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第50話

 ――その夜、僕と小枝は、初めて話をした。  これまでのこと、これからのこと。1つの寝台に2人で横になって、言葉を交わした。こんなにも近くに『小枝』がいることの実感がまだわかない。  小枝は、僕にしがみついたまま、何度も「ごめんなさい」と繰り返した。激しい嗚咽が続いた。ちゃんと息を吸えているのか心配になる。  背中を撫でる度に、はっきりと背骨に触れ痛々しく思った。  唾を飲み込み、細い身体を僕の方から抱き寄せる。小枝は一瞬身体を強ばらせるも、すぐに一層、僕に濡れた頬を寄せてくれた。  暖かい。  ちゃんと暖かい。 「お、兄ちゃん」    躊躇いがちに呼ぶ声に、何度も頷いて応じる。  小さく、小枝は笑った。 「よかった、お兄ちゃんに、き、嫌われていないで、よかった」  「ずっと、話がしたかった」、「ずっと怖かった」、目を真っ赤にしながら、それでもなお、泣き続ける小枝の手を握り、宥める。  小枝から聞く両親の話は、どれもにわかには信じがたい程、酷い内容だった。シャツの隙間から除く痩せた胸板には、その痕もまだ残っていた。 「小枝」  両親の宝物のとしての『小枝』しか、僕はずっと見てこなかった。 「ごめん、小枝」  自分で自分が、酷く情けない。  溢れそうになる涙を堪える。泣く資格なんて僕にはない。僕だって加害者だ。 「ごめん」  小枝は腕の中で首を傾げただけだった。  ***  柔らかい薄い茶色の髪を撫でる。ピクリとも動かない。規則正しい寝息が聞こえてくる。睫はまだ涙で濡れていた。明日の朝には氷を用意してもらっておかないと、腫れてしまって目蓋が開かないんじゃないだろうか。  寝入ってしまった小枝を残し、寝台を降りる。窓から城下を覗く。暗い夜だ。静かな夜だ。相変わらず、何も見えない。  部屋をうろうろ歩き回る。  そうだ、水。  起きたら小枝も飲むだろうか、あれだけ泣いた後だ。きっと喉も渇いているだろう。丸く身体を抱え込むようにして寝ている小枝の身体に、そっとシーツを掛けその場を離れた。  ゆっくりドアに近づく。  もう皆眠っているだろうな。静かにしていないと。  ノブを捻り、押す。  その瞬間、目を見開いた。 「スーウェンさん?」  長身が、壁を背もたれにして座っていた。長い鞘に収まった剣を抱え込んでいる。細身の彼には不似合いにも思えた。  傍にしゃがみ、顔を覗き込む。  寝不足が祟ったのだろう。深く目蓋を閉じたまま、起きる気配もない。 「言葉、大変でしたよね」  触れたい衝動を堪える。どうして、こんな場所で寝ているのだろう。小枝の護衛だろうか。  どうしよう。顔を見たら、また涙腺が緩んできた。  触れたい。声が聞きたい。けど、起こすわけにはいかない。   「ありがとう、ございました」  頭がぐらぐら酔いしれる程、嬉しくて、嬉しくて。  厚そうな靴先に、ほんの少しだけ指を触れさせる。これくらいなら、邪魔にならないはずだ。  好きだと言ってくれた。戻るなって言ってくれた。怒ってないって、嫌ってないって言ってくれた。   「僕は、この国の役になんて少しもたてないのに、何も守れないのに、」  守れない。  守ろうともしてこなかった。  小枝のことも。  ぽたと、滴が廊下に落ち、ハッと我に返る。慌てて、目を擦るも、なかなか収まってくれない。  収まれ、収まれ。   「ノゾミ」  手首が掴まれていた。瞬きをする。ぼやけた視界の中で、スーウェンさんと目が合った。  しまった。 「あ、ご、ごめんなさい。起こしましたね」 「いや、ドアが開いたところから起きてたから、気にしないでよ。――でもってさ」  手を引っ張られる。バランスを崩し、スーウェンさんの方へ倒れ込んでしまった。  剣が倒れる。幸いにも、廊下には薄い絨毯が敷かれていて、音が大きく響くことはなかった。 「もっと触ってくれていいのに」  耳の裏から囁くように言われ、頬が熱くなる。   「お、起こしちゃ、悪いと」 「別にいいよ。これくらいの睡魔、いつものことだし」 「それは、どうかと」 「はは」  弾けるような息がかかる。笑ってくれている。前と同じみたいだ。恐る恐る体重を預けてみる。スーウェンは、僕が小枝にしたように、隙間がなくなってしまうくらい、強く抱いてくれた。 「どうしたの?」 「え」 「泣いてたでしょう。何かあったの?」  首を横に振りかけて、思い切り見られていたことを思い出す。僕が泣いていたから、きっと、起きてくれたんだ。  スーウェンさん。 「聞いて、くれますか?」 「ノゾミが話してくれるのなら、なんでも聞くよ」  本当に、言ってしまっていいのだろうか。  幻滅されないだろうか。 「スーウェンさん」  けど、聞いてもらいたい。  「スーウェンさん、僕は、両親から好かれていなかったんです」  もっと言えば、きっと嫌われていた。もしかしたら、そんな関心すら僕にはなかったのかもしれない。そう思っていた。 「りょ、両親が欲しいのは、小枝だけで、僕はいらないんだと、思って」  自分でそう口に出すだけで、堪えようもなく喉が震える。 「け、ど、それは間違いで、小枝も、両親から、ひ、酷い扱いを受けていたみたいで。それなのに、僕は知らなくて」  スーウェンさんが、「うん」と小さく相づちを打ってくれた。  それに、思わず、ひっくと、甲高いひゃっくりが漏れた。止められない。 「弟なのに。っ、お兄ちゃんって呼んでくれたのに、ま、守れなくて」  ずっと、目を閉じて、耳をふさいで、小枝のことを『弟』として見てこなかった。  控えめに叩かれたノックに、気づかないふりをした。 「さ、最低だ、って」  毎年の誕生日だって、祝ったことがない。小枝はずっと、両親と過ごしていたはずだ。僕はそれをただうらやましく思っていただけで、妬んでいただけだった。  けれど、実際は、僕の想像していたような場面の中に小枝はいなかった。小枝は恐怖の対象と向かい合ってひたすらに耐えていただけだったんだ。  守れなかった。  小枝のことも、この国のことも、何もできなかった。 「ごめんなさい。っく、スーウェンさん、小枝にも、な、何も、で、できなく、て。ご、ごめ」 「ノゾミ」  ぽんぽんと、背を叩かれる。 「好きだよ」 「ぅ、っく、え、」 「ノゾミはいつだって、一生懸命、自分でできることを頑張ってきただろう」  大きな掌から、その熱い体温がじんわり僕の方へ伝わってくる。みっともない、しゃっくりは止まらない。何度も、肩が跳ね上がる。 「全部が全部、これからだ。これからまた、頑張ろう。今度は一緒に」  スーウェンさんの、覚えてくれた僕の世界の言葉、変わらないまま優しいままの言葉、ちゃんと聞こえる。  僕は、怖がってばかりで、また、全部を聞き逃してしまうところだったんだ。  『スーウェンさん』  僕も、大好きだ。

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