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第35話

 鐘の音がする。  鐘の、……ハッと身体を起こす。寝ぼけた頭で、自分の周囲をパタパタ叩く。ふと、指先がぬくもりに触れた。   『何』  掌がスーウェンさんの頬の上に乗っている。それでもなおもパタパタペチペチしていると、くすぐったそうに肩をすくめ、手首を捕られた。  ゆっくりした動作で起き上がり、小さく欠伸をする。  灰色の髪が朝陽に照らされて鋼の線のようだ。キレイだなあ。   『おはよ』  スーウェンさんだ。  今日は、まだ、ここにいれくれた。   『ノゾミ?』  笑みを浮かべた唇が、僕の名前を紡ぐ度、ぞくぞく鳥肌が立つ。掴まれていない方の手でスーウェンさんの頬にまた触れた。  自然と顔が綻ぶ。 『スー、ウェン、さん。おはよう……ございます』  ペチペチ、頬を叩いていたら、そっちの手まで捕られてしまった。   『スーウェン、さん』 『寝ぼけてる?』 『んん?』 『可愛いけど』 『んっ』  両手をぐいと引かれたかと思えば、すぐ至近距離に緑色の瞳があった。何か考えつく前に唇が触れ合う。   『ノゾミ、』  一気に、頭に血が登った。数度、瞬きを繰り返せば、クリアな視界の中でスーウェンさんが微笑んでいた。 『っ、わ、ご』 『あれ、起きちゃった』 『ごめんなさい!』  慌てて身を引くも、両手首をしっかりと掴まれていてはそう動けない。   『う、あ、えと』 『はいはい、落ち着いて』 『えと』 『そんなキスくらいで。昨日は、もっと』  『もっと先のことしたでしょ』、その言葉に、昨夜の記憶が怒濤のように蘇った。僕、スーウェンさんと、自分から誘って、あんな真似して。  う、わあああ。羞恥のあまり逃亡したい。けれど、逃亡させてくれない。どこか楽しげに細められた目がじいとこっちを見ている。手は相変わらず解放されない。  逡巡したあげく、俯くことには成功した。 『す、すいません。あ、あんな、みっともない……あの、さっ誘うようなことして』  しかも、それに乗ってもらって。 『あ、りがとうございました。昨日は、どうか……してました』     今更弁解して、それがあんなことさせてしまったことへの代償になるなんて少しも思っていない。けど、言わずにはいられなかった。  スーウェンさんからの返答はない。  握った掌に汗が滲む。  う。 『なんでそんなこと言うの』 『う』 『なんで泣きそうになってるの』 『う、っ』 『こら』  スーウェンさんの手が両頬に添えられ強引に僕の顔を引き上げる。  ぐと下唇を噛みしめた。  『俺は、嬉しかったよ』 『う』 『ノゾミは?』     僕だって、僕の方が。 『う、嬉しかった、です』 『うん、素直でよろしい』  そう言って、スーウェンさんはまた、ご褒美をくれた。  唇と唇がくっつく。柔らかい。好きだ。好きだなあ。ずっとこのままでいたいなあ。  鐘がまた鳴る。スーウェンさんは顔を上げ、少し眉を寄せた。あ。  気がついて、体を離す。もう時間なんだ。 『ス、スーウェンさん。また、また来て下さいね。お店にでも、待ってます』 『ノゾミ』  『ごめんな』、スーウェンさんのぬくもりが消える。見送ろうと腰を浮かした途端、痛みに襲われ膝をついた。呆然としている僕を見て、スーウェンさんが笑っている。理由に思い当たり、顔が熱くなる。 『いいよ、そのままで。もう少し、ゆっくりしてな』 『は、はい』 『じゃあ、また』 『はい!』  すっかり衣服を整えたスーウェンさんが部屋から出て行く。ついさっきまで2人で寝ていたベッドを見下ろす。シーツに触れると、そこにはまだ体温が残っていた。僕のじゃない体温。スーウェンさんの、体温。  横になり、頬をつける。  あんなに怖かった『また』が、今では確かな約束のように聞こえた。 ***  エリアさんと目が合う。 『お、おはようございます』 『おはよう、ノゾミくん!』  まだ、逸らされない。まだ、まだ、まだ。じいと見てくる。何だ何だと汗がにじみ出る。首を傾げ怖々と口角を上げてみる。  何か、ついてますか。  エリアさんはようやく、ふと表情を崩した。  いつも通りの柔らかい笑みを浮かべ、ぽんぽん、僕の頭を撫でた。それから、1つはだけていたシャツのボタンを上までとめ、背を向け、厨房へと入っていく。  身だしなみ、気をつけろよってことかな。  ――反省。  沈んだことで、今まで自分が浮かれていたことに気がつく。危ない、危ない。自分でもボタンに触れ、他におかしいところはないかとあちこちに手を伸ばす。   『おはよ、ノゾミくん! どうかしたの?』 『え、あ、ミラさん。これ、エリアさんから、あの、』 『ん? そんな1番上までボタン止めてる人いないよ。いくらノゾミくんが細くても苦しそう』 『そ、う?』 『お兄ちゃんから何か言われた? いいよ、とっちゃいなよ』  後ろからぐいと襟を引っ張られる。う、確かにちょっと苦しい、け、ど、エリアさんに同じ事言わせてしまっても、呆れられそうだ。  迷っている内に、ミラさんの手が離れた。 『……今日は、そのままの方がいいかもね』 『え、何』  ミラさんの顔が近づいてきて、耳元で囁かれた。 『キスマーク』  聞き慣れない言葉に、飲み込むまでに時間がかかった。  キ、ス、マ、 「……わっ!!」  両側から首筋を押さえる。じんわり、汗が滲んでくる。ミラさんの顔も同様にほんのり赤い。  なんて言えばいいのかわからない。ミラさんは、エリアさんと同じように僕の頭をぽんぽん撫で、パタパタと厨房に入っていった。   「っ、ぅ、っ、ぅー……」  思わずその場にしゃがみ込む。  意味不明なうなり声を上げ続けて、どうにか自分を落ち着けようと必死だった。  見られた。恥ずかしい。スーウェンさん、いつの間に。  昨日の自分を思い出してしまい、なかなか立ち上がれなかった。  恥ずかしすぎる。

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