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第30話
言われた通り、また会えない日が続いた。
あの日以来、遅くに帰るときはエリアさんが送ってくれている。エーゲルさんの姿も見ていない。
仕事もやれることが増えて楽しい。
だから、
『ノゾミくん、平気?』
そんなことを聞かれるなんてちっとも思っていなくて驚いた。
きちんと食べてきちんと寝る生活は続行中だ。体調は悪くない。
それなのに、何故だか、すぐには返事が出てこなかった。当然、大丈夫なはずなのに。
思わず、黙って頷いてしまった。
ミラさんの表情が曇ったのを見て、焦って笑ってみせる。
『大丈夫ですよ』
改めてハッキリ答えた。
今日は正方形の箱を両手に持ち、ドアノブに手をかける。
『配達、行ってきます』
なお何か言いたげなミラさんに頭を下げてリゲラを出る。カゴは胸に抱え、箱は取っ手を持って走った。今日の配達は1件だけだ。
初めて行くお客さんのお宅で、少し緊張する。
早朝でまだ人気のない道を急ぐ。この箱の中身はきっとケーキだろう。そう思うと慎重になる。僕が崩しでもして、大切な日を台無しにしてはいけない。
憧れの丸いケーキ、何のために用意されたんだろう。
誰のために用意されたんだろう。
いい、なあ。
『お、おはようございます』
扉をノックをするとすぐに返事があった。中から現れたのはまだ若い女性だった。
僕を見、くしゃりと笑う。
『助かったわ!』
『あ、はい。えと、どうぞ』
頭を下げながらケーキを渡す。突きだした手は、すぐに軽くなった。
彼女の後ろには、複数の人に動く姿が見える。互いに大声で何か言い合っているが嫌な感じでない。皆笑顔で楽しそうな空気が伝わってくる。
彼女は、『おかーさーん』と後ろに声をかけた。彼女にそっくりな、それでも年齢は上とわかる女性がやってきて、ケーキの入った箱を受け取った。
僕に『ありがとう』と微笑む。
奥に引っ込んだ後で、子ども達の歓声が聞こえてきた。
それに、彼女は目を細めた。
『今日はね、弟の誕生日なの』
『誕生日、』
『そう、皆張り切っちゃってね、人手が足りなくて困っていたの』
今日が誕生日という弟さんだろうか。『お姉ちゃん』と呼ぶ高い声が聞こえてくる。彼女はそれに手を振って応じた。
僕は慌てて、また頭を下げる。
『あ、ありがとうございました』
『こちらこそ、ありがとう。うちはね、誕生日はリゲラのケーキって決めているの。家族みんな大好きなのよ』
彼女はそう微笑んだ。何故だか顔が強ばった。僕だってリゲラを褒められて嬉しいはずなのに。空いたばかりの手で誤魔化すように頬を撫でる。
代金は、配達を頼まれた時に店で頂いているそうだから、お渡しをするだけお終いだ。
『寒い中、ありがとうね』
『いえ……』
顔を上げる。
喉が震えた。
なんとか口角を引き上げる。
『誕生日、おめでとうございます』
彼女はにこりと笑った。僕に手を振りながら扉を閉める。輪の中に加わったのだろう、大きくなった歓声が聞こえてきた。
俯き、走り出す。
――あんな素敵なケーキが自分のために用意されたら、それだけで嬉しい。その上、皆が祝ってくれて喜んでくれて、そんな日があるなんて、泣いてしまうかもしれない。
いいなあ。いいなあ。
弟さんの声はまだ幼かった。そんな子を羨む自分は年甲斐もないなあと思う。情けなくて落ち込む。
僕に。
『陽色、誕生日おめでとう』
そんな日はもう来ないんだろう。
両親からのプレゼントや丸いケーキ、皆笑って笑って。浮かんできたそんな場面に、足が止まる。何度もしてきたただの妄想だ。もう叶わない。
空を仰ぐ。澄んだ青い空、きれいだ。
ミラさんの心配げな声や、さっきの歓声や、スーウェンさんの手の温かさや、色々なものが頭をぐるぐる駆け巡る。
大丈夫かな。
これでいいのかな。
救世主じゃなくても、誰かに、必要としてもらえるのかな。
だって、僕は、母さんや父さんからも好かれてはいなかったのに。
他の誰かからそう思ってもらえるなんてことが起こるんだろうか。
鳥肌が立つ。
寒い。
寒い。
腕を抱きかかえ、左右に擦る。
急にどうしようもなく寒くなった。寒くて怖くなった。怖くて、怖くて、スーウェンさんに、会いたくなった。
会いたい。
もう一度だけでいいから、『好き』と言ってほしい。抱きしめてほしい。蹲る。
今だけでいいから。
『ノゾミ?』
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