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第26話

 厚い雲で月も星も見えない。暗い道の隅を1人で歩く。まだかすかに人の気配が残っているとはいえ、知らない世界の暗闇は一層怖い。  ぽつぽつある灯りを頼りに壁に手をつきながら歩く。  今日はいい日だった。  あの後、ミラさんが帰ってきてから、覚えておくべき場所と定期的に配達をお願いされている家を教えてもらうことができた。  全部、覚えのある場所で、これなら大丈夫だと頷いた。  ミラさんは目を細めて言った。 『じゃあ、明日に配達の時、私からノゾミくんのこと言っておくから。次から少しずつお願いするね』  僕には無理だとか言わなかった。  それが嬉しい。  言い出してよかった。少しはお店の役に立てるのかな。そうだったらいいな。ううん、そうなれるように頑張ろう。   「っ」  突然だった。  狭い脇道を通り過ぎた瞬間、その闇の中から手が伸びてきた。  掌で口をふさがれ、声が遮られる。容赦ない力で、足を引きずられながら、奥へと連れ込まれる。  生暖かい息が耳にかかる。見上げるも、ただでさえ暗い中、更に影の濃い場所へ入ってしまい、顔が認識できない。  誰。   『ノ、ゾ、ミ』  覚えのある、声だった。   「ひ、ぅ」  首筋を舐められ、鳥肌が立つ。耳の裏、項、肩、痛みが走る。どうやら噛まれたようだ。『ノゾミ、ノゾミ』と耳の裏から囁かれる。  腕を解こうとするも、うまく身体が動いてくれない。震えて、力が入らない。 『【救世主】? に、なり損なったんだって?』  頭が、真っ白になった。 『可哀想になぁ。城から追い出されて、あんなところで働いてるなんて。本当なら、あがめ奉られてるはずなのに』  また、噛まれた。今度は深い。肉が、噛みちぎられそうだ。痛い。手が、口から離れる。それでも、悲鳴を上げることができなかった。  ただ、呆然としていた。  どうして。  彼は立ち上がり、足で僕を地面に転がした。馬乗りになられ、両手が首にかかる。重い。怖い。痛い。苦しい。 『けど、俺たちだって、いい迷惑だ。お前なんかが落ちてこなければよかったのに』  ぎゅうと空気の通り道がふさがれる。  段々と視界が暗くなっていく。 『小枝はいい子』  僕を除いた家族の笑い声は、見事に彼の笑い声と重なった。無意識の内に、彼の腕を掴んでいた。けど、その力も抜けていく。  ごめんなさい。  ごめんなさい。  ごめんなさい。 『誰かいるのか?』  チカと目に光が入った。男の手が緩む。急激に飛び込んできた空気にムセた。 『……誰か、』 『チッ』  舌打ちとともに立ち上がり、彼は光とは逆の方向へ駆けていく。  上半身を起こし、必死に酸素を取り込む。  ああ、身体は貪欲だなと、少し笑えた。 『ノゾミ?』  振り返る。  光を持つ手の先にいたのは、スーウェンさんだった。  慌てて乱れた服を整える。大丈夫。灯りがあるとはいえ、暗い。汚れに紛れてしまえば、血も、首を絞められた痕もわからないはずだ。   『ノゾミ!』  スーウェンさんは血相を変えて駆け寄ってくれた。膝をつき、灯を置いた手で、僕に触れる。   『大丈夫か? どうした、誰か、今』 『転けてしまって』  土埃を払いながら立ち上がる。努めて笑ってみせた。  足、震えるな。しっかり立てよ。 『猫がいたので、追いかけてたら、躓いてしまって』  スラスラと嘘の言える、自分の口に驚いた。  怪訝そうな表情を変えないスーウェンさんに、道の奥を指す。ついさっき、彼が消えていった方向だ。   『猫、可愛かったんですけど』 『ね、こ』 『はい。けど、僕、嫌われたみたいで』  言ってから、これからも幾度となくこうやって嘘をついていくんだろうかと気づく。悲しくなった。こんなの、うまくいくわけがないのに。  スーウェンさんはため息を吐き、灯りを手に立ち上がった。  誤魔化されてくれたんだろうか。  手が伸びてくる。それが、彼の手とかぶり、けれど逃げるわけにもいかず、目を閉じた。 『ひ、っ』  手は、僕の手首にそっと触れただけだった。 『歩ける? 家まで送るよ』 『え、あ』  軽く引き寄せられるも、僕の足は、まだ歩くことまでは望めそうになかった。力が抜けたままだ。立っていることで精一杯だ。 『どうぞ、先に行って下さい。今日は見回り、とかですか? あの、頑張って下さい。会えて』  会えて。  俯く。  意味のわからない涙がこみあげてきて、地面に落ちた。 『会えて、嬉しかった、です』  偶然でもなんでもいい。ずっと不安で、ずっと会いたかった。  スーウェンさんは無言のまま、灯りを僕に差し出してきた。  持てってことかな、促されるまま、火の入った容器の先を握る。 『馬鹿』 『え』 『お前に会いにきたんだ。このまま帰ってたまるか』  ひょいと膝を掬われ、抱え上げられた。 『え、ええええ、ス、スーウェンさん! 重いし、汚れます!』  僕の訴えを無視し、スーウェンさんは歩き出す。 『ほら、じっとしてて。ああもう、また痩せただろう』 『スーウェンさん! 歩けます! 僕、歩けます! というか、歩きます!』 『うるさい』   ごち。  スーウェンさんの額が、僕の額と重なった。  大きく揺れる火に滑稽な形の影が踊る。  スーウェンさんは、大股で歩く。 『無理だと、思ったら、すぐに降ろして下さいね』 『舐めるなよ。恋人くらい抱えられなくてどうする』  『恋人』だって。  胸に、頬を寄せる。スーウェンさんの心臓が、力強く打っていた。疲れているだろうな。痩せた? なんてこっちの台詞だ。足、よたよたしているよ。   『ごめんなさい』 『謝るのは無事に帰り着いてからにしてくれ。でもって、言うなら「ありがとう」な』 『はは、はい』  1歩、大通りに出た先はほのかに明るく思えた。空を仰げば、薄くなった雲の隙間から月が顔を出していた。   『あれから会うのって初めてですね』 『ああ、そうなるな、ごめん』 『いいえ。けど、少し照れます』 『言うなよ。……俺も照れる』  一度大きく揺すられ、体勢を整えられる。  スーウェンさんは暖かいな。目を閉じる。スーウェンさんは優しいな。  僕なんかを『恋人』にしてくれて、こうして会いにきてくれて。  こんなに嫌な奴なのになあ。嘘ばかりなのになあ。  けど、嫌われたくないなんて、すごいなあ、僕。最低だ。  『彼』が、立ち去る間際、スーウェンさんの灯が顔を少しだけ照らしてくれた。  やっぱり、エーゲルさんだった。

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