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第38話

***  意識を取り戻したときには、喉はカラカラで声も出せない有様になっていた。裸に剥かれた身体は寒いし、あちこち痣だらけで、これじゃあもうスーウェンさんには見せられないなと、ありもしない未来を思った。周囲の男達がテレビを見ているかのように笑い声を上げていて、恥ずかしい。  エーゲルさんが身体を起こすと同時に、中のモノが抜け、身体が勝手にピクリと震えた。手足を真ん中に寄せ丸くなる。  息がうまく吸えない。気持ちが悪い。  ふと暖かいものが触れた。それは、僕の全身を撫でるように動き、痛みを消していく。右腕が、動く。  顔を上げると、術師が僕に手をかざした。掌が淡く光を纏っている。  この人は、何をしているんだろう。  僕はもう、終われるんじゃなかったんだろうか。 「今日のこと、私のこと、私たちのこと、誰にも言うんじゃありませんよ。ほら、傷ならいくらでも治してあげますから」  術師は、笑っていた。きれいな笑みだった。  言われていることの意味がわからず、呆然としている視界の中で、彼は顎に手をあて首を傾げてみせた。 「もし言ったり、そうそう、勝手に死んでしまったり、そういうことをするようなら、ああ、あの子、あなたを雇っているお店に可愛い女の子がいましたね」  雇っているお店、可愛い、女の、子。  思い浮かんだ顔に、血の気が引くのを感じた。 「あなたと同じ目に遭わせてあげましょう」  ミラさん。 「兄の方もきれいな顔をしていましたから、いくらでも相手がいるでしょうね」  エリアさん。 「そんなの、ダ、ダメです。絶対、ダメ、お、お願いします」  みっともない掠れた声にか、僕の言葉にか、術師は顔をしかめた。立ち上がると同時に、肩を蹴りつけられる。  力はそれ程ないようで、これまでのような痛みは感じなかった。必死で手を伸ばし、術師の靴に触れる。 「お願い、します」  額を床に擦りつける。  頭上から、舌打ちが聞こえてきた。手が払われる。 「精々、私たちを楽しませて下さいね。キューセイシュ様」  傷は治ったはずなのに、酷く身体が重く、だるい。何かの術がかけられたのか、意識が段々と遠のいていく。  「また」と、エーゲルさんの声がした。  ***  気がついたのは、見慣れた公園の、ベンチの上だった。  空がもう暗い。星が小さく瞬いている。きれいだ。  起き上がろうとした拍子に、頭にコツと固いものがぶっかった。それは、リゲラから持ち出したカゴで、中にはパンがまだ入っていた。触れてみる。当然それはもう冷たかった。  配達、ちゃんとできなかった。  お婆さん達に、届けられなかった。  カゴを抱きかかえる。顔を寄せるといい香りがした。 『ノゾミくん!』  ミラさんだ。  赤い屋根、リゲラのある方向から、こっちに駆けてくる。その顔が真っ青なことは、月明かりの下でも充分わかる程だった。  ベンチまで辿り着くと、突然、僕の両頬を掴んだ。 『ど、どこに行ってたの? 帰り、遅いから、私、心配で。お兄ちゃんも、今、捜しに出てる』  大きな瞳に、みるみる涙が溜まっていく。終いには溢れて、カゴの上に落ちてきた。  ぽたぽた、パンを濡らす。 『よかっ、たあ。無事で、ノゾミくん』 『ミラ、さん』  声は、掠れたままだった。 『ミラさん、僕、配達できなくて、ごめんなさい』  抱きしめられる。苦しい。ミラさんが首を横に振る度、髪が鼻をくすぐる。  暖かいミルクティーのような髪の色。  優しい色。  優しい人。  そうっと、ミラさんの背に腕を回す。 『ごめんなさい』  絶対に巻き込みたくない。  ***  戻ってきたエリアさんも、僕を怒らなかった。ミラさんと同じように抱きしめてくれた。お客さんに迷惑をかけてしまった僕に、「心配した」と言ってくれた。  ああ、目眩がする。  嬉しくて、もったいなくて。  2人のことが大事で、たまらない。  その日はそのまま、意識を失ってしまった。夢も見なかった。目が覚めると、いい香りがして、そこがリゲラの店内だとわかった。ノックと共に、ミラさんが声をかけてくれて、それから、エリアさんの焼いてくれたパンを一緒に食べた。  それは、これまで以上に幸せな時間のように思えた。  僕にもこんな時間をもらえたことを、本当に初めて、神様に感謝をした。  神様、どうか、神様、僕にこの場所を守らせて下さい。  ***

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