28 / 51
第28話
***
『ノゾミくん、配達頼める?』
あやうく、持っていたトレイを落とすところだった。ミラさんは、にこにこ微笑んでいる。落ち着こうと、ひとまず持っていたトレイを菓子棚の側に戻す。
それから改めてミラさんに向き直った。
『い、いいんです、か』
『うん、今、お店空いてるし、お客さん側にもノゾミくんが行くこと伝えているから。お願いできる?』
『っ、』
もちろんです。夢中で頷いた。
新しい仕事だ。気を引き締める。
ミラさんは奥から大きめのカゴを持ってきて渡してくれた。中からいい香りがする。まだ底が暖かい。焼きたてなのだろう。
『地図持ってる?』
わたわたとエプロンのポケットから小さく折りたたんだ地図を取り出す。赤い丸印がいくつかついている部分が、馴染みの配達場所だ。
その内の2箇所をミラさんは指さした。
『ここと、ここね』
『は、はいっ』
しっかりしっかり頭に刻み込む。
『ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。お2人とも優しい人だから。お店に来て頂いたこともあるし、ノゾミくんも覚えがあると思う』
またこくこく頷く。とはいえ、緊張が解けない。エプロンを外し、地図とカゴだけをしっかり持つ。
『行ってきます!』
不必要に大きな声になってしまい赤面しながら、リゲラを出た。
細い道を抜けると、丸い空間に出る。ミラさんが声をかけてくれた公園だ。月のやたらと明るい夜で、あまりにもきれいで、眩しくて、なんだか泣けてしまったことを覚えている。
ああいうのを、「白夜」っていうのかもしれない。
救世主召喚の儀式のための唯一の機会、僕がここに来てしまった日。
『召喚は失敗だった』
左右に首を振り、沈んでしまいそうな思考を無理矢理打ち切る。
もう一度地図を確認し、駆けだした。
***
1人目のお客さんは、何度もお店で会ったことのある人だった。『ミラちゃんから聞いていたわ、これからよろしくね』、そう言ってパンを受け取ってくれた。
それからも、もう1箇所、2人目のお客さんは、白い髪をきれいに後ろにまとめた高齢の女性とその旦那さんだった。足が弱いらしく、こうして定期的に配達を頼んでいるらしい。
包みの中を確認し、にこりと微笑んだ。
『どうもありがとう』
いつも自分が使っている言葉を逆にかけられるなんて、なんだかくすぐったい。『こちらこそ、いつもありがとうございます』、僕も深く腰を折った。
これでカゴの中身は空になった。
よかった。無事に終えられた。
ホッと息を吐く。
『顔をあげてちょうだい』
我に返って、背筋を伸ばす。気を抜くのはまだ早い。
女性は変わらず微笑んでくれていた。
腰も曲がっていない、細められた灰色の瞳がキラキラしている。段差の下側に立っているせいで、彼女を見上げる形になっているけど、細くて小柄な女性だ。
白い、皺だらけの手がゆっくり持ち上がる。
僕の頬に静かに触れた。
今までの誰とも違う、皺の多い、優しいぬくもりを感じた。
『走ってきてくれたのね、ほっぺたが真っ赤よ』
『え、あ』
『パン、まだ暖かいままで嬉しいわ』
余計に顔が熱くなる。どう反応したらいいのかわからず、気の利いた台詞も浮かばず、変なふうにはにかみながら後退る。
女性の手が離れる。
とにもかくにも、どうにかこの場を収めなければと混乱した頭をもう一度深々と下げ、逃げるようにその場を離れた。
――『いい子』
あの女性に触れられた瞬間、不意に母親のことを思い出してしまい、恥ずかしくなった。2人を重ねてしまって、褒められたことが嬉しくて、うっかり泣いてしまいそうになった。
バカだ。
バカだなあ。
冷たい風にさらされ、頬もまた冷えていく。
触れられた頬をそうっと撫でる。
バカだ。
何も考えたくなくて、足を速める。終いには全力疾走で道を駆けた。リゲラに着いた時には、汗だくになっていた。
荒い息が止まらない。こんな状態で中には入れない。扉の側で息を整える。
ふと、ガラス越しに人影が見えた。
お客さんだろうか、慌てて立ち上がり、身なりを正す。もう一度、中を覗いてみた。人影は3つ、エリアさんにミラさん、それにスーウェンさんだった。
『スーウェン、さん』
駆け寄ろうとして、ノブを持つ手が止まる。
薄く開いた扉から声が聞こえてくる。
『スーウェン、またやつれたんじゃないか』
『うちのケーキしか食べてないんでしょお』
『いや、まあ、さすがに、食べてるよ。……少しは、他にも』
たわいもない話だった。3人はよく笑っていた。その笑い声が、どうしようもなく重なる。ずっと、僕が聞いていた、聞いているだけだった、階下からの小枝と、母さんと父さんの、楽しそうな、笑い声、
ぐらり。
目眩がした。
整えようとした呼吸は余計に乱れるばかりで、耳から入ってくる音が以上なまでに大きく響く。ぐわんぐわん、頭を埋め尽くす。
そういえば、ここに呼ばれたのは、僕の誕生日だった。ううん、そういえばなんて軽く考えられてなんかいなかった。僕は、誕生日であることに相変わらずの期待をしていて、それなのに、僕は1人で、1人きりで、寂しくて、怖くて。
そうして願ってしまったんだ。
壁伝いに歩く。リゲラから離れる。
大丈夫だ。
僕はもうあの家にはいなくて、――元よりあの家に僕はいなかったのだけれど。
エリアさんとミラさんが僕を働かせてくれて、――足手まといだ。
スーウェンさんが僕のことを『恋人』って言ってくれて、――嘘ばかりついているくせに。
大丈夫だから。
ほら、こうして、耳をふさいでなくても、自分の足であそこから逃げられる。
ほら、大丈夫だ。
ともだちにシェアしよう!