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第36話
***
まともにミラさんの顔を見れるようになったのは、陽も落ちかけてからだった。
再び表に現れたミラさんに『相手がだれだとか聞かないから』と言われた時には、また、パニックになって赤面してしまったが。
『また、配達お願いできる?』
『はい』
『じゃあ、これをお願い』
渡されたカゴの底からはまだ熱気を感じた。行く先は、もう何度も配達している老夫婦の店だ。
初めての頃から優しく接してくれている密かにお気に入りのお客さんだ。
エプロンの紐を解き、奥に戻す。
『行ってきます』
少し色の褪せた赤いエプロンの裾を掌で叩く。もうこのエプロンをもらって、1年近くが経つんだなあ、なんてふと思った。
『どうかした?』
振り返れば、エリアさんが甘い香りのする鉄板を持ち立っていた。
『いえ、あの、今更なんですけど、ありがとうございました』
『何が?』
『えと、僕を、雇ってくれて』
自分で言うのもおかしいけれど、相当に怪しかったと思う。言葉も話せない。仕事もできない。国がどことも知れない。それなのに、何も聞かずに世話をしてくれた。
初めてもらったお金で買った辞書を見る機会は大分少なくなった。何度もめくったせいでごわごわに広がってしまっているけど、宝物だ。
エリアさんは首を傾げ微笑んだ後、鉄板を作業台の上に置いた。厚手の手袋をとり、僕の肩に添えた。
『こちらこそ、ありがとう』
『え』
『一生懸命やってくれて、スーウェンの側にいてくれて』
『なっ』
なんでスーウェンさんの名前が。
何をつっこまれたわけでもないけど、また頬が熱を持つ。
『スーウェンは仕事のできる奴だけど、仕事熱心ってわけではなかったから。けど、最近は本当に必死にやっているみたいだ』
『そう、なんですか?』
『そう』
それと僕とが関係あるのだろうか。
怪訝そうな表情を読み取ったのか、スーウェンさんは苦笑したものの、それ以上は何も言わなかった。
『ノゾミくん?』
表からのミラさんの呼ぶ声にハッと我に返る。
『え、あ、配達!』
『うん。いってらっしゃい』
エリアさんはひらひらと手を振って見送ってくれた。厨房から出て、ミラさんからカゴを受け取り、店を出る。
『いってきます!』
『気をつけてね!』
ミラさんも大きく腕を振ってくれた。それに小さく頭を下げ、走った。また、『ありがとう』って言ってもらえるように、『暖かいままで嬉しいわ』って喜んでもらえるように、早く早く。
また一層冷たさをました風が頬を撫でては去っていく。
どうにも、落ち着かない気分だった。
――初めは、『救世主』として呼ばれた世界だけど、僕はその役割を果たせなかった。けど、今こうして他の人の役に立てている。それが嬉しい。
スーウェンさんと出会えた。
ミラさんやエリアさんと出会えた。
それだけでお、僕はここに来れてよかったと、思う。
自然と口角が上がる。
うん、僕は、この世界に来れて、よかった。
突然、目の前に背の高い男が立ちふさがった。覚えのない顔だ。首を傾げ、脇を通ろうとした瞬間、腹部の痛みとともに、カゴが地面に落ちた。
あ。
飛び出したパンが地面を転がる。
エリアさんが作ったのに、ミラさんが託してくれたのに、待っているお客さんがいるのに。
駆け寄ろうとするも、今度は後頭部に衝撃があり、膝をつく。
どうしよう。
せっかく、もらった仕事なのに、お客さん、『ありがとう』って言ってくれたのに。
視界が霞む。黒く周囲が埋められていく。
どうしよう。手が、届かない。
やだな。
そこで、意識が途切れた。
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