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閑話「プロローグ」㉘
自室の扉を開けると、机に向かっていた成瀬が、手を止めて振り返った。
「おかえり」
人当たりよくほほえむ顔に浅く頷き返して、隣の自分の椅子を引く。あの夜以来、この男はずっとこの調子だ。自分に喧嘩をする気はないと主張するかのごとく、表面上だけは気味が悪いほど愛想がいい。
その道化を続けていれば、そのうちこちらが折れると知っているのだ。
「長かったな。そんな絞られてたの?」
「べつに」
「余計な喧嘩するからだろ、やめとけばいいのに」
「……」
「本尾も、もうちょっと素直になればいいのにな。そうしたら」
「なぁ」
遮ったのは、ほぼ無意識だった。ほんの少し驚いたようにその瞳が揺れる。けれど、一瞬だった。
「なに?」
取り繕い切った笑顔を前に、舌打ちを呑み込む。この二年で剥がれたはずの仮面を、きれいに付け直したそれ。
そこに罪悪感のひとつでも浮かんでいれば、自分は満足したのだろうか。あるいは、媚や、恐れでも。
――そうなったら、もう、こいつじゃない、か。
「なんでもない」
呼びかけておいて投げやりに閉じた向原に、成瀬はしかたないという苦笑で応えた。
「なら、いいけど」
その台詞を最後に、視線が手元へと戻って行く。だから、深入りを避けたのは、お互い様だ。
静かな横顔から視線を外して、小さく溜息を吐く。
――おまえが俺になにかするわけないだろ。
わかっていた、ことだった。
なにかするわけがない、ということが、答えで、すべてだった。心底、腹の立つことに。
恋だの愛だのという一時の感情を、向原はずっとくだらないと思っていた。そんなものに嵌る人間も、ましてや、その感情に付け入られるなんてことは。
本当にくだらない。そんなものを知らなければ、どうとでもできたはずなのに。
なにも選べないでいることが、ただただ馬鹿馬鹿しかった。
三年前の話だ。
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