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はるかわくんの やみ -8-

・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…  春 川 《 Last Year 》「逃亡 2」 《 DATE 5月7日 午後3時47分》 ・‥…━…‥・‥…━…‥・‥…  コンビニで歯磨き粉と夕ご飯と雑誌を買って家に戻る。  道すがら、大窪とラインでやりとりする。  授業が退屈なのらしい。  大窪は、さんざん俺のことを気遣ってくれてるくせに、まだ心配したりないらしい。あいつの性格からすると、大学の新しい友人だってもうたくさんいるはずなのに、俺なんかにもラインを送ってくる。  うっとうしいわけじゃなく、むしろうれしいんだけど、気を使わせてるんじゃないかとか、俺は余計なことばかり考えてしまう。  3月、大窪に助けられた俺は、しばらく大窪の部屋にかくまってもらい、それから大窪から再び紹介してもらったアパートに入居したのだった。  今度の部屋はシンプルな1Kでロフトは無かったが、涙が出るほどありがたかった。  大窪は俺に、なるべく人に会わず「潜伏」し続けたほうがいいと、俺に「引きこもり生活」を勧めた。  大学生活も暇じゃないはずなのに、こんな俺のために週1回は俺のところに遊びに来てくれて、日用品や漫画本とかを差し入れしてくれる。  一緒に鍋をしたり、カレーを作ったり。  そのたびに、俺はどれだけ救われてきたことか。  アヤネさんを傷つけたうえ自分勝手な行動で大窪を振り回し、自己嫌悪に陥っていた俺にとって、大窪の気遣いは本当にうれしいものだった。  でも一方で、いまだに大窪から庇護されないとやっていけない自分自身の情けなさを思うと、胸が苦しくなる。  俺が早く「大窪離れ」出来ればいいんだけど。  じゃないと俺は、このままズルズルと大窪に甘えて続けてしまうだろう。  でも、今の俺が、唯一頼りに出来るのも、大窪なのだ。  そんなジレンマを考えながら歩いていると、画面に雨があたった。降るかな。スマホを無造作にコンビニの袋に入れ、小走りでアパートに向かう。  アパートの階段をひとつ飛ばしで2階へと上がりながら、ジャケットのポケットを探ると、そこにあるはずの部屋の鍵が無い。  結果的にはズボンのポケットだったわけだが、俺は斜め掛けの小さなショルダーバッグを前にズラして探し始めた。そこには俺にとっての全財産を入れている。  でもそんなに大きくないから、鍵が無いことくらいすぐにわかったはずなのに、俺はぼうっと下を向いたまま、ただ手で中のものをかき回しながら前に進んでいた。  …油断していたのだ、完全に。  自分の部屋の前あたりに着いたと思ったら、そこでやっとひとが立っていることに気づいて、ぶつかりそうになる。 「あ、スミマ…」  なにげに顔を上げて、それが誰かを頭が確認する前に、心臓が一度、大きく跳ねた。  あのひとが、目の前で笑みを浮かべて立っている。  黒っぽい上下のスーツ。青色のシャツ。お気に入りの、光沢のあるダークブラウンのネクタイ。  大窪が用意してくれた俺の「新居」に、あのひとはたった2ヶ月足らずで踏み込んできた。  うそだ。  なんで。  パニックを起こすと俺はすぐに固まってしまう。固まる前の左足が、とっさに一歩下がった。 ― そうだ。動けるうちに、逃げないと…  そのとき突然左側のこめかみあたりに何かが激しくあたり、俺はよろけてバランスを崩した。  途端に今度は頭の右側を何かにぶつける。廊下の固いスチールの柵で打ったのだとわかる。  あのひとに平出でぶたれたのだ。  なるほどそうか。  もう学校にも行ってないから、見えるところをぶたれてアザが出来ても、いいんだった。  極限状態で思わず柵をにぎると、アパートのすぐ隣の家の、青々とした芝生の庭が階下に見えた。  まるで、檻だ。  ついさっきまで何でもなかった、柵の向こうの日常の光景が、やたらと輝いて見えた。 「顔は止(や)めろと言ってるじゃないですか。僕のお気に入りなんだから。」  聞き覚えのある声が背後から聞こえたので、柵を握ったまま頭を動かす。 …イズミさん。  今日はいつもの白衣を着ている。 「悪かったな。俺がこいつにいくら費やしたのかと思ったら、つい頭に血が上った。」 「先輩に業者を紹介したのは僕ですよ?先輩が自力で探しきれないもんだから。このコは悪くない。」 「今開発してるアレがもっと早く実用化出来てれば携帯で追えたんだ。今は俺んとこも無駄金叩けないんだよ。」 「ひ…」  イズミさんが背後から俺の体を抱えて、俺は無理やり立たされる。  抱え起こされながら、イズミさんは小声で言った。 「1年以上も僕のクスリが無くて、寂しくなかったかい?」 安心して。そのきれいな顔は、僕が守ってあげる。  首筋に大嫌いなイズミさんの吐息がかかる。黒い革製の手袋が、後ろから一瞬俺の顔をなでた。  雨は本降りになっている。  部屋を出て行くときは、あんなに晴れていたのに。  柵の向こうの芝生が、ただただ、青い… 「さっさと鍵を開けろ。とりあえず必要な荷物だけ持って行くぞ。イズミもわざわざ仕事を抜けて来てるんだ。」  あのひとは俺の部屋のドアのすぐ前に立ち、威圧的に言い放つ。 「気にしなくていいよ。君に早く会いたかっただけなんだ。」  すぐ後ろのイズミさんから言われる。 「顔はぶたないでくださいよ。腫れでもしたら…」 「イズミ。こいつはお前のじゃない。口出しするな。」  この状況は、最悪だ。 「お前、相変わらずチビだな。また少し痩せたんじゃないか?」  部屋でちょっと見てやろう。  下品な笑い声を含ませて、あのひとがそう口にした瞬間、体中の血液が泡立った。 (…いやだ!) ―― もう、誰にも触られたくない…!  次の瞬間、肩や、手のひらに、腿や、足の裏に、信じられないくらいの力がみなぎった。  それに呼応するように、全身の筋肉が俺の体を柵の上に持ち上げていた。 「げ、まじか」  思い切り柵を蹴り飛ばして、自分の体を宙に突き出す。  頭の中は真っ白で、視界はただ、目の前の緑の芝生だけを捉えていた。  俺は、放物線を描きながらゆっくりと落ちた。  芝生の上に足が着いた途端に、スニーカーが滑って体が上向きに倒れ込む。勢いで、体は芝生の上を滑るように少し進んでから止まった。  幸いにも雨で芝生が濡れていたため、俺の体は地面からの衝撃を直接受けずに済んだようだった。  それでも、足と腰と肩と左ひじ、それに後ろ頭にかなりの衝撃を受けた。  が、痛みよりまず首をねじって自分の軌道をさかのぼり、「上」の状態を確認する。 「なにやってるんだイズミ!」  あのひとがそう言い放って階段に向かって走り出すところだった。 「え、僕ですか?」  イズミさんがその背中に向かって不満げな声を出した。あのひとはもう見えない。  自分がやったこと、やってしまったことに、いまさらながら体が震えてくる。心臓が強く動く。  イズミさんは俺を見た。 「…なにやってるの、逃げないの?」  俺がまだぼうっとうずくまっていると、イズミさんは屈んで何かを拾い上げ、こっちに向かって投げた。  芝生の上に落ちてから、さっき自分が買ったコンビニの袋だとわかる。  中にスマホが入っているんだった。またイズミさんを見上げる。 「捕まるよ。君。」  見たくないんだよ、もう。その顔を、傷つけられるところは。  言ってることの意味はよくわからなかったが、そのときのイズミさんは俺を逃がそうとしているように見えた。 …いや、罠かもしれない、とも考える。でも、 ―― 考えてるヒマは、ない!  両手をついて体を起こすと左足に激痛が走った。が、なんとか立てる。 逃げるんだ!  イズミさんが叫んだ。その声に弾かれるように、俺は芝生の上のコンビニ袋をつかみとり、後ろを振り向いて駆け出した。  その家には誰もいないのか、カーテンがひかれているのが目の端に映る。  家の壁と隣の家との間にある狭い通路を、すり抜けるようにして駆け抜ける。途中、子供用の三輪車にぶつかりそうになってよろけた。足が痛い。  家の玄関先にたどり着いて、閉まったままの小さな門をまたいで越える。足にうまく力が入らずまたころぶ。  無様だ。  それでも、俺は必死だった。  アパートは住宅が立ち並ぶ小さな団地の一角にあり、各家々の隙間には網の目のように細い路地が張り巡らされていた。  雨のせいもあり、昼下がりの住宅街にひと気はない。  俺は真っ直ぐに道を横断し、すぐ手前の路地に入る。  少し走って、すぐに左折する。何番目かの角を、次は、右折。  そして、とにかく、走った。  左折。真っ直ぐ。右折。左折。  自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかもわからないまま走りつづけた。  角を曲がるごとにあのひとが立ってるんじゃないかと不安だったし、今にも肩を捕まえられるんじゃないかという焦りもあって、気が気じゃなかった。  どこをどう走ったかわからない。  気づくと、団地の脇にある小さな林のなかにいた。  自分が激しく呼吸を繰り返している声と、カランカランと竹がぶつかりあう音だけが耳に聞こえる。  後ろを振り返ったが、俺を捕まえようとする影は無かった。  座り込んで、びしょびしょの体をさする。  体中のあちこちが痛い。左足は熱を持っていて、じんじんする。  コンビニの袋からスマホを取り出した。指が笑ってしかたがない。  必死に大窪のアドレスを呼び出していて、ふと、情けなさとも悔しさともつかない感情が沸き起こってきた。 ―― なんなんだ、俺の人生は。  こうして逃げ続けているだけじゃないか。  これじゃ、高校の頃とまるで変わらない。  息を殺して、ただ時間が過ぎるのだけを待っていた、あの頃と。  俺は自由を知っている。  あのひとが現れるまでの約1年間、3月のあの日までは、俺は自由だった。食べたいものを食べ、寝たいときに眠った。会いたいひとに会って、やりたいことだけ出来た。  なのに、今は、逃げて、隠れて、誰にも会わず、息を潜め、怯えながら暮らしている。 ……こんなのは、嫌だ。  こんなの、俺がいないのと一緒だ。  死んでいるのと変わらない。  しかも、大窪がいい奴なのにつけこんで、あいつに甘えて、その背中に隠れて、ひたすら迷惑をかけっぱなしで生きている。俺は、あのころよりたちが悪い。  大窪のアドレスを見つめる。 (抜け出すなら、今だ。)  このままこの町を出て、あのひとの知らない、大窪にも迷惑をかけない場所で、ひとりで暮らすべきだ。  そうだ。もう俺は、ひとりでも生きていける。  次に住む町は、あのひとからも大窪からも、うんと遠い場所にして、そして、バイトでもなんでもいいから、誰かに、俺が自由に生きていることを、知っていてもらいたい。  あのひととの「契約期間」が終わる来年の2月まで、せめてそれぐらいの自由は許されるはずだ。  目を閉じて、スマホの電源ボタンを押そうとした、そのとき――

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