。
「お預かりします」
スコン。
エーゲルは一目で恋に落ちた。
(可愛い)
ここではあまり見ない黒い髪と黒い瞳をしていた。エーゲルがあまりにも見つめるせいで、眉は八の字になり、困っている様子だ。
「あの」ともう一度声をかけられ、ハッと我に返る。
かごを差し出し、計算をされている間にも、エーゲルは彼のことを見続けた。
お菓子を袋に詰める、その手つきは落ち着いていたが、顔は耳まで真っ赤だ。見られていることに気がついてはいるのだろう。
困っている。
(俺が、困らせている)
「ありがとうございました」と頭を下げられる。
それでも立ち去らないでいるエーゲルに、彼は首を傾げた。
「あの、何か」
黒い目が、怯えている。
何か指摘をされるのではないかと、不安に思っているようだった。
ここで本当にその通り、思い切り罵倒してやったら、どんなに気持ちが良いだろう。そんな妄想がふくらみかける。
ぞくぞくと、背筋を快感が這い上がった。
「名前、は」
実際にエーゲルの口から出てきたのは、その一言だけだった。
彼はあからさまにホッとした様子で、答えた。
「ノゾミです」
「よろしくお願いします」とまた礼をされ、エーゲルは曖昧に頷いた。今度こそ本当に店から出る。
ノゾミ。
その名前はエーゲルの胸の中に深く根を張った。
***
じわじわと距離が詰まっていく。
じわじわと追い詰めていく。
カードの空白が埋まる度に、エーゲルはそんなふうに考えていた。
もう少し、あと少しで、彼が手に入る。
「ずっと、可愛いなって思ってて、その、好き、です」
(好きだよー。好きだなんて言葉で足りないくらい好きだよー)
帰宅後も浮かれた調子のエーゲルに、母は問うた。
「エーゲル、あなた最近、アリーちゃんとはどうなったの?」
ああ、と思い出す。
少し前にエーゲルが付き合っていた彼女だ。華奢で、おっとりしていて、何でも言いなりになってくれた彼女だ。
(さて、どうしているだろうか)
エーゲル自身知らなかった。
とりあえず、「別れた」と言えば、母は「そうなの」と特に興味もなかったように応じた。
ポケットからカードを取り出し、眺める。
ゆっくりゆっくり、1歩ずつ、好青年の仮面でも被って気長に行こう。
(あと、2枠)
***
「エ、エーゲルさんとは付き合えない、です」
呆然とした。
細い肩の上、置いた手が怒りで震える。
(はあ? ちょっと待てよ、なんのために、俺が、俺が、俺が)
それは知らない男だった。背がひょろりと高く、銀の髪も女のように長い。それなのに、こちらを見てくる目は酷く冷えていた。
店を、追い出された。
最後に一発だけでも殴ってみたかった。
自分の掌を見、ため息を吐く。
ふらふら、道を歩く。
途中、ある店の前で見覚えのある顔が集まっていた。
「アリー、かわいそうだよな。エーゲルに殴られたんだって」
「エーゲルなあ、あいつ、変わってるから。普段すげえ腰低いくせにな、女にはえらい強気に出てるらしい」
「女くらいにしか強く出れないんじゃねぇの」
エーゲルの、友人達だ。と言っても、その輪の中にいるとき、エーゲルはほとんど言葉を発さない。
顔を背け、歩く。
歩く。
狭く人のいない路地に入ったところで、爆発した。
大声で何とも言えない声を上げる。
むちゃくちゃに壁を殴った。
(好きだった。本当だ。自分のものにしたかった)
エーゲルは気弱な人間だった。けれど、プライドは高かった。それが傷つけられる度に怒りを覚えていた。そして、その怒りは捻れて固まっていった。
(好きだった。自分のものにして、そして、それから、今度こそ、この手を、拳にして、彼を)
「こんにちは」
突然、目の前に人がいた。
誰も、いなかったはずだ。
エーゲルは、驚き立ち尽くす。
女のようにも男のようにも見える。すらりと細い身体に吸いついているような薄いローブを纏っていた。
声も上げられない。
何かが異様だった。
「少し、話があるんだけど」
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