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第42話
一緒の家で暮らしていた。けれど、話をした回数は数えるくらいしかない。それも、まだ小さい頃のことだ。小枝は今みたいに、頬を赤く染め、少しはにかみなはら、僕を「お兄ちゃん」と呼んでくれていた。
「soiude」
スーウェンさんが、僕の方に振り返ったのがわかる。けど、目が、小枝から動かせない。跳ねるような足取りでこちらに近づいてくる。小枝は、ベッドに乗り上げ、僕に跨がると、両腕を広げ、抱きついてきた。
声が出ない。
手先から足先から段々と冷えていく。
「お兄ちゃん、あのね、お兄ちゃんは今、術のかけられすぎで、神経が麻痺しちゃってるんだって。動けないんでしょう」
どうして小枝が。どうして小枝がここにいるんだ。この部屋に、この世界に、どうして来ているんだ。今、王様は言った。あの男の人のことを、リントスの王だと紹介した。小枝は、その人の影から出てきた。
「僕が治してあげる」
小枝が言ったのはそれだけの言葉だった。かすかに空気が動くのを感じた。小枝は僕の腰に座ったまま、上体だけ離した。
「どう、お兄ちゃん」
恐る恐る指を曲げる。拳をつくる。そして開く。
動く。
掌を寝台につき、腹筋に力を入れる。つい先ほどまでできなかったのに、難なく起き上がることができた。
小枝との距離が近くなる。鎖骨のあたりまで髪が伸びていた。より細くなったように思える。
父さん母さんの大事な子ども、大事な宝物。
その目が、今自分に向けられている。一気に、汗が噴き出した。
「彼は、リントスで召喚された『救世主』だ」
救世主。
王様の声が遠くに聞こえてくる。
「今回の調印に反対を示して聞かない。あ、あっと」
王様は一瞬口ごもった後、「君」と口に出した。僕の名前を知らないようだ。当然か。
「君と話をしたいと言っている。どうにか説得をしてほしい」
頼み、の内容はそれだったのか。
小枝はただにこにこと笑っている。かと思えば、急に表情を消し、扉の方を向いた。
「お兄ちゃんと2人で話したい」
「……サカンは置いていく」
「わかった。それでいいよ」
初めて聞いたリントスの王様の声は低く重々しかった。スーウェンさんも呼ばれたらしい。王様達とともに部屋を出て行った。
引き留めたかった。
けれど、言葉がわからない。それに、小枝がいる。
唯一、残ったのは長い黒髪を後ろで1つに束ねた細身の男の人だった。「サカン」さんなのだろう。
小枝の目が、また戻ってくる。今度は無表情に、ただ見つめてくる。
父さんと母さんの宝物で。
リントスの救世主。
こんなに至近距離にいる。
何かしでかしてしまわないか、不快にさせてしまわないか、不安と緊張で指が震え出す。
「お兄ちゃんは、僕が怖いの?」
「え」
その問いの正解がわからない。
小枝の求める回答をしたいのに、頭がうまく働かない。けど、何か答えないと。焦るだけで声が出ない。ただ、みっともなく口を開閉させるに終わった。
「もういいよ」
溜息を吐かれ、血の気が引く。
「ご、ごめん、なさ」
「もういいってば!」
怒鳴られ、身が竦む。
「――ねえ、僕に調印、賛成してほしい?」
答えないと、答えないと、今度はちゃんとしないと。
夢中になって頷いた。
何もできなかった僕への、王様からの『頼み』だ。叶えたいと思う。けど、僕が、小枝に対して、そんな口利きができるとは思えない。
だから、ただ頷く。
「してもいいよ」
意外にもあっさり、小枝は言った。また口元が笑みをつくっている。そのことにほっとする。
「ただ条件がある」、そう繋げた。
「お兄ちゃんはあっちの世界に帰って」
満面の笑みで言われたその言葉を理解するまでに数秒を要した。
理解して、出てきたのは「え」という間抜けなものだった。
舌打ちをされ、我に返る。小枝から求められる答えが、今回ははっきりしている。慌てて頷いた。
「か、帰る、よ」
言ってしまってから、今度は自分自身に「え」と返した。
え、僕、あっちに帰るの?
けど、一度してしまった発言は撤回できなかった。小枝がそれはもうきれいに笑ってくれていたからだ。
「よかった」
小枝は僕の上から腰を上げると、隅に立つサカンさんには構わず、扉の方へ歩いて行く。
「お兄ちゃんが帰ったら、僕は調印に賛成するよ。降伏でも和平でもなんでも勝手にすればいい」
振り返らなかった。
扉を開け放したまま廊下に出ていってしまう。
サカンさんの顔は真っ青だった。僕を見、一礼した後、小枝の後を追っていった。扉が閉まる。
全身の力が抜けた。前屈みに身体を折る。
汗で、髪が服が、貼り付いて気持ちが悪い。心臓が痛い。バクバクうるさい。
帰る。
あっちの世界に帰る。
そんなことが可能なんだろうか。
小枝は救世主で、リントスはラドヴィンに勝利して、小枝は力を確かに持っていて、僕は失敗ばかりで、スーウェンさん達をずっと騙していて、嫌われてしまって。
ぐるぐる、頭の中で起きてからのことが回っている。
帰るんだ。
それが、唯一、最後に自分ができることのように思えてきた。
涙が落ちる。
戻ったら、向こうに戻ったら、今度こそ僕は、逃げない。
溺れよう。
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