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第39話
何回も、死ぬんじゃないかって思った。
術師の使う『術』は、あまりに正体不明で、あまりに圧倒的で怖かった。身体が動かせない状態のまま、蹴られたし、殴られたし、刃物で傷をつけられたりした。
それから、エーゲルさんが、僕を自分のモノで突いて、何度も突いて、視界が真っ暗になった頃に、術師に起こされる。
術師は僕の傷をキレイに治してくれて、「またね」と笑う。
慣れってすごい。
一番初めは、すぐに立つこともできなかったのに、1週間も経った今では自分の部屋までどうにか歩いて帰ることができる。
もうすぐ陽が昇る。鐘の鳴る時間が近づいている。顔を洗って、身体を拭いて、新しい服に着替えて、髪を後ろに結ぶ。
リゲラに行ける。2人に会える。仕事ができる。お客さんと話せる。そう考えただけで、頬が緩んだ。夜のことがどうでもよく思えた。重たい身体も軽くなった。
『ノゾミくん』
名前を呼ばれるだけで、笑顔を向けられるだけで満たされた。
仕事が終わって帰り着くと、ベッドまで歩くこともできなくて、床にうつぶせて寝た。もしかしたら、今日も術師やエーゲルさんに呼び出されるかもしれない。そんな中でも、貪欲に睡眠を貪る。自分のことながら脳天気だなあなんて可笑しく思った。
コンコン。
どれくらい経ったのだろうか。
ノックに目を覚ます。彼らが来たのだろうか。ぐらぐらする頭を支えながら立ち上がり、ノブを回す。
また、今日も。
『ノゾミ』
平たい手が、ゆっくり頬に触れた。
『ノゾミ』と、口が動く。
『スーウェン、さん』
まだ、寝ているのだろうか。夢なんて久しぶりだ。手を伸ばし、ペタペタとスーウェンさんの顔を撫でる。スーウェンさんは少し腰を屈めて、僕に合わせてくれた。
いい夢だ。こんな夢ならずっと見ていたいな。
『スーウェンさん』
思い切って首に腕を回してみる。『うん』て言って、腰を抱いてくれた。
嬉しいな。
神様からのご褒美かもしれない。これは堪能しておかないと。調子に乗って、スーウェンさんの唇にキスをしようと顔を寄せる。
『ノゾミ』
じわじわ、体温が僕の方へ伝わってくる。暖かい。息が、瞼にかかる。
『ノゾミ』って、耳元で呼ばれる。
唇がくっつく、前に気がついた。
青ざめる。
『っ!』
腕を突っぱね、スーウェンさんから離れる。段々と頭が醒めていく。
スーウェンさんだ。
現実だ。
目が、笑っていない。眉間に皺が刻まれている。『ノゾミ』という声は、夢の中よりも、ずっと冷えていた。
『スーウェン、さん。あ、ごめんなさい』
スーウェンさんは無言のまま、部屋に入りドアを閉めた。黙って、僕を睨み付けてくる。
思わず、後ずさりした。
『ごめんなさい、あの、寝ぼけてました』
笑ってみる。けど、スーウェンさんは笑ってくれない。固い表情のまま、近づいてきて、僕の腕をとった。
『ノゾミ、何があった』
「え」
何が、って、どうしてそんなことを聞くんだろう。
何が、って。
『今日のこと、私のこと、私たちのこと、誰にも言うんじゃありませんよ』
ぐらぐらする。気持ちが悪い。咄嗟に空いている方の手で口をふさいだ。俯く。誰にも、言えるわけがない。元より、言うつもりもない。
気持ちが悪い。
思い出したくないのに、思い出す暇なんてなくしていたのに、頭から溢れてくる。
僕を押さえつける力を、僕のせいだっていう言葉を、身体の奥、掻き回されるあの感覚を。
『う』
ダメだ。
息を吐くと同時に、胃の逆流が始まる。幸いにも、あまり食べられていなかったおかげで、胃液のようなものがこみ上げてくるに終わった。
喉が、ヒリヒリ痛む。
何度も咳き込んでいると、スーウェンさんが背を擦りながら、ベッドに座らせてくれた。水を汲んで持ってきてくれる。
飲めないでいると、それを自分で口に含んだ。
手を剥がされ、顎を掴まれる。あ、と思ったときには遅く、口づけられた。冷えた水が流れ込んでくる。
ごくんと嚥下すれば、痛みがマシになった。
なおも、顔を寄せるスーウェンさんから目を逸らす。
『さ、触らない方がいいです』
『なんで』
『僕、ほら、汚い。手、汚れてるから』
『気にしない』
『あっ』
掌が、スーウェンさんの衣服で拭われる。いくら引いても、ビクともしない。それどころか、抱きしめられて困惑する。
『エリアから、様子がおかしいって聞いた。お前、自分がどんな顔しているかわかっていないだろう。さっき、どんな顔で触れてきたのか知らないだろう』
離れないと。
スーウェンさんが、汚れる。
僕のせいで、スーウェンさんが汚れてしまう。僕は救世主じゃない。小枝でもないんだ。
それなのに。
『スーウェン、さん』
その腕の力強さに、勘違いしてしまいそうだ。
『知らないだろう。俺がどんなにノゾミを想っているか。ノゾミが、どれだけ俺の背中を押してくれているか』
ダメなのに。手はもう勝手にスーウェンさんに縋り付いてしまった。
全部、吐き出しても、受け止めてもらえるんじゃないかなんて思ってしまう。そんな勘違いをしてしまいそうになる。
『俺は、ノゾミのことを多くは知らないけど、何でも言ってくれていいんだよ』
唇を噛みしめる。と、同時に涙がぼたぼた零れてきた。息をする度に、背が大きく揺れる。それを、スーウェンさんが掌で宥めてくれた。
言わない。
絶対に言わない。
どうか、許して下さい。
『ス、スーウェンさん、スーウェンさん、スーウェンさん、っ』
ミラさんとエリアさんとの時間が欲しくて、スーウェンさんからは嫌われたくなくて、そんな僕の勝手を許して下さい。
泣いた。
途中、苦しくなるくらいに泣いた。
涙は、呆れるくらいに途切れなかった。
スーウェンさんは、ずっと傍にいてくれた。ずっと背を擦っていてくれた。
『ノゾミ』
呼びかけに、ハッと目を覚ます。遠くで鐘の音が聞こえてくる。空が薄ら明るい。どうやらいつのまにか寝てしまっていたらしい。スーウェンさんと一緒にシーツにくるまっていた。
緑の瞳がこっちを見ている。寝ていなかったらしい、目の下が少し黒い。
『スーウェンさん、』
ひっくと、嗚咽の名残が喉を振るわす。
『ノゾミ、今日は休むんだ。エリアの方にもそう伝えてるから』
『い、嫌』
『言うこと聞け。皆、ノゾミのことを心配しているんだ』
首を横に振る。
1人の時間が嫌だ。色々思い出してしまうのが嫌だ。エリアさんとミラさんと、もっと一緒にいたい。
『ノゾミ』と強く呼ばれ、目を伏せる。
嫌だ。けど、考えてみれば、それは僕のわがままだ。心配をかけたいわけじゃない。あんな顔をさせたいわけじゃない。
小さく頷いた。
『わかりました。ごめんなさい。今日はここでじっとしています』
『ああ、そうしてくれ』
『いい子いい子』と頭を撫でられる。くすぐったい。嬉しい。けど、スーウェンさんが帰ってしまった後を思うと、どうしても顔が強ばる。
『俺も、今日はずっとここにいるから』
スーウェンさんは、にこりと笑った。
え。
『ずっとノゾミの傍にいる。それから、何があったのかもゆっくり教えてもらう』
問いかけるでもなく、まるで、既に決まった予定のようにそう話す。
表情は穏やかだけれど、目は本気だ。笑ってなどいない。
え。
固まったままでいると、スーウェンさんの方へ引き寄せられた。顔が胸に埋まる。どくどく、少し早い鼓動が聞こえてきた。
え。
スーウェンさんと1日過ごせるなんて、嬉しい。嬉しすぎる。すごい。贅沢だ。嬉しい。嬉しい。
『戻ったら、城の中のごたごたを全て終わらせる。そうしたら』
スーウェンさんの予定発表はまだ続いていた。一気に不安が解消した僕は、黙ってそれに耳を傾ける。
『ノゾミを城へ連れて行く』
え。
『城に連れて行く』
背中に回された腕が、痛いくらいに強く僕を抱く。
心臓の音がどくどく、大きく響いてくる。
『一緒に来てほしい。一緒にいたい』
頭、もう真っ白だ。
スーウェンさんが、ものすごく嬉しいことを言ってくれている。嬉しすぎて、反応に困る。むしろ、混乱する。
『頷いて、ノゾミ』
スーウェンさんの手が、小さく震えている。
スーウェンさんが、僕の答えを待っている。
そんなの、決まっているのに。
『嬉しい。スーウェンさん』
どうするつもりだろう。城には王様がいる。応じて、バレて、ああ、術師の人たちとのこともあるのに。それなのに、今はもうただただ、スーウェンさんがそう言ってくれたことが、本当にそう思ってくれているらしい様子がたまらなく嬉しい。
『僕、行きたい。もっと、一緒にいたい』
スーウェンさんの胸が、大きく上下する。『よかったあ』と、呟く声が聞こえた。
ああもう。
好きだなあ、スーウェンさんのことが、愛しくて愛しくて、どうにかなりそうだ。
恐る恐る、顔を上げる。
スーウェンさんの顔がある。その頬が、少し赤い。指で首筋をなぞり、そうっと頬に触れる。スーウェンさん、体温高いな。僕より、ずっと高く感じる。
キスすることは憚られて、でももっと近づきたくて、自分の頬をスーウェンさんの頬を擦り合わせた。
好き。スーウェンさん。スーウェンさん。
『っ、ノゾミ』
手が捕らわれ、押し倒される。
『ん』
深く口内に舌が潜り込んできた。じゅっ、じゅっ、って、唾液の絡まる音に頬が熱くなる。息が詰まる。苦しい。でも、もっと欲しい。
スーウェンさんの掌が、僕の身体を忙しなくなで回す。
一瞬、エーゲルさんのことが頭をよぎり、身体が強ばった。それに気づいてくれたらしいスーウェンさんが、「大丈夫か」と声をかけてくれる。
密着した太腿に、スーウェンさんの固いモノが当たっている。
欲しい。もっと、スーウェンさん。ごめんなさい。欲しい。
『ほし、い』
出てしまった言葉に、慌てて口を押さえる。
『っ、わ、ご、ごめんなさ、っ、ん』
強く、鎖骨のあたりを吸われ、声が上がる。見れば、そこは赤く鬱血していた。スーウェンさんはもう一度そこに、今度は触れるだけのキスをくれた。
『俺も、欲しい』
熱い。息がかかる。
よかった。スーウェンさんも、僕にそう言ってくれるんだ。
『ノゾ』
『スーウェン様!』
勢いよく扉が開いた。覚えがある。前にリゲラにスーウェンさんを迎えにきたことのある部下の人だ。
僕たちの姿を見、顔を真っ赤にした後、何故だか青ざめて、それからシャキと背筋を伸ばした。
『――なんだ』
聞いたことのない、低い低い声でスーウェンさんが応じた。
部下の人は深々と腰を折る。
『奴らの巣が見つかりました! すぐに準備を』
スーウェンさんの眉間に皺が寄った。うんうん唸った後、長い溜息を吐く。僕の頬にチュと唇を触れさせ起き上がった。
苛立ちを隠そうともしない。乱れた衣服を整えながら舌打ちをしている。
『ノゾミ』
それでも、僕の名前を呼ぶ声は穏やかだった。
『今日で、全てを片付ける。そうしたら、ノゾミを連れて行く』
『はい』
『そうしたら、』
ベッドを降りたスーウェンさんが腰を屈めた。耳元で囁く。
『また、続きを』
カッと、一気に身体が燃え上がった。
『絶対に』
そう念押しされて、更にはもう一度、僕を抱きしめてから、スーウェンさんは出て行ってしまった。
外から、部下の人の小さな小さな「すいません、本当にすいません」という声が繰り返し聞こえていた。
シーツの間に潜り込む。
スーウェンさんの残ったぬくもりにしがみつく。
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