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パーフェクト・ワールド・ハルⅢ-10

「行人」  自分を下の名前で呼ぶのは、この人だけだ。だから、と言うわけでもないとは思うのだけれど、ほっとする。それだけで許されると誤認してしまうような柔らかい声。 「気にしなくて良いよ。放っといても別に問題ないんだけどな。どうせなら早くにしこりも失くした方が良いだろ? だから、それだけ」  それだけ。自分を悩ませていた懸案も成瀬にかかれば、あっという間に終わらせてしまえることなのだろう、きっと。  一人取り残された形になった行人に、茅野がおもむろに口を開いた。 「まぁ、気にするな。あいつらは多少揉めることはあっても、盛大に仲違いすることはない」  それは成瀬さんが譲るからじゃないのだろうか、と想像して生じた不満が顔に表れていたのか、茅野が眉を上げた。 「あいつのいかにも誠実でございと言った顔に騙されるんだろうが、成瀬と向原だったら、頑固なのもわがままなのも成瀬の方だぞ。基本的に向原の方が気も長いしな」 「気が長い……」 「信じてないな、その顔は。不機嫌そうなナリをしているだけで、滅多と切れんぞ、あいつは。まぁ、地雷を踏まん限りは、だが」  と言っても、誰にでも地雷はあるからな、と続けてから、茅野がそこで表情を和らげた。 「無理を言って悪かったな」 「いえ、あの、俺こそわがままばかりで」 「まぁ、物好きがいたんだ。素直に良かったと思えば良いじゃないか。嫌だったんだろう」 「いや、まぁ、……そう、ですけど」 「どうした。すっきりしない顔をして。もし悪いと思うなら、二年後、困ってる新入生がいたら親身になってやれば良いだろう。まぁ、そのころおまえがどんなナリになっているかは分からんから、なんとも言えんが」  何を想像したのか愉しそうに肩を揺らした茅野が、立ち上がるなり背後に回り込んできて背を押した。 「引き留めて悪かったな。早く戻れよ、寮室。いや、正に棚から牡丹餅だな。面白いことになりそうだ」 「お、面白いことって」 「やるからには徹底的にやると言っただろう。となれば、今から楓寮に行って断ってくるか。まだ時間は……大丈夫だな」  行人とともに階段へと向かっていた脚を玄関へと方向転換させてから、茅野が最後にとばかりに笑った。 「まぁ、しばらくは向原に気を付けろよ。おまえに理不尽なことをするとは思わんが、機嫌は悪いと思うぞ」  いや、べつに。それは本当にどうでも良いのだけれど。問題はそこではない。そうではなくて。まだ困惑の淵にいる行人の背を叩いて、茅野が足早に外に向かって行った。相変わらず、猪のような勢いだ。その背が視界から消えた途端、ひどく力が抜けた。疲れたのかもしれない。もうこのままとりあえず、部屋に戻ろう。  結局、鍵を探すと言う第一目的を忘れたことに気が付いたのは、部屋の前まで戻って来てからだった。

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