758 / 1072

閑話「プロローグ」㉘

 自室の扉を開けると、机に向かっていた成瀬が、手を止めて振り返った。 「おかえり」  人当たりよくほほえむ顔に浅く頷き返して、隣の自分の椅子を引く。あの夜以来、この男はずっとこの調子だ。自分に喧嘩をする気はないと主張するかのごとく、表面上だけは気味が悪いほど愛想がいい。  その道化を続けていれば、そのうちこちらが折れると知っているのだ。 「長かったな。そんな絞られてたの?」 「べつに」 「余計な喧嘩するからだろ、やめとけばいいのに」 「……」 「本尾も、もうちょっと素直になればいいのにな。そうしたら」 「なぁ」  遮ったのは、ほぼ無意識だった。ほんの少し驚いたようにその瞳が揺れる。けれど、一瞬だった。 「なに?」  取り繕い切った笑顔を前に、舌打ちを呑み込む。この二年で剥がれたはずの仮面を、きれいに付け直したそれ。  そこに罪悪感のひとつでも浮かんでいれば、自分は満足したのだろうか。あるいは、媚や、恐れでも。  ――そうなったら、もう、こいつじゃない、か。 「なんでもない」  呼びかけておいて投げやりに閉じた向原に、成瀬はしかたないという苦笑で応えた。 「なら、いいけど」  その台詞を最後に、視線が手元へと戻って行く。だから、深入りを避けたのは、お互い様だ。  静かな横顔から視線を外して、小さく溜息を吐く。  ――おまえが俺になにかするわけないだろ。  わかっていた、ことだった。  なにかするわけがない、ということが、答えで、すべてだった。心底、腹の立つことに。  恋だの愛だのという一時の感情を、向原はずっとくだらないと思っていた。そんなものに嵌る人間も、ましてや、その感情に付け入られるなんてことは。  本当にくだらない。そんなものを知らなければ、どうとでもできたはずなのに。  なにも選べないでいることが、ただただ馬鹿馬鹿しかった。  三年前の話だ。

ともだちにシェアしよう!